ケイケイの映画日記
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2007年03月24日(土) 「善き人のためのソナタ」

二月の末から公開でしたが、上映の梅田シネリーブルは駅から遠く寒いのと、上映時間が中途半端なせいで、ずっと延び延びになっていました。公開後日が経っていますが、観る気は満々だったため、新聞や雑誌の紹介も、お友達のレビューもすっ飛ばして頑張った甲斐あって、私の予想していたストーリーとは違っていたのが嬉しい誤算でした。本年度アカデミー賞最優秀外国映画受賞作品。

1984年の東ドイツ。国家保安省(シュタージ)の局員ヴィースラー大尉(ウルリッヒ・ミューエ)は、国家に忠誠を誓う有能な局員でした。ある日大臣の命で、反体制の疑いがもたれる劇作家のドライマン(セバスチャン・コッホ)を、24時間体制で監視することになります。ドライマンの家に盗聴器や隠しカメラが据え付けられ、薄暗い屋根裏で毎日監視するヴィースラー。しかし国の秩序を守ることしか念頭になかった、孤独で冷酷なヴィースラが、ドライマンを監視することで思わぬ変化が訪れます。

上記の粗筋だけは知っていました。私はドライマンはガチガチの反政府運動家だとばかり想像していたのですが、これが全く違うのです。大臣が監視を命じたのは、ドライマンの恋人である女優のクリスタ(マルティナ・ゲデッグ)に横恋慕したから。冒頭大学生達に、取調べの講義をするヴィースラーが描写されます。暴力こそ映しませんが、非人道的で尊厳を無視したやり方で、クロの目星のつけ方など、ほとんど勘が頼りという根拠のなさで、これでは密告や捏造も簡単だと感じていたら、大臣自らこれとは。日本の時代劇の悪代官のようですが、雑誌や手紙の検閲検問など、ほんの少し前までどこの国でもあった話だと思うと、空恐ろしいです。

ドライマンは国家のあり方に疑問は持っていますが、表向きだけ自分を繕っているわけではなく、許される範囲の中、精一杯観客の人生に希望をもたらす作品を書いていたと思います。しかし反政府的だとシュタージに目をつけられている友人や、やはり国から仕事を禁じられた敬愛する演出家イェルスカとも、堂々と信念を持って付き合う姿は、ただの穏やかなインテリではなく、心にぶれのない芯の強い人だと感じさせます。

どういう風にヴィースラーがドライマンに感化されるかの描き方に、とても興味がありました。最初人々から暖かい賞賛を浴びるドライマンに嫉妬していたヴィースラーですが、いつしかドライマンの生きる世界に心が同化していき、彼にとってドライマンは、憧れ・夢・希望となっていくのです。

親しい友人との楽しい交流、尊敬する盟友、溢れる才能が人々に与える感動、文学や音楽を楽しむ。そして信頼で結ばれた恋人と愛し合うこと。全てが美しく彩られたドライマンの生活は、どれもこれも国家に忠誠を誓うかどうか白か黒かだけの、ヴィースラーの生きる世界にはなかったことです。ドライマンの生き方は、一言で言えば、豊かで充実した人生です。それを目の当たりにして、初めて国のためではなく、自分の、個人の、人生を活きるという事にヴィースラーは目覚めます。タイトルの「善き人のためのソナタ」とは「この曲を聴いた人は、悪人にはなれない」という意味だそうです。ある悲しみを抱いてこの曲を弾くドライマンに涙した私は、次のシーンでヴィースラーも涙を流しているのを観てびっくり。

私の生きる世界はドライマンほど豊かではありませんが、ヴィースラーほど殺伐ともしていません。それでも私はヴィースラーに感情移入して観ていたのでしょう。これはこのような国家体制の中では、いかにドライマンのように生きるのかが、難しいということなのだと感じました。

それをわかりやすく体現してたのが、強い印象を残すクリスタだったような気がします。女優としての名声に自信がなく、いつもこの生活に暗雲が立ちこめたらと不安で、禁止されている薬物が手放せない繊細な神経を持つ彼女。権力者の大臣の誘いを拒めず、女性として深く傷つきながら、恋人であるドライマンには、その辛さを打ち明けられません。打ち明けたところでこの国では、恋人は怒り哀しみ、そして深く悩むだけ。彼女なりの思いやりなのです。人一倍か弱い彼女が理解出来るだけに、とても痛々しい。血や暴力を見せつけずとも、国家権力に抑圧された怒りは、こんな男女の愛で情感豊かに描けるのですね。

ヴィースラーがドライマンだけではなく、クリスタにも心を寄せたのは、哀しい彼女の心をドライマンが受け止めた時からではないでしょうか?自分の夢であるドライマンの愛するクリスタは、ヴィースラーにとっても守りたい愛したい女性なのですね。自分の身分を隠し彼女へ助言するヴィースラー。二人が愛情を確認する様子に、初めて笑みを浮かべるウィースラーが愛しくなります。

後半は国家に反抗するドライマンを、必死で守ろうとするヴィースラーが描かれます。とてもハラハラするのですが、あくまでサスペンス的味わいではなく、ヒューマニズム的に描かれます。多分このことで、シュタージでの自分のキャリアがなくなってしまうだろうことは、彼にはわかっていたでしょう。ヴィースラーが守り通したドライマンは、そんな彼にある素敵なプレゼントを贈るのです。「私のための本だ」と微笑むヴィースラーは、以前の切ない笑みではなく、活力のある笑みでした。この贈りものは、きっと彼に文学や音楽に親しみ、愛する人を求める世界を与えてくれるでしょう。ヴィースラーが孤独な生活から抜け出して豊かな人生を送って欲しいと願う、ドライマンの気持ちが込められていると、私は感じるのです。

