ケイケイの映画日記
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2007年05月27日(日) 「パッチギ! LOVE&PEACE 」


昨日観て来ました。いっしょに観たのは共に感激した前作「パッチギ!」も観た友人で、彼女は韓流ドラマ大好き主婦で、私なんぞよりよっぽどハングルもわかっているという御仁。しかし親韓派と在日二世の私という、この映画へは好意的なはずの二人の感想は、観終わって異口同音に「前の方が良かったな」でした。丹念な時代描写や、在日の当時の暮らしぶりの再現など、印象に残るシーンも数々ありましたが、あれこれ詰めすぎて作品が散漫になっていたし、差別を問題提議しているにしては、作りが甘いと感じました。今回ネタバレです。オマケに長いっす!

前作より6年後の1974年、アンソン(井坂俊哉)は妻桃子を亡くし、息子チャンス(今井悠貴)は難病の筋ジストロフィーにおかされていました。オモニ(キムラ緑子)と妹キョンジャ(中村ゆり)と共に、治療のためヘップ業のサムチュン(伯父)を頼り、上京していました。焼肉店に勤めるキョンジャは、その愛らしさからスカウトされ芸能界へ。トントン拍子に売れていくキョンジャですが、当たり前のように在日であることを隠すように言われ、疑問が募っていくおり、太平洋戦争を描く作品のヒロインに抜擢され、苦悩は深まります。

最初続編が作られると聞いた時、悪い予感はしていました。「パッチギ!」が幅広く好評価を得たのは、青春モノだったからだと思っています。社会を知らない未熟な、しかし善良な日本人男子を主人公に、誰にでも理解し易い人種の壁を越えた恋を絡めて、何故差別があるのか、当時の在日の生活は心情は?などを実に繊細にストーリーに折込んでいて、大変感心したものです。

青春を描くことは、次代に明るさを予見させるのも容易です。そして差別を描くのも、よくは知らないが大人の受け売りという部分もあるはずで、まだまだ対等に描くことも可能で、その辺日本の人にも逆差別感が起こらず、観易かったのも好評の要因だったと思います。しかし大人を描くと、これはなかなか日本の人に納得してもらうのは容易ではないはず。その危惧が当たってしまいました。

まずは順を追ってから。電車内の暴動で、結果的にアンソンたちに加担した結果になり国鉄をクビになった佐藤(藤井隆)の心情は、良く理解出来ました。彼は東北出身でのちに孤児院で育ったと告白します。訛りの抜けない純朴な若い佐藤は、東京で友人も少なかったのでしょうか、クビになった早々、暴動後焼肉屋に誘ってくれたアンソンを尋ねたのはわかる気がします。そこで腰を痛めた彼に、「今日は泊まっていき」と初対面の自分に言ってくれた、オモニの優しさは身に染みたでしょう。在日の良き面である人情の深さに、親兄弟を知らない彼が魅かれていったのは自然でしょうし、東北というのは地理的に在日韓国人は少なく、存在自体も初めてみる佐藤には、差別心が当初から湧かなかったとも思われます。金塊の密輸に加担したのも、佐藤のアンソンへの義侠心の表れかと感じました。佐藤の口ずさむ「傷だらけの人生」は、上手く機能していました。

しかしこのことに対するアンソンの態度はどうでしょう?自分たちの身内意識で佐藤を巻き込んだなら、彼を置き去りにあのまま逃げてしまうのはどうでしょうか?いくら佐藤が自ら犠牲になってくれたとは言え、後のフォローは?「お前出てこれたんか?」」と笑顔は何事?例え難病の息子がいるにしろ、思い直して自分も警察に出頭せねば卑怯です。その上黙秘権で出てこれた、チクった船長も証言を翻したとは、あまりにご都合主義。この時代拉致問題も水面下で囁かれ始めていた時でしょうし、北朝鮮のスパイが暗躍しているという噂もありました。密航もあったでしょう。そんな時代海辺で起こった朝鮮半島絡みの事件で、これで済ますのはいかがなものか?普通は釈放して泳がす、ではないでしょうか?日本の警察や公安は、こんなに甘くはないはずです。

キョンジャが芸能プロへ入ったのは、チャンスの治療のためにお金が要るからでしょう。確かに就職差別も顕著だったあの時代、在日が大金を掴むのは芸能界とプロスポーツが手っ取り早かったと思います。アイドルの水泳大会で見せるキョンジャの気の強さに私はクスクス。上手く在日女性を表していました。愛した先輩俳優(西島秀俊)の表裏に翻弄され傷つくキョンジャは、当時こんな思いをした在日女性もたくさんいたろうなぁとしんみり。その後役を取りに行くため大物プロデューサーに抱かれに行くキョンジャには、褒めてあげたい気になりました。同じように「人種が違う」「三国人」など罵られ、自分見下げて遊び相手としてしか見ていない男なら、より力のある男を選ぶのは当たり前です。一見男に、運命に、弄ばれているようなキョンジャですが、男を食ってのし上ろうとしてるのは、キョンジャの方です。これくらいの根性やしたたかさがなければ、あの時代は世に出るのは無理だったのだろと思います。

しかしせっかく取った役なのに、あの舞台挨拶は何?映画は主演女優のためだけのものではありません。プロデューサー・監督・脚本・撮影・俳優・その他諸々の裏方さんの力が結集したもののはずです(一番権限が強いのはプロデューサーでしょうが)。それを様々な考え方があって当然の戦争について、自分の主張をハレの場所で朗々と語るとは。幾ら涙を流して話す事実であろうが、芸能界を引退する気であろうが、ぶち壊して良いことにはなりません。これを在日の芯の強さのように描くとは、正直呆然としました。在日であるという以前に、プロの俳優としてあってはならないことだと感じました。

あの時代、あの場面で自分の出自を告白したり、明確な自己主張出来るほど、在日の心は強くなかったはずです。確かにキョンジャのような人もいたでしょうが、お腹が膨れるほど言いたいことを我慢し、自分が在日という事を隠しながら、その葛藤と戦ってきた在日が如何に多かったか、一番知っているのは製作の李鳳宇だと思うのですが。そちらに焦点をあてる演出の方が、観客に感情移入や理解してもらいやすかったように感じます。私が前作で一番秀逸だと思った場面は、チョドキの葬式で笹野高史の語る演説ではなく、チョドキが康介に語る、「俺もほんまはけんかするのん、怖いねん。角を曲がったら100人くらい待ち伏せされてる夢みるねん。」というセリフだと思っています。

戦争映画に出演するキョンジャに呼応するように、日本兵としての徴兵から逃れるため、脱走兵となるアンソンたちの父ジンスンの若き日が描かれます。この事実がフィクションかノンフィクションかは、私にはわかりませなん。しかし脱走兵となっても生きて帰ろうというのが支持されるのは、今の価値観ではないでしょうか?戦争場面を挿入したいなら「俺たち在日は弾除けだ」という会話で充分だと思いました。戦地の場面はなかなか迫力があり、見応えがありました。しかしサモアの人は、当時腰ミノだけで裸で歩いていたんでしょうか?本当にそうならいいのですが、過度の土着性を強調して演出しているのなら、疑問が残ります。