主演のウルリッヒ・ミューエは、自らもシュタージに監視され、長年妻や友人が密告していたという、哀しい過去があるそうです。この役を引き受けたのは、心の痛手を乗り越えたからでしょうか?ほとんど感情を露にしない役ですが、ヴィースラーの心のひだまで観る者に伝わる名演で、私は素晴らしかったと思います。監督・脚本はこれが初作のフロリアン・ヘンケル・フォン・ド・ナースマルク。監督は幼い頃西ドイツへ家族と移住したそうで、東ドイツの親類宅に行くと、いつもピリピリした親戚を見て疑問に思っていたそうです。国家権力が国民の自由を奪う恐ろしさ、そのことに戦う人々の勇気を、過剰な煽りを一切排し抑制の効いた演出で、情感豊かに品格のある造りで見せてもらい、まだ33歳と聞き本当にびっくりです。長い名前ですが、必死で覚える値打ちのある監督さんだと思います。


2007年03月19日(月) 「ナイト・ミュージアム」


初日の夕方、夫と末っ子と観て来ました。最初は末っ子と二人で観る予定でしたが、このところのすっかり逆戻りの寒さに、ラインシネマまで車で送ってくれると夫が言うので、それならいっしょに観ようということに。だってうち、夫婦50割引が使えるんだもん。これなら会員料金1300円の私に、あと700円足したら夫婦で観られるのでね。普段は年寄り扱いしている8歳上の夫ですが、こういうお得もあるわけで。出来は普通に面白いくらいでしたが、私はところどころこ小ネタで大爆笑してしまい、充分楽しませてもらいました。

起業家を志すラリー(ベン・スティラー)は、夢ばかり追いかけて今は失業中の身。妻には愛想をつかされ離婚、一人息子ニック(ジェイク・チェリー)とは週末に会えるだけです。今の環境はニックの教育上よろしくないと言われたラリーは発奮、国立自然史博物館の警備員に雇われます。昼間だと思っていたラリーですが、仕事は夜警。三人の前任者の老人達(ディック・ヴァン・ダイク、ミッキー・ルーニー、ビル・コッブス)から、不思議な引き継ぎ方をされたラリーですが、次の日から仕事は開始。しかしこの博物館には、とんでもない秘密が隠されていたのです。真夜中のなると、展示物たちに一斉に生命が宿り、動き出すのです。

私は「ジュマンジ」が大好きだったので、その系統かと思い、観たいと思いました。国立博物館の展示物が動き出したらどうなるか?のアイディアありきだったのでしょう。あれこれ継ぎ合わせたような内容で、ストーリーとしては「ジュマンジ」にはかなり劣ります。CGも別段目新しさはなく、どうということはないのですが、その代わりパートパートのプロットが面白いし好感が持てます。

先住民族の女性に恋する蝋人形のアメリカ大統領なんて、とっても素敵でしょう?謎のジイ様三人組も、年寄りを描くと、教えを乞うたり人生の先輩として目標にしたりと、敬意を表して描かれることが多いですが、このジイさんたちの生臭さは案外リアルで、これはこれで楽しいもんです。ディック・ヴァン・ダイクなんか、齢80にしてちゃんとオーディションを受けたというのだから、偉い!何しゃべってんだかわからんフン族のアッテカは、声を張り上げまくって愛嬌のあるアニマル浜口みたいだし、ファラオはイマドキのカッコイイ若者で、これまたポイント高し。展示物たちにチャーミングさが感じられ、アイディアは成功です。

ロビン・ウィリアムスは、特別出演扱いでも良かったくらいの役ですが、脇役も楽しんでいるようでした。オーエン・ウィルソンは結構出ていたのに、なんでノンタイトル?でも一番謎は博物館案内役のカーラ・グギーノ。あちこちでセクシー路線突っ走る彼女、何故に今頃個性のない、清楚で知的なだけの役柄に出るの???別にあってもなくても対して筋に絡む役でもなし、彼女でなくても、その辺のお姉ちゃんで充分の役です。謎だ。他にはやっぱりジイ様三人組は、往年のファンには嬉しいプレゼントでした。

アメリカでは大スターのベン・スティラーですが、あまり出演作を観たことがなく(「メリーに首ったけ」くらいしか覚えちゃいない)、この作品でのダメ父ちゃんを返上すべく、頑張る姿は好感が持てました。私が爆笑したのは、お猿のデクスターとのやりとり。バカにされた仕返しに、やり返すときの様子は、猿相手に大人気なく得意満面。かと思ったら、マジで対抗するその姿は、まさに”この人”にそっくりと思っている私に、横にいる息子がひそひそと、「うちのお父さんみたいやな」。

あれは上の息子たちが幼稚園の頃。毎晩息子二人を寝かしつけるため、右の腕には次男の頭、左の腕には長男の頭の腕枕、そしておっぱい片方ずつ握られた私の姿がありました(毎晩だ)。ある日寝床へやってきた夫は、「お母さんのおっぱいはな、本当はお父さんのもんなんや。お前等が小さいから貸してやってただけや。もう幼稚園になったから、今日を限りに返してもらう」