過去の事柄を描くのは、とても繊細な感覚が必要だと思います。事実は一つでも歴史観には必ず表裏、様々な感想があるもので、充分な注意が必要です。何故ならこの作品は「在日を描く日本映画」のはず。日本の中での在日の存在を、自然なものとして認めて欲しい意図があるはずです。ネットや巷を席巻する謙韓派を納得させるには、全体を通してこの作りでは、配慮が足りないと感じ、反って隙を与えることになったかもと感じました。

在日の風景は、ごま油にメリケン粉を混ぜた物を湿布として使うのは、私の祖母も日常にやっていました。チャンスの病を祈祷で治そうとする場面は、実は体が弱かった私も経験があるんです。これも一世の祖母が巫女さんを呼んで行いました。オモニが一万円札を数枚、お供え物に突っ込んでいたのがおわかりになったでしょか?お金がないのにこんなバカバカしいことをやっていたんだなぁと、苦笑しながらも懐かしく思い出しました。今はとんとお目にかからない風景です。

一新されたキャストは、私は健闘していたと思います。井坂俊哉は子供を持ち大人になったアンソンに似つかわしかったし、中村ゆりも清楚で好感が持てました。二重の幅が両目違うのが、当時のアイドルはよくあったこと。皆知らない間に整っていましたが、キョンジャがあのまま芸能界にいたら、同じ幅になっていたかもです。

絶品はキムラ緑子。「私が白蛇殺したからや〜!」と、場所も相手も関係ないく号泣・絶叫する場面は爆笑。ところかまわず感情を爆発させるのは、在日にはよくあるところで、我が身を振り返り反省しつつも、別にええがな、と思う私もいたりします。忘れちゃならないのがチャンス役の今井悠貴。関西弁も完璧で、演技も大変上手でした。しかしチャンスの難病についても、あの終わらせ方は不明瞭でいただけません。

様々な事柄を詰め込んだあまり、オモチャ箱をひっくり返して終わった、そんな感想です。私自身は特別胸を張るわけでもなく、大きな顔をするわけでもなく小さくなるわけでもなく、日本に生まれた韓国人として、自然にこの国で生活しています。国籍は韓国ですが、私の過去も現在も未来も日本にある訳で、私に取っては一番大切な国です。なら何故日本人にならないかと言われそうですか、日本人になるのは、今の私とっては寂寥感の伴うものです。そういう微妙な感情を描くのは難しいものなのだ、と今回感じました。朝鮮大学を出て日本で確固たる地位を築きあげているプロデューサーの李鳳宇の心境も複雑なのでしょう。ラストのアンソンがチャンスに語る「ウリナラ(祖国)へ帰ろうか?」というウリナラは、北朝鮮です。現在の北朝鮮の状態を日本で暮らす李プロデューサが知らないはずはなく、私は彼の深いため息のように感じました。


2007年05月24日(木) 「恋愛睡眠のすすめ」


私が大好きな「エターナル・サンシャイン」を監督したミッシェル・ゴンドリーが、脚本も担当した作品。「エターナル・サンシャイン」は、才人チャーリー・カフウマンの脚本にばかり目が行きましたが、この作品を観て、それはゴンドリーが監督したから好きだったのだと改めて確認。感想が賛否両論だったので、可愛い映像だけでも楽しめたらいいかくらいの気持ちでしたが、意外や中年の私にも、このビタースウィートの味わいは、とても好感触でした。

メキシコで暮らしていたステファン(ガエル・ガルシア・ベルナル)は、メキシコ人のパパが亡くなり、別れて暮らしていたフランス人のママ(ミュウ=ミュウ)の元に呼ばれ、花のフランスにやって来ます。隣には知的で心優しいステファニー(シャルロット・ゲンズブール)が越して来て、ステファンは彼女に恋します。しかし奥手で気の弱いステファンは、仕事も恋も冴えない日々で、彼女の心を掴めません。日々のストレスからか、子供の頃から夢に逃避するステファンの兆候は一層加速し、やがて現実と夢との境がわからなくなってしまいます。

ステファンの観る夢は、まるで「ポンキッキ」か「ウゴウゴ・ルーガ」の世界。大人の観る夢を、クレイアニメやイラストも多用し、その中に大の大人の観る夢なので、セックスへの期待や仕事の成功も描かれます。セロファンの水、綿の雲、フェルトの馬、段ボールの自動車。描かれる世界はとてもファンタジックで、この辺は私の好みにとても合いました。夢の内容が大人でも、描き方がお花畑がいっぱいのメルヘン兄ちゃんなのは、ステファンがアダルトチルドレンであると言いたかったのじゃないかと思います。

彼の寝具は、まるで小学生の男の子の使う柄でした。ガラクタに囲まれた部屋も、オタクというより整理のつかない子ども部屋です。その布団からママに電話して泣き言を言うステファン。彼の少し病的な睡眠障害は、6歳の頃からだとママは言っていたので、離婚した両親の不仲から、逃避したかったことから起因するのかも知れません。最初ステファニーを「パパと似ている」と表現するステファン。彼女は愛らしい容姿・囁くような喋り方に似つかわしくない、大きな手の持ち主です。シングルで子供を育てる方は、性に関係なく父性・母性、両方をフル回転させなきゃならないので、とても大変。臆病で冴えない、でも繊細で純粋なステファンからは、亡きパパの人柄が偲ばれます。ステファニーの大きな手と優しさは、ステファンに懐かしい「パパの母性」を思い出させたように思うのです。

対するステファニーも、30過ぎくらいでしょうか、派手なことが嫌いの地味な性格。美しく芸術的センスも良いのに、自分独りのメルヘンの世界に、やはり逃げ込んでいるように思えます。いわば似た者同士。ステファンとステファニーという名前は、それを表現していると思います。普通なら「あんた変よ」でお終いなはずのステファンを理解しようとする姿は、自分も恋愛に不器用だからでしょう。友人のハツラツとしたゾーイとは対照的ですが、彼女に恋人でも取られたことがあるのかな?そう思わすような脚本で、ステファンとの恋に逃げ腰な様子に説得力がありました。この辺きめ細かく後半で描かれるので、彼女の女心も思わず抱きとめたくなります。

恋愛に奥手なのは、いけないことでしょうか?自己主張が弱いのは責められることでしょうか?出会ったばかりの相手とすぐセックスしたり、人を押しのけ上に向かうことしか知らない人より、私にはこの二人のような人たちの方が好ましく思えます。ステファンは、やはり治療が必要な状態だと思えました。監督自身を投影させているというステファンの、その状態を愛らしくユーモラスに表現しているのは、世界中にたくさんいそうな、繊細な精神状態の若者への、デリケートな心遣いのように感じます。

主役の二人は絶品で超チャーミングです。気の弱い冴えない男の子なんて、あの美形でラテンのフェロモンだしまくりのガエルが、どう演じるんだろう?と思っていたのですが、これが全然違和感ありません。カタコトのフランス語も披露し大健闘で、約の幅が広がり、欧米どこでも通用する俳優だと証明された感があります。シャルロットはもう30半ばのはずですが、相変わらずの透明感と清楚な雰囲気、母親(ジェーン・バーキン)譲りの「攻撃的でない胸」は、お母さんとは違うベクトルの魅力があります。とにかくこの二人でなかったから、ここまで気に入る作品ではなかったと思います。

脇のユーモラスな同僚や友人たちも良かったです。生々しく俗っぽいステファンの同僚・ギィと、発展家らしいゾーイの存在も、対比しながら臆病者の二人を応援している様子が、暖かでした。

ステファンの混迷の度合いと共に、観客にもどれが現実か夢かわからなくなって行きます。私はステファニーは絶対ステファンを裏切らなかったと思う。彼女はいつもジーンズなんですから。「エターナル・サンシャイン」でケイトの髪の色で表現していたように、少しずつヒントもありますから、お見逃しなく。ラストは本当に切なくほろ苦いです。でも私は希望のあるラストと取りました。カウンセリングは二人だけではなく、ママもいっしょにね。私はステファンの、「パパといっしょにメキシコに戻ってごめんね」の優しさには、涙が出ました。


2007年05月22日(火) 「女囚さそり 第41雑居房」(レンタルビデオ)

どこまで続くぬかるみぞ。「怨み節」もフルコーラスで歌えるようになってしまった今日この頃、やはり観てしまいました。明日は「恋愛睡眠のすすめ」観に行きますから、どうぞ許して下さい。昨日と今日は息子が中間試験中だったんですが、勉強の途中で息子も横で観ておりました。母としてこれでいいのか?と言う問題ですが、まーもう中三だしね(微妙にずれている問題の争点)。でも鑑賞中の息子の一言のお陰で、この作品の意図がわかったような気がします。

服役中の松島ナミ(梶芽衣子)は、看守長(渡辺文雄)の壮絶な拷問に合い、地下の独房に一年入れられていました。しかし別の場所へ護送する時、他の女囚たち(白石加代子・賀川ゆき絵・荒砂ゆき・八並映子・伊佐山ひろ子・石井くに子)といっしょに逃亡。追い詰められた果てに、バスジャックします。

法務省からのえらいさん(戸浦六宏)の巡間のため、一時的にナミは表に出られることに。渡辺×戸浦のツーショットに深く感じるワタクシ。だってこの人達、東大卒(渡辺)と京大卒(戸浦)なんですのよ。本当にこんな仕事していたかも知れない人たちがこんな映画に出て、隻眼だわ失禁だわさせられて(!)、そのアバンギャルドさに私は目がくらくら。ちなみに今を去ること30年前、私の高1の時の担任は京大の工学部を卒業した先生でした。先生いわく「同期は400人くらいで、教職の資格を取ったのは4人。その内本当に教師になったのはボク独りです。親は泣きました。」というくらい、末は博士か大臣か?だけの時代に、こんな役を引き受ける二人に好感を持つワタクシ(多分歪んでいる感想)。

が、戸浦六宏のための女囚大集合で、私は驚愕の発見をするのです。
若かりし頃の白石加代子は、今をときめく蒼井優にそっくりという件について。














嘘じゃないんだってば!!画像はこの作品の白石加代子でないのが残念です。センター分けのサラサラヘアの当時三十路ちょっと過ぎくらいの白石加代子は、びっくりするほど優ちゃんに似ていました。そうかぁ、優ちゃんもあと20年くらいしたら、白塗りの怪女優と呼ばれるのね(絶対違うと思う)。

おかげで冒頭の高圧水流のホースで水攻めに合う梶芽衣子の奮闘は、すっかり私の中で影薄くなってしまいました。しかし次の女囚の面前で、懲罰と称してナミを看守に輪姦させる件は、そう簡単にはいきません。あまりに下衆で正視に堪えないのですが、渡辺の「これは仕事なんだ」にはいくらなんでも、やりすぎの感があります。逃亡中の女囚を見つけたバスの観光客(前回の「さそり」で、女囚に強チンされた腹いせか、小林稔次がまたいた)は、警察に通報する前にやはり輪姦して死体は遺棄。あまりにもありえない展開に、いくら男性向けでもなぁと気分を害する私でしたが、その前のバスの中で、戦時中、中国人女性を銃で脅して暴行した自慢話をする虫唾の走るような中年男の話が耳に残ります。

欧米では女囚ものというと、お色気とバイオレンス中心で、何故受刑者がこのように転落したかというのは、あまり描かれません。しかし日本ではテレビドラマでも、女性受刑者の犯罪の影には止むに止まれぬ事情や、その影に男の存在があることを描いています。この作品もそう。浮気した亭主への腹いせに我が子を殺し、お腹の中の子まで殺したり(もちろん演ずるは白石加代子)、子供に暴力をふるう再婚相手を殺したり、不倫相手の妻を殺したり、自分を手篭めにする継父を殺したり。劇中で何も殺すことはないだろう!というセリフと共に、彼女たちをいたぶる幻想場面が出てきますが、殺すことはないという正論を認めつつ、哀しい彼女たちの過去を思うと、罪を憎んで人を憎まずという気持ちも湧いてきます。

女囚をレイプした男達を丸裸にしていたぶり、恐れる目で彼女たちを見るバスジャックの観光客女性に、「私たちは自分と違う世界の人間だと思ってんだろう!」と罵声を浴びせる女囚たち。きっと観光客は私たちなんでしょう。扇情的に女囚たちのどうしようもないほどの凶暴さ、あばずれぶりを描きながら、ありえない看守たちの横暴さを描きながら、その奥にある哀しさにも目を向け、一歩間違えれば誰にでもある転落を感じさせます。だからこその受刑者の人権にも思いを馳せて欲しいとの、作り手の思惑も感じました(深読みか?)。そう思うと、渡辺文雄も戸浦六宏も、出身大学でキャストしたのかと、これまた思ってしまいます(多分勘違い)。

「何でこんな綺麗な人が、この映画に出てたん?」との息子の言葉が、梶芽衣子にナミをやらせた理由でしょう。ただのエログロバイオレンスではなく、その奥にある真実を観客に見つけてもらうには、梶芽衣子の強くて気高い美しさが必要だったんだと思います。いたぶられても陵辱されても、人としての誇りを失わない輝きも。何と実のある質問。偉いぞ、息子!

ラストお約束の復讐場面では、また息子が「すごいな。あんなに刺して返り血も浴びてないなんて。」とゲラゲラ。そう、この作品は事実なんて何にも描いていないのね。大切なのはエログロに包まれた奥の、真実を感じることなんだと思います。

「この人、この後どんな映画に出たん?」と息子を心配させた梶芽衣子。普通の作品にもたくさん出て、大女優になったよと言うと、安堵していました。私の屁理屈なんか置いておいても、SM好きさんにはご満足いただけるシーンも満載、30年前から白石加代子は白石加代子だったんだなぁと、感慨深いもんもある作品です。荒野を逃亡する女囚たちは、囚人服の上にマントを羽織っていることもあって、ちょいマカロニウェスタン風でカッコ良く、三作観てこの作品が一番好きです。


2007年05月13日(日) 「県警対組織暴力」(レンタルDVD)

名作の誉れ高いこの作品、最近のマイブームのお陰でやっと観ました。タイトルからすると、警察とヤクザ組織の対立の構図を描いているみたいですが、中身は新旧二方に押し寄せる時代の波に乗った者、乗り遅れたのではなく自ら乗るのを拒んだ者、それが描かれていました。「仁義なき戦いシリーズ」同様、監督深作欣ニ、脚本笠原和夫。出演者もほぼ同じですが、同じヤクザ組織を描いても、鑑賞後の感想はかなり趣が異なるものでした。