息子達の怒りや凄まじく、まるで野生の猿のようでした。そらそうでしょう。このくらいの年齢の子は、まだまだおっぱい命ですから。嬉々として、怒り狂い夫に噛み付き毛をむしる息子達を、バッタバッタと跳ね返す夫。自分が遊んでいます。げんなりする私。時は過ぎ次男から七歳離れた三男が保育園の時、このオッサンはまた「このおっぱいはな・・・(以下同文)」。何と成長のないオッサンやと、また嘆く私。こんなことばっかりの日常なのに、何故私はもうじき銀婚式目前かというと、やっぱりラリーのように「お父さんて、すご〜い!」という瞬間も、幾度か経験しているからです(数少ないが)。

最近アメリカ映画は、離婚した父親の父権復活が隠れテーマになった作品が多いように感じます。この作品のラリーも、「これで一発当てて、お前等に楽させたるからなぁ〜」と実現しないことを、ずーと夢見る夢男さんだったのでしょう。ギャンブル・女・暴力などで妻子を困らせる男は、燃えないゴミの日にほかせばいいですが、ラリーのような「これがなきゃいい人なのに」の夫は、もう少し待ってみませんか?男の人は腐っても鯛です(元)夫がイキのいい鯛に変身するのが、蝋人形の一言だったなんて、こんな妻のプライドが傷つく話はありません。夫と言うのは、成長の遅い種族です。この作品を観て、よし蝋人形なんかに負けるもんか!のお母さんが増えることを期待してしまう、息子ニックの父親への笑顔が印象的でした。

このように、家族で観ると色々楽しい作品です。大人一人で鑑賞はちょい厳しいかも。吹き替え版もありますので、春休みにご家族でどうぞ。


2007年03月17日(土) 「華麗なる恋の舞台で」

主演のアネット・ベニングが、2005年度にオスカーの主演女優賞候補になった作品。ベニングはその前にも作品も演技も素晴らしかった「アメリカン・ビューティー」で候補となるも、「ボーイズ・ドント・クライ」のヒラリー・スワンクに賞を奪われ、2005年度も「ミリオンダラー・ベイビー」のスワンクにまた負けています。「ミリオンダラー〜」のスワンクは、「ボーイズ・ドント・クライ」なんか目じゃないくらい良かったので、2005年度は順当なのかとずっと思っていましたが、演技のみに絞って言えば、やっぱりベニングが上だと思うよ、私は。こっ恥ずかしいタイトルのこの作品ですが、ベニングの惚れ惚れするような、堂々の大女優ぶりを堪能した後では、小粋なタイトルに感じるから不思議。監督はハンガリーの名匠イシュトヴァン・サボーです。

1938年のロンドン。ジュリア・ランバード(アネット・ベニング)は大女優としてロンドンの演劇界に君臨していました。夫の興行主でもあり舞台監督でもあるマイケル(ジェレミーアイアンズ)との間には、息子のロジャーにも恵まれ円満で満ち足りています。しかし毎日の舞台中心の生活は、心に充電する間もなく、最近のジュリアはイラついています。そんな時出会ったのが、アメリカ生まれの親子ほど違う若さのトム(ショーン・エバンス)。ジュリアの熱烈なファンであるトムと、たちまち恋に落ちてしまうジュリアですが、ほどなくトムは若い新進女優エイヴィスに乗り換えてしまいます。

大女優でござい、のジュリアの日常がユーモラスに、そしてエレガントに描かれています。タイトル通りの華麗な舞台、パーティ、日常でも手を抜かない素敵なファッションの表の顔に対し、我がまま気まま、気にいらないと当り散らすような、幼い子のような部分との落差が、40代後半という年齢に似つかわしくない愛らしさで描かれていて、とってもチャーミング!
いわゆる女優の業というものではなく、私生活も含めてひたすら女優であることのプライドが楽しく描かれています。

ちょこちょこジュリアの育ての親だった演出家ジミー(マイケル・ガンホン)の亡霊が出てくるのですが、事あるごとに彼女に演技指導する姿が、これまたユーモラス。「日常は虚像、舞台こそ全ての真実」と何回も彼女に言って聞かせます。さすれば彼女にとってこのアバンチュールは、絶好の若返りだったはず。今回の相手には少女を演じる大女優は、つまみ食いは初めてではなかったはずですが、こんなに若い男性に言い寄られたのは久しぶりでしょう。鏡を前に「まだまだいけるじゃない?」と、浮かれる様子は、女の定年がもう見えている我が身にも、とってもわかるのだなぁ。

この夫は女優の妻が大好きでとても大切なのですね。浮気はちゃんとわかっていたはず。しかしこれも芸の肥やしならばと、見てみぬふりだったのではないかと。女優の妻が大事というと、冷たい響きに聞こえますが、彼女は人生全てが女優の人なんですから、こんなありがたい旦那さんはいないはず。こんなわかりにくい愛情で結ばれた夫婦から生まれた息子は、災難です。しかし息子とは有難いもんですな。それでも母に向ける愛情は普通の母子のそれ。その辺の描き方のさりげなさもすごく上品です。

ジュリアは口ばしの黄色い分際で、自分を侮辱するようなまねをしたトムやエイヴィスにお仕置きするのですが、これが舞台女優ならではのお仕置きで、今作品最大の見せ場です。大女優はこれでなくっちゃ。でもそのきっかけは、息子ロジャーとの会話からなのですから、息子からの敬愛を取り戻す意味もあったかと思います。噂を耳にしただけならば、彼女も知らん顔したかな?

アネット・ベニングは大好きな女優さんです。確かに美人ですが個性に乏しい容姿を逆手に取り、どんな役でもこなしてしまう人で、今回も「芸と美貌があるんだから、何でも許されるのよ」のジュリアは、一歩間違えれば傲慢に映ってしまうはずですが、エレガントさと美しさと貫禄、カマトトではない中年女の可愛さとで魅了されます。低めのハリのある声が舞台映えし、舞台場面をもっと観たかったです。しわしわの首、ハリの失われた素顔、お化粧を落しかけのアイラインの滲んだ目元なども映し出すのですが、反って華麗な舞台姿が魔法のように思えて、女優の凄みを感じさせます。

脇役も、軽めに演じるジェレミー・アイアンズはとても楽しそうで、息子から「パパはロンドン一の美男子でいることしか興味がない」と言われるシーンでは、思わず一人で忍び笑いしてしまいました。メイド役のジュリエット・スティーブンソンとジュリアが憎まれ口を叩き合いながら、信頼し合っている様子が微笑ましかったです。女同士の気兼ねのなさを、毒舌と親愛を滲ませて描くのは、なかなかに知性の必要なものです。こんなのどっかで観たなぁと思い出したのは、大河ドラマの「毛利元就」の、松阪慶子の杉さまと侍女の松金よね子でありました。美人中の美人の松阪慶子が、「女は顔じゃ!」が口癖の杉さまを演じて全くいやみがなく、人ととしての器量は大物なれど、人間が出来ていない様子は、ジュリアと瓜二つ。ちなみに私は大河ドラマの登場人物では、この杉さまが一番好きです。

若いツバメはちっとも羨ましくなかったけど、私もブルース・グリーンウッドみたいな渋い中年の二枚目の、プラトニックラブの彼氏(ここ重要ポイント)なら欲しいなぁ。もし日本でリメイクするなら、ジュリアはやっぱり大地真央?彼女は皺々の首や素顔は見せてくれそうにないので、無理ですね。私は変化球で最近母性を感じさせるピーターを支持。面白いのが出来ると思います。


2007年03月15日(木) 「ラストキング・オブ・スコットランド」


アミン大統領を演じたフォレスト・ウィッテカーの、本年度アカデミー賞主演男優賞受賞作品。さて皆さん(浜村淳風)、アミンと言えば、何を思い浮かべるでしょうか?そうです!アミンと言えば食人族!バン!←机を叩く音)。正確に言えば「食人大統領アミン」という作品が昔ありまして、そんな猟奇的で残酷な暴君のイメージがありました。ゆったり温厚で穏やかなウィッテカーがアミン?とちょっと不思議だったのですが、そこは卓越した演技派の彼、肌の触感さえも怖さ感じさせるよう演技でした。スコットランド医師から見たアミンが描かれていますが、この若い医師は架空の人物で、史実に基づいたフィクションです。

スコットランドの若き医師ニコラス(ジェームズ・マカヴォイ)は、優秀な父親からの抑圧から逃れたく、海外派遣医師に応募し、ウガンダに来ます。
折りしもウガンダはクーデター直後で、新大統領アミン(フォレスト・ウィッテカー)誕生に沸いていました。偶然アミンの怪我を手当てしたことから出会い、気に入られたニコラスは、アミンから彼及び家族の主治医を懇願されます。最初は派遣医師としての契約があるので断るニコラスですが、招かれた晩餐会でのアミンのカリスマ性に魅了され、彼の主治医となります。しかしただの主治医のつもりだったニコラスですが、次第にアミンの側近として扱われます。暴走を始めるアミンから逃れようと思った時には、もう後戻りできなくなっていました。

まずニコラスが医療不足に悩む後進国のためにという、ボランティア精神の持ち主ではないという設定が面白いです。彼は単に医師という自分の免許を使って、合法的に親の納得する方法で家出したわけです。自分で言うように冒険がしたかっただけで、物見遊山で選んだ土地がウガンダだったということです。静かですが深い印象を残す先輩医師の妻サラ(「Xファイル」のジリアン・アンダーソン)は、彼の素養を見抜いていたようです。

アミンが絶大な大衆の支持を集めるヒーローから、自分の命を狙われるや、次第に疑心暗鬼になり誰も信じなくなって、大量の残虐な殺戮を行う狂気の大統領としてそれなりにまとまって描かれていますが、もう少し何か一味欲しい気がします。圧倒的な存在感とカリスマ性を感じさせるウィッテカーの素晴らしい演技で納得は出来ますが、サラの語る「前の大統領の時もこんな騒ぎだったの。」には、ウガンダに棲み付く根深い問題があるはず。その辺例え誰が大統領になっても変わらないのか、それとも狂人のようなアミンだったから国が混乱したのか、視点が分散した気がします。この辺どちらかに強い主張を感じれば、大傑作だったのにとちと残念です。

ニコラスは活動していた貧しい地域とはかけ離れた、西洋文明の恩恵を受けた豪華なアミンの生活に、疑問は持たなかったようです。地味で堅実な自分の世界にはない、豪快で人懐こい魅力を放つアミンとその生活空間に魅了されたのは、少々軽い気がしますが、若さゆえの浅はかさはわかる気がします。