昭和32年の架空の都市倉島市(多分モデルは広島)。そこで起こるやくざの抗争劇、警察とやくざの癒着、甘い汁を吸おうとする元やくざの市会議員や県会議員、警察内のキャリア組と叩き上げの確執などを描いています。

部長刑事の久能(菅原文太)は、大原組の広谷(松方弘樹)の心意気に触れ、6年前の三宅組組長射殺を黙認します。ここから刑事とやくざとの間にあってはならない、義兄弟のような関係が始まります。表面だけを見れば、情報を渡し接待を受ける久能や吉浦(佐野浅夫)のような刑事は悪徳でしょう。しかし取調べの凄まじい暴行や脅迫まがいの様子を映しても、作り手はそれを紛糾しているように感じません。当時の世相からは、それは必要悪のようなものだったのでしょう。それに叩き上げの刑事たちには、やくざと言ってもピンからキリまで、質を見極める自分の目に自信があったのだと思います。

しかしキャリア組の若い海田(梅宮辰夫・全然若くもキャリア組にも見えない)が班長として赴任し、そのピンキリ関係なく暴力団一掃を掲げると、久能たち叩き上げとの確執が始まり、広谷たちとの亀裂が生まれます。

この辺の描き方は、格差社会の是正がテーマの現代にも通じるものがあり、色々考えさせられます。久能と広谷の関係は、言わば男心に男が惚れたような関係です。しかし表向き一掃を掲げる海田も、実はやくざ上がりの市会議員友安(金子信雄)やよそ者の新興ヤクザ川田(成田三樹夫)と手を組んでいますが、それは私利私欲が絡んでの事だとは明白です。どんなに地道に努力しても、叩き上げの刑事たちは学歴がなく昇進試験に合格しなければ、上の警部補にはなれません。この辺の描き方はヴァイオレンス場面の谷間に挿入しているのが上手く、とても心に染みます。

「仁義なき戦い」シリーズでも唸るような名セリフが満載でしたが、この作品でもセリフの秀逸さが光ります。吉浦の語る「ヤクザも刑事も同じようなもんさ。仁義の代わりに法律があるだけ」というセリフには感嘆。やくざを取り締まるには、彼等と同じ位置まで自分を下げ、毒を喰らわば皿までの刑事たち。しかしその紙一重の違いの重さも、的確に哀しく描けています。

久能が若い海田に、天皇から当時子供だった海田まで戦争責任を取れ、自分もお前も同じ人間ではないかと詰め寄る場面も考えさせられます。終戦時監督の深作は思春期で、戦後180度変わった価値観に愕然とさせられたと読んだことがあります。これは監督だけではなかったでしょう。この時代はまだまだ自分の生き方を模索しながら生きていた方々が多かったのだと感じます。それは底辺のやくざでも、一般人からは格上に感じる刑事もにも格差があり、同じような気持ちを抱いている者もいるのだと描いると感じました。

広谷の叫ぶ「俺はアンタ(久能)の旗じゃねぇ!自分の旗は自分で振る!」の言葉には、描かれた当時の多数の国民の、上から押さえつけられてきた反動と、自我の目覚めのように感じます。ラストの海田と久能の明暗を分ける対比は、まるで今の時代のような閉塞感でいっぱいです。すごいなぁ監督。底辺に生きる不器用な者達への眼差しの哀歓に、監督の言いたかったことが込められたいたと感じました。

魅了されっぱなしの深作&笠原コンビですが、他にもまだあるようなので、これからもボチボチ観ていきたいと思います。遅すぎた東映実録モノのマイブームですが、若い時に観ればここまで理解や感激が出来たかは疑問なので、今がちょうどいい時なのでしょう。年を取るのも悪くないです。


2007年05月10日(木) 「クィーン」

昨日のレディースデーに観て来ました。劇場は家や職場からも比較的近く、私の好きな敷島シネポップ。近隣に大型シネコンが出来たせいか、拡大公開とミニシアター系作品の中間的作品(私が一番好きなタイプ)が最近よく公開されて、嬉しい限りです。しかしこの一週間、やくざと女囚ばかりと仲良くしていたため、頭が切り替わらず、格式のあるロイヤルファミリーの苦悩には、あまり面白さを見出せませんでした。興味深くは観ましたが。本年度アカデミー賞最優秀主演女優賞受賞作(ヘレン・ミレン)。オスカー受賞式のミレン、最高に綺麗でしたね。

1997年8月の末、チャールズ皇太子(アレックス・ジェニング)と離婚後も、大衆から絶大な人気を得ていたダイアナ妃が事故でなくなりました。ダイアナ妃は王室を離れた民間人なので、公式の声明は出せないというエリザベス女王(ヘレン・ミレン)。同調する皇太后(シルビア・シムズ)と夫のエジンバラ公(ジェームズ・クロムウェル)。その頃就任早々のブレア首相(マイケル・シーン)は、早々に声明文と国葬にすることを発表。王室が追悼の反旗も掲げず、何も行動を起こさないことに苛立つ英国民。ブレア首相は、粘り強く女王に姿勢を変化させることを交渉します。

まず字幕なんですが、ずっと「ダイアナ皇太子妃」と出てくるのです。彼女は離婚後「プリンセス・オブ・ウェールズ」の称号は残ったものの、皇太子妃ではないのに、ずっとこの呼称でイギリスでは呼ばれていたんでしょうか?普通にダイアナ妃ならわかるのですが。日本ではわかりやすくダイアナ元妃でした。これは字幕の間違い?(翻訳は例のアノ人)。この辺事情に通じている方にご教授お願いしたいです。

常識的に考えれば、全然女王は間違っていません。離婚した元嫁、それも劇中でブレアが叫んだように、如何なる理由があるにせよ、ダイアナ妃は女王に後足で砂をかけて出て行った人です。形式的にも感情的にも理解出来ます。しかし50年に及ぶ長き在位の中、誰よりも国民の幸せを願い、知っていると自負していた女王は、その国民から背かれます。時代の流れと一言では言い切れない無念さが去来したその胸中を、ミレンは威厳をもって演じています。

エリザベス二世と言う人は、あの世紀の王位を捨てた恋を貫いた伯父エドワード八世が退位したため、次の継承者である実父が即位。短命であったため、20代半ばで女王として即位しています。以前エリザベス女王関連の記事を読んだ時、女王は父が即位した時から、自分に弟が生まれることを熱望したと読みました。運命に逆らわず、良き君主であることを一番に生きた女性です。

対するダイアナ妃も20歳そこそこで皇太子妃となったときは、まるで御伽噺の王女様だったでしょう。愛人と縁を切ろうとは思っていない夫(とその愛人)は、組し易いと思って選んだ少女が、人間として自我に目覚め、成長していくとは想像出来なかったのでしょうか?国を超えて世界中に沸き起こるダイアナ人気も誤算だったことでしょう。ダイアナ妃が大衆を観方につけ、自分の意思を明確に示し、強く逞しくなっていくのを、女王は嫉妬や羨望の気持ちを抱いていたように感じます。自分には決して許されないことだったから。