しかしその浅はかさが、次第に自分をがんじがらめにし、アミンから逃れられなくなります。何故アミンは見知らぬ外国人のニコラスを最初から寵愛したのでしょうか?自分の気に入りのスコットランド人だということもあるでしょうが、アミンの政権はイギリス政府の支援で誕生したもの。バカではない彼は、イギリスからの要人から「閣下」と敬意を評されても、いつもアフリカの土民だと蔑む心を持って国も自分も見られていると、感じる心はあったはずです。ニコラスの最初からアミンを慕い受け入れてくれる様子に、白人に対し初めて警戒心を持たずに接することが出来たのでしょう。医師という仕事も政治とは関係なく、それもアミンの気に入ったはず。

暴君の様相を呈してからのアミンは、チラチラ映る殺戮場面が、猟奇的に映すよりも恐ろしく、いつもより黒めにドーランを塗ったウィッテカーの容姿から、まるで妖気が漂うようです。彼の大きな体は、いつもは森のプーさんのような安心感を与えるのですが、今回はもう怖い怖い。アミンから逃れようとするニコラスを描くのですが、ニコラスの全てを逃すまいとするアミンやその側近たちの様子が細かく描きこまれ、こんなに緊張したスリリングな感覚は久しぶりで、アミンの伝記を観に来たつもりだったのに、意外な後半のサスペンスフルな展開は、とても楽しめます。

その恐ろしいアミンですが、強い猜疑心は幼児のように描かれます。幼児のような人が多大な権力を持つ恐ろしさを背筋が凍るように描いていますが、権力者の孤独は、絶対的な信用の置ける優秀な側近の存在で、まぬがれるのではないかと感じました。かつて名を残した権力者には、必ず名参謀がいましたよね。権力者の狂気を描くことで孤独を浮かび上がらせるのに成功したのは、ウィッテカーの好演あってこそです。

ウィッテカーはすでに書きましたが、ニコラスを演じるジェームズ・マカヴォイは、見たことあるなぁと思いつつ、帰ってから調べると、何とあの「ナルニヤ国物語」のタムナスさんではありませんか!70年代のイギリス青年は、本当にあんな髪型でちょっとハンサムと言う感じの人が多かったです。今回性格は明るく素直、でも思慮が足りない若々しいニコラスを演じて、私はとても良かったと思います。どうして各賞の助演男優賞に無視されているのか、とても不思議です。私はお気に入りになりました。

自分の命に代えてもウガンダを救いたい、憂国の士が出てきます。彼はステイタスの高い仕事を持ち、国ではインテリ層でしょう。彼のニコラスに託す言葉に、「ナイロビの蜂」でも描かれた、根深いアフリカ諸国に君臨する白人社会の罪深さを感じます。今後の心あるハリウッドの映画の、新たなテーマになる予感です。この作品で描かれるサラやその夫である医師のような、心ある白人もたくさんいるのですから。


2007年03月13日(火) 「さくらん」


予定外だった作品でしたが、観て来ました。当初は観る気でしたが、評判の低さから手帳から消去(手当たり次第に観ているようだか、これでも選んでいるのだ)。しかしここへ来て、映画友達の方々の「なかなか良い」との感想に方向転換。しかし最大の理由は、この劇場を上映する動物園前シネフェスタが、今月限りで廃館になるからです。

シネフェスタは、私がまた映画館通い出来るようになった5年前、初めて会員になった劇場で、梅田まで行かなくてもミニシアター系の作品が観られる、貴重な小屋でした。24日から31日までさよなら上映があるも、子持ちには鬼門の春休み中な上、お姑さんの白内障の手術もこの期間中の予定。是非何か一本とは思っているのですが、非常に危うい状態です。ということで、まずは保険の鑑賞でした。しっかし巷の評は厳しいですよねー。私なんか三回も泣いちゃったのに。

時は江戸時代。華やかな吉原遊郭の玉菊屋に8歳の時に売られて来た、きよ葉(土屋アンナ)。何度も玉菊屋から足抜きしようと試みるも、必ず連れ戻され折檻が待っていました。そんなきよ葉でしたが、御職の花魁粧ひ(菅野美穂)の手厳しい指導の元、一流の花魁になろうと決意します。生来の美貌と気の強さから、一風変わった花魁に成長したきよ葉ですが、人気はうなぎ上り。そんな彼女に先輩花魁高尾(木村佳乃)は、嫉妬から辛くあたります。そんな日々を送るきよ葉でしたが、ある日運命の客惣次郎(成宮寛隆)に出会います。

皆さん仰るように、極彩色で彩られる遊郭の風情や花魁たちの衣装は、かなり今までの吉原ものと違いますが、内容はしごく真っ当な女郎さんものです。幼い時に売られ何度も足抜けしようとするが失敗。腹を据えて仕事に励み成長する。女同士の確執。不実な間夫(まぶ)の存在、刃傷沙汰、妊娠、身請けなどが描かれています。底が浅いとの評が多いですが、私は年がいっているので、描きこむ以上のものを感じたのか、あまり気になりませんでした。

ここからネタバレ(ネタバレ以降にも文章アリ)











きよ葉が訪ねてこなくなった惣次郎を観に行ったのは、自分の気持ちを確かめたかったからでしょう。きよ葉に見えた惣次郎は、彼女が作り出した白馬の王子様のようなもの。いつも手練手管で男を酔わす花魁が、タイプの客の手練手管に乗ってみたかったのは、わかる気がするのです。間夫という生きがいにも似たものがなければ、体を売って生きるのは辛いことでしょう。それは高尾の「生きても死んでも地獄」という言葉や、そんな地獄を見る姐花魁たちを見ながら、間夫のいない若い花魁若菊の、嫉妬の裏の「羨ましい」という言葉が表しています。男の本心を知った後、川に号泣しながら入るきよ葉に、まず初回の涙。

身請けが決まったのに、誰の子かわからない子を宿し、産みたいという日暮(きよ葉から改名)。お手内になるぞとの手代の誠治(安藤政信)の言葉に、「誰の子でもあたしの子だよ!腹のガキといっしょに殺されりゃぁ上等さ!」に二度目の涙。これは日暮の誠ですね。多くの花魁は堕胎を選ぶでしょう。花魁が子供を産む、それは著しく自分の商品価値が下がり、郭から出る夢も叶わないでしょう。それでも「誰の子でもあたしの子だよ!」は、これは女にしか出てこない台詞のはずです。女同士の共感が湧きます。そして売れっ子花魁になりながら、彼女の芯は花魁に成り切れないのだとも、表しているとも思いました。

そして流産後、思い出の桜の木の下で「昨日までお腹にいたんだよ・・・」と号泣する日暮に、思い切り同調して泣く私。この辺はもう私の持っている本能的なもんなので、観た方みんなが泣くとは思いません。

私事ですが、私も流産の経験があり、二つ身になれず昨日までお腹にいた子がいなくなる、あの耐え難い感情は、どんな言葉を尽くしても言い足りません。ですから余計な演出の無いたったこれだけのシーンで、私はあの時の感情がまざまざ蘇りました。それだけ土屋アンナの演技は大変上手かったということでしょう。そういえば彼女、頑張るシングルマザーなんですよね。

日暮と誠治の道行きは、確かにあの桜の木に花が咲いたことがきっかけです。しかし日暮が誠治と一緒に逃げようと決心したのは、唯一自分の生まれ来なかった子を思いやってくれたのが、誠治だからのような気がします。「女郎が子供を産もうとする。そう思ってくれただけで子供は幸せさ」という政治の言葉は、女郎から生まれた彼に言われると、深く愛がこもって聞こえます。感謝はすれど愛のない相手の妻になる。誰彼なしに体を売っていた郭と違うのは、相手が夫だということだけだと、日暮は感じたのかも。誠治も良縁に縁付きながらの逃亡です。もちろん日暮のことが気にかかっていたはずですが、玉菊屋を継ぐということは、生まれた郭から一生出られないことを意味します。何度も出て来る水槽の金魚は、女郎だけではなく、誠治たち男衆もまた、所詮は女の体で飯を食っているわけで、金魚と同じということなのですね。

日暮の選んだ誠治は、彼女と関わった男たちの中で、一番長い付き合いなのに、体の関係がないのが印象的。その相手を選んだということは、女郎との決別を意味しているかと思いました。










ネタバレ終了。

土屋アンナは好演でした。しかし女郎さんの日常の肝の据わったアバズレぶりや、鼻っ柱の強さはとても良かったのですが、花魁の時の様子がどうもいただけません。ゴージャスな着物姿に負けないチャーミングな豪華さはあるのですが、花魁の優美さが出ていません。きよ葉の時はそれでも良かったですが、日暮となってからは、もうちょっと貫禄と品を出して欲しかったと思います。でも泣かせてくれたので、OKです。

対する先輩花魁の菅野美穂や木村佳乃は花魁の風情と女郎の裏の顔の落差を的確に演じてとても良かったです。特に菅野美穂の花魁姿の優美さ、閨での艶かしさ、心を氷のようにしなければ御職は張れない花魁の厳しさも感じさせて絶品。木村佳乃の清純な役やコミカルな役はお目にかかれど、こんな汚れ役&敵役は初めて観ましたが、こんな演技も出来るのかと感心。二人とも中堅女優としてこれからが勝負なので、頑張って欲しいです。

華やかに頑張る女優陣に比べ、男優陣は描きこみ不足です。市川左団次のご隠居も、どういう風に吉原一の遊び人なのかイマイチわかりませんし、永瀬正敏の高尾の間夫も、彼女が何故あんなに入れ込むのか説得力が薄いしです。椎名桔平の日暮の身請けびとも、なんでそんなにいいお武家さんなの?と言う感じで、あれなら遠藤憲一演じるバカ殿の方が説得力ありです。しかし難点はありますがタイプキャストというか、描きこみ不足は役者のキャラと演技で補っており、これもぎりぎり合格です。

良かったのは二人。惣次郎の成宮寛貴は、上品そうな清々しい美貌が、酷薄的な妖しさにも通じ、魅力的です。女郎が夢見るのに説得力がいっぱいでした。安藤政信は実直で誠実な誠治を好演。一番出演場面が多く、彼が一番女性客に好評だったと思います(私も〜)。

監督は演出家蜷川幸雄の娘さんで、写真家の蜷川美佳。初監督作でこんな豪華キャストが実現したのは、お父さんの七光りかな?私は大いに健闘していたと思います。こういう作品を観ると年齢を超えて、女同士っていいなぁとも感じます。ラスト野に咲く満開の花の中を走る二人の姿は、同じ明るい色彩でも、ゴージャスな人工美に彩られた吉原とは対照的でした。この辺も写真家としての監督の美意識が働いているのかも知れません。


2007年03月08日(木) 「パフューム ある人殺しの人生」


「ヘブン」の純白の美意識が大好きだったトム・ティクバの作品。今回は香りというフェティズムを映画で描くと言うので、とても楽しみにしていました。しかし率直にいうと、クライマックスの映像に違和感があり、超微妙な感情が残りました。これは香りに対しての私の概念が影響していると思います。