自分の感情を捨て国民の思いに添うた女王は、今まであらゆることを受け入れ続けてきた彼女としては、断腸の思いではなく、一つの進歩だったように感じました。

英王室も認めている作品らしいですが、それはどんな場面でも威厳と品格と知性を保つ女王を、描く以上に素晴らしい女性に演じたミレンの好演ではないかと思います。ブレアが段々と女王に親しい感情を持ち、まるで息子が母を守るようになっていくのが印象的でした。しかしチャールズ皇太子はバカ息子だと描かれているし、エジンバラ公も皇太后も毒のある人に描かれています(チャーミングだが)。日本の皇室をこうは描けないと思うので、やっぱり英王室は開かれているんですね。しかし愛人をそのまま皇太子妃にするという、一種厚顔無恥な王室でもありますから、どちらが良いとは言えません。

開かれていると言えば、女王が四輪駆動の車を自分で運転するのにはびっくり!バーベキューの場面では自らお給仕するし、本当なんでしょうか?ブレア首相は自宅で皿洗いまでするし。ブレア夫人も本当にあんなに夫のすることに口出ししたり、亡くなった姑のことを冷やかすような口を聞く人なのからし?

どこまで真実でどこまでフィクションかは、私にはわかりません。全体にソツなく出来ていますが、やっぱり私はあんまり面白くはなかったです。でも現役の王室の人々がモデルになった作品と言う、画期的な作品ですから、ミレンの演技以外でも、観る価値はアリだと思いました。女王とブレア首相の人気回復には、確実に貢献する作品だと思います。


2007年05月08日(火) 「女囚701号 さそり」(レンタルDVD)

実に素晴らしい!作品じゃなくて梶芽衣子が!元々好きな人でしたが、完璧に惚れました。昨日梶さそりを「どんくさくて、ちょっとがっかり」と書いて、ホント申し訳なかったです。すみませんでした!!!

松島ナミ(梶芽衣子)は恋人の刑事杉見(夏八木勲)のため、囮捜査に加担。相手にばれて輪姦されてしまいます。そこへ杉見が登場しますが、彼は自分の出世のため、ナミを利用したに過ぎませんでした。怒り狂うナミは、杉見を殺そうとしますが、失敗。裁判でも何も語らず服役することに。ナミが収監された刑務所は所長(渡辺文雄)の監督の下、懲罰と言う名の受刑者への暴行や食事抜きなどが大びらに行われている、凄惨な場所でした。ナミが生きている限り、いつ自分の身に危険が迫るかわからない杉見は、受刑者の一人片桐(横山エリ)に、ナミを殺すよう命じます。

この作品を借りてきたと夫に話したところ、「当時の観客は何を期待して、この作品を観たと思う?」と聞かれて、「さぁ。バイオレンス?」と答えると、「ちゃうちゃう。女子刑務所ってどんなところか、覗き見したかったんや。それだけの作品や。」ときっぱり言うのです。確かに女囚物は一つのジャンルで、キャットファイト、女囚のヌード、同性愛、看守との肉体関係など、こういうものが盛り込まれているのが必須アイテム。この作品にも存分に織り込まれてはいますが、「さそり」については、女囚物という連想より、ずばり梶芽衣子が真っ先に連想されるんじゃないでしょうか?

冒頭脱獄するナミとユキ(渡辺やよい@「けもの部屋」と同じ役名、でも違う人。)のシーンから、犬に噛みつかれるわ警棒で殴られまくるわ、もう大変。女囚物では不自然に厚化粧のままの人も多いですが(それはそれで場末感が出てグッド)、二人とも綺麗なのでナチュラルなメークです。そしてさそりお得意の睨み。これが最初から炸裂してます。

輪姦シーンはびっくりしました。「広島死闘篇」では濡れ場で浴衣着用だった梶芽衣子ですが、その前年に作られたこの作品では、服を破かれ乳房が露出しています。それが昔懐かしい白のブラスリップなのが、ナミの普通の女性さ加減を感じさせます。そして杉見を刺しに行く場面では、マントを脱ぐと暴行されたまんまの格好で向かっていきます。そう、片乳ほりだしてドスを振り回すのです。この場面、衣服着用と片乳じゃ、ナミの激情を表現するには雲泥の差です。後半にはレズシーンまでこなしています。梶芽衣子はこの当時本名の大田雅子から改名して間もない頃だったはず。それなりに売れてはいた人の、この根性ぶりにまず惚れてしまいました。

それ以降も下劣な看守たちに、人権蹂躙も甚だしくなぶりものにされたり、これまたあばずれ満開の同じ受刑者たちに、これでもかといたぶられるのですが、ナミは決して弱音をはかず、それどころか向かう気満々。それが饒舌に語られるのではなく、全部目と表情で表現しきってしまうのがすごいです。

確かに夫のいう事も一理あるのでしょうが、観客が熱狂したのは、ナミのこの孤高の姿なのではないでしょうか?とにかく格が違うのです。それを表現するのに、梶芽衣子のクールな美貌は、本当に気品がありマッチしていました。とにかく強くてカッコイイのです。今の時代はカッコイイ女性もいっぱいですが、当時の女優は女性らしさを中心に求められていたはずで、どこかウエットな女心を忍ばせている人ばかり描かれていたはずです。劇中のナミのクールさを補うのが、梶芽衣子自ら歌う「怨み節」だったのですね。惚れ惚れしたので、自ら語る「三年前まで私は普通の女だった」人が、いったいどこでこんな戦闘能力を身につけたのか、一切不問にしたいです。

他にも全編夫の言う見どころは満載で、盛り上がりっぱなし。受刑者のオールヌードはバンバン出てくるは、三原葉子はパンツ丸見えでサイコロ振るは、あげくに歌舞伎メイクで裸でナミを追いかける姿は急に照明が変わり、ホラーっぽいです(爆笑もんですが)。扇ひろこが謎の受刑者で出てきて、三原のいかさまを見破り、「素人相手にこんな真似すんじゃないよ!」(刑務所の中なんですかー)、と言うだけで、過去は語られませんが、この人も昔別の映画で壷を振っていたのを知っている観客には、説明は要らんかったんでしょう。

想像を超えるあまりにあまりな場面ばっかり見せられた私は、それ行けー!やれー!いてまえー!と、ナミが自分をいたぶった相手を次々しとめ、復讐を達成する様子には、溜飲が下がりまくりでした。極悪のやくざにしか見えない看守や、下品ではすっぱばっかりの受刑者の中、ユキ役の渡辺やよいは一服の清涼剤のよう。彼女は「けもの部屋」でも、近親相姦しようが、厚化粧で売春しようが、この作品でも生理の血を流しながら逃亡しようが、とにかく可憐。梶芽衣子だけが際立つ作品だと思っていましたが、渡辺やよいの素晴らしさを知ったのは、収穫でした。

冒頭に「この作品は事実を元にしたフィクションです」と出てきますが、昔はこんなものがなかったら、本当に信じたんでしょうか?だって看守が男ばっかりなんて、ありえません!二作目の「第41雑居房」も是非見るつもり。だって白石加代子が女囚役なんだって〜!