18世紀のパリ。町は悪臭が立ちこめ、その匂いを消すため、香水がもてはやされていました。グルヌイユ(ベン・ウィショー)は市場の大量の魚の上に産み落とされます。死産だと思っていた母親は、泣き声をあげた息子のため、子供を殺そうとした罪で絞首刑に。グルヌイユは劣悪な孤児施設で育ちますが、異常に発達した嗅覚のため、他の子供達から孤立して育ちます。13歳の時になめし革の職人として売られた彼に、数年後転機が訪れます。親方といっしょに街を歩いていた彼は、至高の香りを体から放つ少女に出会います。彼女を追い求めるあまり、誤って殺してしまうグルヌイユ。しかしその香りが忘れられないグルヌイユは、その香りを再現すべく、香水の調合師バルディーニ(ダスティン・ホフマン)に弟子入りします。

まずは当時のパリの町並みや、雅な特権階級の人々と、薄汚い庶民との対比、常にカツラをかぶる男性など、忠実に当時を再現したであろう様子がとても見応えがあります。特に庶民達があちこち皮膚病に罹っているのがさりげなく表現されていて、当時の様子をよりリアルに感じさせてくれます。美しい場所も、市場の不衛生でグロテスクな様子も余すところなく映し、本当にあの香りこの匂いと画面から漂ってきそうでした。それと赤ちゃん。「トゥモロー・ワールド」でもびっくりしましたが、それ以上の精巧さで、生まれたてから漂うグルヌイユの神秘性まで表現出来ていて、本当にびっくりでした。

究極の夢の香りを追い求めるグルヌイユを観ていると、ウィリアム・ワイラーの方の「コレクター」の主人公を思い出しました。誰からも愛されず愛したこともない孤独な主人公たちは、片方はストーカーに、片方は匂いフェチに。両方性的に女性を愛さないところもいっしょ。雄になれない男の哀しみ。おずおずとでもサマンサ・エッガーと交流を試みようとするテレンス・スタンプに比べ、どこまでもストイックなグルヌイユ。しかしいくら大切にしようとも、蝶の収集同様にしか女性を思わないスタンプに比べ、例え殺人を犯そうが、グルヌイユからは女の心を乞う様子も感じられるのです。

それは極めて発達した嗅覚であらゆることを判断する彼が、体臭のない自分=存在を認めてもらえない人間として、絶望しているからでしょう。「コレクター」のスタンプは、自分に絶望も失望もしていませんでした。グルヌイユを演じるウィショーは、この作品で初めて観ましたが、難しいこの役を静かに、しかし孤独と焦燥感に駆られたグルヌイユを圧倒的な説得力で演じて、感嘆します。特に殺してしまった少女の体から、かき集めるように匂いを嗅ぐシーンなど、ともすれば変態チックに映り、女性は嫌悪感を感じるものですが、いかにその香りを自分の記憶に留めたいか、その必死の思いが歪んではいますが、愛情にも感じさせます。

ホフマンの老いの醜悪さもちょっぴり見せるユーモラスな演技、グルヌイユの第二の憧れの女性ローラを演じるレイチェル・ハード・ウッドの絵画から飛び出したような可憐さ、ローラの父親役のアラン・リックマンのいつもながらの重厚な演技、一歩間違えれば猟奇的な内容を、優美に悲しみを漂わせながら映す様に、いいぞいいぞ、最高じゃないのと大満足だった私ですが・・・。

CMでもネタバレ気味のクライマックスシーンになり、少々首を捻りました。私はあれには納得しかねるのです。ここでグルヌイユが神々しく観えれば、あのシーンは圧巻ですが、私にはペテン師とは言わずとも、奇術師に思えます。この感想ではグルヌイユの孤独と哀しさが浮かび上がりません。これは香りに対して、大した感情を持たない私だからでしょうか?

最後の最後の場面は残酷な寓話的ですが、とても気に入りました。グルヌイユが本当に欲していたものは、求めても求めても、もう手に入らないのですから。サマンサよりレベルの低い女性に、のうのうと乗り換えようとするテレンス・スタンプとは対照的で、グルヌイユの一途さと純粋さを表しているのだと思いました。

クライマックスで首を捻ってしまったので、そこだけ大幅に減点になってしまい、超微妙な感想ですが、完成度と言う点では文句なし。感受性の豊かな美しく素晴らしい作品ではあると思います。でもこれは拡大公開ではなく、ミニシアター系の作品だと思うのですが。一般受けはしないと思います。

原作も読みたいです。ちょっと気になるのは、グルヌイユが憧れた香りを放つ二人の少女は、共に赤毛だったこと。グルヌイユが離れるたびに、雇い主が亡くなってしまうこと。意味があるとは思うのですが、映画では読みきれませんでした。原作を読めばわかるのかな?