2007年05月07日(月) 「女囚さそり けもの部屋」(レンタルビデオ)

ケイケイの私はどこへ行くんでしょう?シリーズ。本人も定かではございませんが。「仁義なき戦い」シリーズを借りたついでに、「県警対組織暴力」も借りました。もういっちょう、安藤昇も借りたかったんですが、ございませんでした。その代わりに借りたのがこれ。5本で990円なので、「女囚さそり 701号」も借りました。実は我が家はケーブルで借りている地デジ用のハードディスクを使用しているため、DVDはパソコンかプレステ2で観ています。本当は「けもの部屋」は「さそりシリーズ」三作目なのですが、プレステもパソコンもふさがっていたので、こちらから観ました。「さそり」もテレビで観てますが、やっぱり大昔で、どれがどれか定かではありません。しかし昔は、こんなのも平気でテレビ放映していたんですねぇ。

脱獄したさそりこと松島ナミ(梶芽衣子)は、危うく捕まりそうなところを、手錠をはめた刑事権藤(成田三樹夫)の腕を切り落とし、逃走します。墓場で売春をしていたユキ(渡辺やよい)は、ナミと出会い家に連れて帰ります。ユキは事故で頭のおかしくなった兄に、自分の体を与えていました。ほどなくお針子の仕事を見つけ、密やかに生きるナミでしたが、あることから売春宿のオーナー(南原宏治)とその愛人カツ(李礼仙)に素性がばれ捕まります。カツはかつて同じ刑務所でさそりと敵対していたのです。

日本映画史上屈指のクールビューティー・梶芽衣子の若かりし頃と、今をときめく柴咲コウがそっくりというのは、映画ファンには周知のことで、彼女に「さそり」をやって欲しいと言う声もたくさん聞かれるのですが、

絶対無理!!!

とわかる作品です。冒頭から成田ミッキーの片腕をぶらぶら下げて、繁華街を必死で逃走するナミ。しかし走り方が遅い!さそりってもっと俊敏でなかったっけ?その後にユキと出会うのですが、まず墓場で商売するか?という問題。それ以上に手錠を切るため、成田ミッキーの片腕を口に咥える梶芽衣子というのにも、フリーズ寸前。ここ笑うんですか?怖がるんですか?と頭を抱えます。

李礼仙にも爆死させられます。エリマキトカゲのような衣装に、厚さ1cm長さ10cmくらいのつけまつげ、私はディバインが痩せてやっているのかと思いました。

肝心の梶芽衣子なんですが、動きにキレがなくドタドタした様子で、はっきり言ってどんくさい。冒頭あんな一瞬で刑事から逃げたのに、部屋に忍んでいた男(藤木孝)に、何で気がつけへんねん!とツッコミまくる私。ディバインに捕まって顔面水責めのシーンも、「イチ、ニ、サン、ハイ!」というくらいのんびりしたもんで、あんなもん拷問でも何でもありません。ペットのカラス部屋(!!!)に閉じ込められてつつかれるのは、多分吹き替えだと思います(顔が映ってないもんね。本人なら絶対顔を映すはず)。さそりは運動神経抜群で頭脳明晰なスーパーレディだと思い込んでいた私は、意外なさそりのしょぼさにちょっとがっくり。

しかしトンデモ疑惑が私の脳裏をかすめたのを、救ってくれたのは娼婦のユキ。実兄と交わっているのは、事故で知的障害になった兄をなだめ、言う事を聞いてもらうためなのですね。あんな大きなあんちゃん、暴れられたらひとたまりもありません。厚化粧で兄を養うため健気に春をひさぎ、身籠った兄の子を、「獣の子だってアタイの子なんだ!」と叫ぶシーンにはしんみり。わけアリ丸出しのナミをかばったり、身の上からは考えられないくらい、神々しい母性を感じさせます。地下道に潜伏するナミを探すため、ユキが「さそり〜さそり〜」と物悲しく叫びながら、火をつけたマッチ棒を一本一本マンホールに落すシーンは、とても美しいです。

他にも南原&ディバインに無理矢理堕胎させられた、やはり知的障害の娼婦が、血まみれになってナミに見とられて亡くなるシーンも、とても哀しいです。ユキやこの娼婦を見つめるナミの目は、暖かく哀しく切ないです。「さそり」と言う役は極端にセリフが少なく、目は口ほどにモノを言いの女優さんでなくては無理です。そういう意味では梶さそりは最強ではなかったかと思います。後年たくさんの女優さんがさそりを演じていますが、お色気重視の感じで、多分梶さそりとは、別の作りになっているのかも知れません。

「キル・ビル」でも使われた「恨み節」は当時大ヒットし、私もワンコーラスは歌えますが、この作品でフルコーラスを聞き、生理のある女性の哀しさを折込、女に生まれた業と性(さが)を歌っていました。か弱い女性たちの復讐の為に立ち上がるナミと重なります。知的障害者や社会的弱者の怒りと悲しみも、盛り込まれていたと思います。

思い切りデフォルメして刺激的に人の世の哀しさと、底辺の人々の神々しさをを描くこの世界感、誰かに似てるなぁと思ったら、思い出した!キム・ギドク(あくまで私見)。

で、それなりに面白かったんですが、成田ミッキーは何故あのような最後に?彼は職務の忠実だっただけなのに・・・。腕まで切られちゃったさぁ。やりすぎちゃう?>さそり。ミッキーの頭がヅラか?というのと同じくらい、私には謎が残りました。


2007年05月06日(日) 「仁義なき戦い」5部作(レンタルビデオ)

道頓堀東映の閉館上映に触発されてしまい、他の「仁義なき戦い」「代理戦争」「頂上作戦」「完結篇」と、このGW中にすべて観ました。何を今更なんですが、続けて観て圧倒的な面白さと躍動感に感嘆。私にはほとんど初見と言っても良い作品ですし、任侠ものはわからないので、このシリーズを知らない方への入門的な感想になるかと思います。1と2は、ところどころテレビで観たシーンが記憶に残っていましたが、三作目以降は全くの初見です。

製作されたのは1973年から1974年。驚くことに一年半の間に5作作られています。この時代は大人気を博した伝統的なやくざ社会を描いた、高倉健や鶴田浩二、藤純子の仁侠映画の人気に陰りがみえ始めた頃だったそうです。元は網走刑務所に受刑中だった広能のモデルとなった美能幸三が書いた手記が、作家飯干晃一の手に渡り、飯干の手によってデフォルメされたものが週刊誌に掲載されたものが原作です。

普通シリーズ物と言えば、作られるほどにクオリティが下がるもんですが、この作品はそれが全くありません。時代は終戦直後の混乱期から公開当時の頃までの約25年強が描かれており、広島市と呉市という一地方都市のやくざの勢力争いを描きつつ、日本の戦後史とも言える作りになっています。

義理人情に厚く、売られたケンカは負けるとわかっていても買うのがやくざの美学と思っていただろう当時の人々には、この作品の登場人物は強烈だったと思います。二枚舌三枚舌は当たり前、ずるくてせこくて親分子分であろうが、自分の利益になるなら売ってしまう強烈さ。様式美に彩られた昔のやくざではなく、現代やくざの世界を野次馬的に覗いてみたかった観客は、あまりに自分たちの生きる世界と、本質的に似通っていることに面食らったはずです。生き残るには政治力が必要なのです。違うのは極道もんならではの、血なまぐさい暴力事件や殺人事件が起こることです。そして仁義なく生きるだけではなく、誰と手を組めば将来芽があるか、ここは打って出るより我慢のしどころだという場面も出てきて、意外とも言える冷静さと賢さも描いています。

そんな中、シリーズを通じて主役を張るのは広能昌三役の菅原文太です。狡猾さのない一本気な気の強い性格、筋は通すが曲がったこと汚いことには、例え相手が権力者でも一歩も引かない頑固さです。全編通じて一向に上がらない、広能のやくざとしてのコミュニュケーションスキルの低さは、男らしさに通じて爽快です。常に弱小でありながら己の城の広能組を持ち、自分らしく行き続けた広能に、宮仕えの辛さを味わう当時のサラリーマン諸氏が自分を重ねて、男としての理想を見ていたことは想像に難くありません。描かれる25年のうち半分以上ムショ暮らしだった彼だけが、子分に寝首をかかれることもなく、兄弟分に裏切れることもなかった人徳が印象深いです。

反対に小ざかしくてずるくてせこい、と三拍子揃った親分が山森役金子信雄。何度も、はよ殺されんかい!と思いましたが、しぶとく最後まで生き残ります。観ていて腹立たしいのですが、その食えない親父ぶりが絶妙にチャーミング。打本役加藤武の仁侠映画史上最強(いや最弱かな?)の情けなさぶりも楽しかったし、冷静で本当の意味で賢く、自分の感情や立場より組の存続を第一に考えた武田役の小林旭も印象深いです。中間管理職の悲、哀を彼に観る人も多かったと思います。血気盛んだった登場人物たちの、枯れていく心の変遷もきちんと描かれています。

ゾンビ復活と言われるように、あの役者この役者が、えっ?前回死んでるやんの俳優が、別の役、それも主要人物で復活。描き分けに困ってか、眉毛をそったり(梅宮辰夫)、ドーランで顔をドス黒くしたり(結核のため)、やっぱり眉毛をそって強面のキレタキャラにしたり(松方弘樹)と、一回でも観るのを忘れると大変なことに。なのできちんと登場時には、字幕で「○○組組員・だれそれ」と字幕で出てきて、大変親切です。

東映の大部屋俳優がピラニア軍団として世に出てきたのは、有名な話ですが、室田日出男、川谷拓三、志賀勝、八名信夫、小林稔次などの若かりし頃の姿を存分に観られるのも魅力。このシリーズで初めてポスターに名前が載った川谷拓三のような人もおり、初めて脚光を浴びたこのシリーズを足掛かりに、世に出た俳優がたくさんのシリーズでもあります。

公開当時は男性にだけ受け入れられたシリーズかと思いますが、男性と女性の精神的な垣根も低くなっている現在、女性にも受けるシリーズかと思います。私のように観るタイミングがずれて未見の方も多いと思いますが、この感想文を読んで面白そうだと思われた方は、是非DVDやレンタルビデオなどでご覧になって下さい。しびれるような台詞も満載、座右の名が飛び出すかもです。


2007年05月04日(金) 「ラブソングができるまで」


レディースデーの水曜日に観てきました。本当は仕事帰りになんばまで出て、敷島シネポップで「クィーン」を観る予定でしたが、前日「バベル」が精神的に重たく、ヘラヘラした気分になりたかったのでパス(「クィーン」も辛気臭そうだ)。それに「バベル」は絶賛の嵐になると予想した私、見どころはそれなりにわかるだけに、寄らば大樹の陰になっちゃいかんと、早めに「あきませんでした」とカミングアウトしたかったのねぇ。なので仕事終了後速攻帰宅→わっせわっせと感想文を書く→2時40分に家出発で、2時55分からの回を観ました。正直中だるみしたし全体的にヌルかったけど、前日が前日なもんで、私は楽しかったです。

80年代大人気だったポップグループ、”ポップ”のリードボーカルだったアレックス(ヒュー・グラント)。今は鳴かず飛ばずで、往年のギャル相手の余興しか仕事がありません。しかし過去に生きる彼はそれでいいと思っています。マネージャーのクリス(ブラッド・ギャレット)はそんな彼をみかねて、人気絶頂の歌姫コーラ(ヘイリー・ベネット)がアレックスのファンだということを利用して、彼女に曲を提供することで復活させようとします。アレックスは作曲専門で、なかなか良い作詞家が捕まらないおり、自宅に観葉植物の水やりのアルバイトに来ていたソフィー(ドリュー・バリモア)の口ずさむ歌詞に心魅かれたアレックスは、強引に彼女に作詞を担当させます。

まず邦題が秀逸。とてもこの作品を表しています。オープニングが”ポップ”のビデオクリップなのですが、これが当時の曲調にソックリで、オマケにビデオ内での寸劇(?)も、そうそう当時はこんなんだったなと、懐かしさと爆笑の入り混じる気分が最高に楽しいです。今観るとダサダサなんですよね〜、これが。そしてこれが先にご覧になった皆さん方が、随喜の涙を流したヒューの腰ふりかと、私も堪能。

観葉植物の水やりのバイトってなんぞい?そんな仕事がアメリカはあるんですかねぇ。きちんと姉のエストサロンを手伝うという仕事を持っているソフィーが、何故にそんなアルバイトをするのかは、友人のピンチヒッターということでクリアなんでしょ。

ソフィーにはとある心の傷があるんですが、このエピソードはちょっと弱いかな?彼女をもっとピュアな不思議ちゃんであるように描いた方が、深みが増した気がします。でもドリューは可愛かったし、ファッションもセンスよく、年齢に関係なく応用が利きそうな小物使いや靴のセレクトなんかも楽しめますので、まっいいっか。

無事作品が仕上がってから終盤までがややヌルいです。まぁ納得出来なくもないけど、アレックスの人の良い軽薄さは存分に描かれているので、彼の対応はわかるのですが、ソフィーが描きこみ不足なので、何故彼女がそこまで頑固になるのか説得力不足。

しかしそのヌルさを補うのが、キャラの立った登場人物と好演する俳優たち。軽薄で思慮が浅いが善良、腕っ節は弱いが男気はあるアレックスを、いつものかる〜い演技でヒュー様が腰をふりふり熱演すれば、ドリューは愛らしさでソフィーの説明不足を補います。脇のギャレットの売れない歌手とマネージャーの絆は、ビジネスライクというより友情を感じさせて好感です。ソフィーの姉役クリステン・ジョンストンも、気のいい姉御肌でユーモラスな演技に、しっかり妹を守ろうとする心を感じて良かったです。

コーラ役のヘイリーの踊りもなかなかみもの。”ポップ”との対比となって、ミュージッククリップの変遷にもなっています。流れる音楽は今の曲より、”ポップ”の曲の方が好きだわ〜と思う方には、堅い事言わずに楽しめる作品かと思います。

ロマコメキング・ヒュー様はちょっと皺が目立ったけど、日本の永遠の二枚目田村正和は、齢64歳にして娘より若い伊東美咲と恋仲になる映画に出るんですもの、その年齢までヒュー様はまだまだ20年弱あり。これからもライトな魅力でずっと頑張って欲しいです。私もアレックスファンのおばちゃんたちのように、ずっと追いかけるからね〜。


2007年05月02日(水) 「バベル」


久々に映画の日に観て来ました。話題の作品にGWというのが重なり、場内ほぼ満席。イニャリトゥは「アモーレス・ペロス」こそ好感触でしたが、若干違和感が残り、続く「21g」でその違和感は増大。その力量は大いに認めますが、「凡人は相手にしていません」風の描き方が尊大な気がして、イマイチ苦手な人です。この作品も私なりに監督が伝えたいことも理解出来るし、見応えもありましたが、面白くはありませんでした、ときっぱり言ってみる。今回ネタバレです。

モロッコの険しい山間。羊飼いの兄弟が面白半分に試し撃ちしたライフルが、外国人観光客を乗せたバスの乗客に命中します。当たったのはスーザン(ケイト・ブランシェット)。夫リチャード(ブラッド・ピット)とともにアメリカから観光に来ていました。瀕死の彼女ですが、近くに病院がなく逼迫した状態になります。その頃アメリカに残した来た子供達・デビーとマイクの乳母アメリア(アドリアナ・バラーザ)は、リチャード夫妻の帰国が長引き、息子の結婚式のため、メキシコに帰れません。仕方無しに迎えに来た甥のサンチャゴ(ガエル・ガルシア・ベルナル)の車で、子供たちもメキシコの連れて行くことに。一方日本では聾唖の女子高生チエコ(菊地凛子)が、孤独な心を持て余し暴走していました。

またまたお得意の幾つかのお話を繋げ、時空をいじる手法。お得意というか、三作撮って三作ともこれって、普通には撮れないの?ちょっと私はうんざり。確かにモロッコ、メキシコ、アメリカのお話は繋がりますが、今回日本編は無理にくっつけたような印象です。

単独のお話自体は強い印象を残します。リチャード夫妻は末っ子の赤ちゃんが突然死してしまい、それぞれの対応に不信感が湧き、夫婦の溝を埋めるための旅行のようです。何故モロッコなのかはわかりませんが、他の観光客よりかなりこの二人だけ若いようなので、普通は仕事をリタイアした人が観光に選ぶ場所のような気がします。

私は突然死した子供を持つ両親のインタビューを集めた本を読んだことがあるのですが、あるお母さんは、「夫は『早く次の子を作ろう。そうすれば悲しみが癒される』と言うんです。殺してやろうかと思いました。」と答えていらしたのが、強く印象に残っています。もちろん夫も妻を思っての言葉で、決して悲しんでいないのではないのはわかっています。しかし他人が言えば聞き流せる言葉も、同じ亡くなった子の親である夫から聞けば、妻は絶望し殺意さえ湧くのは、私には理解出来ます。こういう時は真正面から悲しみを二人で受け止めたいのが、母親の気持ちなんだと思います。リチャードの「逃げていた僕を許して欲しい」と言葉や、二人のやり取りに、そういう母親と父親の違いがよく出ていました。

モロッコの羊飼いの家は、善良そうな彼の地では平凡な家なのでしょう。兄弟間の嫉妬や微妙な思春期の性を描いていましたが、私は年端のいかない少年の自慰行為を見せられるのはいやでした。姉の裸を盗み見したり、姉もそれを意識して面白がるなどの演出に嫌悪感が残ります。へき地の子の性の芽生えをこういう風に描いては、誤解されるんじゃないでしょうか?

メキシコパートは、物質は豊かではなくても、心から血縁者・隣人が、アメリアの息子の結婚を祝福する様子を描いて、寒々とした中産階級のリチャード夫妻とは対照的。リチャードだけではなく、瀕死のスーザンを置いてバスを出発させてしまう、他の乗客たちとも対比になっているかも。この宴席に居る人々ならば、決してあの夫婦を置き去りにしなかったろうと思います。子供達もすぐに二人を受け入れ、楽しそうに遊びますが、これが逆で白人の子ばかりにメキシコ人の子が入ったなら、どうなったでしょうか?ベルナルが久しぶりのメキシコ人役で、とっても楽しそうなのが印象的。

しかし子供達を家に届けるため、飲酒運転のサンチャゴが検問に捕まりそうになったことから、このお話も暗転します。アメリアは不法滞在者だったのです。警官をまくため、サンチャゴに砂漠に置き去りにされたアメリアが、必死で助けを求めたのは、子供達を助けたかったから。しかしこのことから彼女は不法滞在がばれて、メキシコへ強制送還されます。決して良いことではありませんが、善良に暮らしデビーとマイクを赤ちゃんの時から世話していた人です。元はといえば、事故が原因でアメリアの予定を狂わせたリチャードにも責任はあります。サンチャゴが言う「子供を連れてくるから悪いんだ!」と叫ぶのは、確かにそうなのです。

なのに今まで誠心誠意働いていたアメリアへの情けはなく、強制送還に同意。知っていて雇った方は罪には問われないのでしょうか?金なら渡すからと言ったリチャードは、息子の結婚式に行かれなくても金を出せば済むと思う傲慢さです。そういうくらいの人間だと、アメリアを見下げていたのではないか?それはモロッコで、彼等夫婦のために懸命に力を貸した通訳にも、お金で感謝を渡す場面でも現れています。お金を受け取らない通訳。自国で起こったこの事件に、彼なりに償いたいのでしょう。人の真心はお金では買えません。それを礼を尽くすのではなくお金でしか表現出来ないリチャード。リチャード=アメリカを表しているんでしょうか?

日本パートはもう・・・。聾唖の少女の孤独と若き衝動を表すのに、あんな行動ばっかりで表現されると、少々げんなりします。彼女を聾唖の設定にしたのは、より孤立感を表現したいためかと思いますが、若さゆえの孤独や激情は、聾唖者でなくても表現出来るのでは?菊地凛子の陰毛と裸のオンパレードは、聾唖であることに起因するとするのは、ちょっと扇情的過ぎる気がします。

私が気になったのは、刑事に渡したチエコの手紙。私は彼女の母親の自殺の原因が書いてある気がします。この父(役所公司)と娘は、近親相姦だったんじゃないかと。母はそれを知り自殺をしたのかと想像しました。障害者の娘を置いて母親が自殺するの考えられないし、「お母さんは私の話を聞いてくれた」と、父に訴える様子から、母子の間は良好だった様に感じます。夫婦間での原因を匂わす場面もありません。しかしチエコがあの男、この男、誰でもいいから誘う様子は、孤独を埋めるのではなく、父以外の男に抱いてもらって、父の匂いを自分の体から消したいためかと感じました。じゃないと、幾らなんでもあのエキセントリックな様子は説明がつきませんし、普通裸でベランダに立ち尽くす娘を、びっくりもしないで抱きしめる父親なんて、ありえませんから。彼女の怒りの矛先は、自分自身だったのじゃないかと思います。

上記のように、私なりの解釈は出来るのですが(当たっているかどうかは不明)、だからどうしたというのが実感です。格段胸に響くものもなし、感慨も残りません。私には縁の薄い作品のようです。隣は聾唖のカップルが座ってらっしゃいましたが、どういう感想をもたれたか聞きたかった(筆談したかった)のですが、エンディング前で席を立たれたので、叶いませんでした。一番印象的だったのは、アメリアの語る「私は悪い人ではないわ。ただ愚かだっただけ」という言葉です。これはすんなり心に入る言葉ではないかと思います。


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