2007年03月06日(火) 「龍が如く 劇場版」

昨日とめさんと観て来ました。とめさんには美術館に誘ってもらったり、映画のチケットをいただいたり、時々月曜日の昼下がりに女二人でおデートしているわけなんですが、いつもゴチに預るのはワタクシ。なので一度は「チケットハンター」の名にかけて、ドドンと安売りのチケットをゲットして、私がオゴルからねーと言いつつ数ヶ月、ついにチャンス到来。それが大ヒットゲームを映画化した、この作品でした。ゲームオタクの次男が騒いでいたので、そんな作品があるんかいというくらいの認識でしたが、監督が三池崇史、主演が北村一輝の任侠物だなんて、なんて素敵なの〜(ハート)と言うことでこの作品にしました。 二枚600円で落札し、いざ、映画館でもれなく日本庭園を愛でられる、あの千日前国際シネマへ

新宿は歌舞伎町。10年のムショ暮らしから出所した桐生一馬(北村一輝)。彼は遥(夏緒)という少女と共に、彼女の母親を探しています。そこへ因縁浅からぬヤクザの真島(岸谷吾朗)が幾度となく決着をつけようと、桐生に戦いを挑んだり、やくざ同士の抗争で10億の金が消えたりと、物語は混沌としていきます。

おほほほほほ。ワタクシ今朝はお肌がプリプリ。また女性ホルモンが活性化された模様。だって一輝ちゃんたら、すんごいカッコいいんですものー。観てー↓。いつものヘンテコな三白眼を封印し、素の男前さが素晴らしい!

北村一輝は、前々から好きでした。男前なのに演技力がありあまっているもんで、いつも変人とか変態とか悪漢とかオカマとか、そんな役ばっかりなんですが、今回は真っ当な心優しく強い>ヤクザ@もちろん墨入りという、ファンには涙がちょちょぎれる役で出ずっぱりです。10年ムショ暮らしなんですか、こんな男前ですもの、女がほっとかないはずですが、女は女でも、母を尋ねて三千里の歌舞伎町の少女なんですから、いい人指数はうなぎ上り。おかげでどんな理由で道行きになったのか、どうでもよくなりました。


ご本人さんは実生活では、ヨメも子供もいるのでね、案外こういう役は似合うのです。アクション場面がいっぱいあるのですが、空手もたしなんでいるそうで、かなり決まっていてこれも惚れ惚れ。鉄拳から炎が出たり、死に体状態で栄養ドリンク飲んで復活など、ゲームをなぞった場面もあるのですが、顔が劇画調の濃い男前なので、全く違和感がありません。今回は上半身ヌードのサービスもあり。本当いうと私はあんまり男性ヌードは好きじゃないです。マッチョはちょっと勘弁と言う感じだし、あばら骨が透けているのもあかん。おケツなんか見せられた日にゃ、問題外なのですが、今回はズボンを履いて普通にたくましい上半身だけという私好みの上品さなので、眼福でございました。たった2週間でお見せ出来るような体にしたそうです。


ストーリーは破綻しています。てゆーか、多分最初から説明する気なんかなかったと思われます。何で韓国人スナイパーが出てくるねんとか、風間の親父さんってどちらさん?とか、なんで散髪屋が急に韓国語が出来るねんとか(私も喋られへんのに)とか、加藤晴彦はキャバクラの店長やのうて、ホストやったんか!とか、ミズキとユミはいっしょなのって、それなんだんねんとか、あの神宮という政治家は何故ワルモンなのかとか、いきなり出て来るな、ラスボスの錦山!(一瞬草刈正雄かと思った真木蔵人)とか、もう〜てんこ盛りに謎がいっぱい。しかしとにかく場面場面の監督の遊び心満載の演出が思い切り盛り上げてくれるし、吉本新喜劇かい?と思わすベタな笑いが、安もん臭いセット、場末感を盛り上げるクレイジー・ケンバンドの昭和歌謡ムードたっぷりの音楽などが、見事にマッチしています。
ストーリーがこれだけはちゃめちゃなのに、そんなもんほっといて、とにかく面白い!と感じさせる力技がありました。

出演者は他に三池と何度も組んだであろう、哀川翔、荒川良々、田口トモロヲ、松重豊、塩見三省、高岡早紀、遠藤憲一などなど、超豪華。みんなちょろっとしか出ませんが、みな芸達者なので、誰もが存在感たっぷりで場を引き立てます。

その中でゲームではお笑い異色キャラだったそうな真島を演じる岸谷五朗は、今回ゲームのストーリーを無視して準主役に昇格。これがすんごい怪演技で、観てる方も楽しいけど、やってる方はもっと面白いだろうというのをビシバシ感じて、すごく良かったです。ちなみにゲームのキャラにそっくりだとか。男前の一輝ちゃん相手に、一歩も引けを取らない(てゆーか、こっちが良かったという人も多分多数)はじけっぷりでした




他に印象に残ったのは、韓国人スナイパーのコン・ユ。穏やかな風貌に似つかわしくない、ニヒルで渋いムードが満点。名前を覚えておきましょう。



前回世間の皆様絶賛の「蟻の兵隊」を、グチグチグチ文句垂れといて、こんな無茶苦茶な映画を絶賛すると、また私の細々したレビュー街道に汚点つきまくりですが、だって面白かってんもん、仕方ないやん。(開き直りかい)。

ちなみにとめ嬢の感想は、「真面目に映画観に来た人は、きっと途中で帰りますね。」でした。許せとめさん、次はもうちょっとストーリー重視の映画にしましょう。


2007年03月03日(土) 「蟻の兵隊」

昨年8月から全国公開された作品で、大阪でも公開されましたが、遠い十三はナナゲイで上映のため、見逃した作品。我が布施ラインシネマで再上映ということで、やっと観ることが出来ました。が・・・。思っていた作品とはだいぶ違うのですね。ドキュメントにも演出ありは、今や知れ渡った常識ですが、自然に見せながら、いかに主張を織り込むかが作り手の腕の見せ所ですが、なんか強引に反戦に持っていった感じがしました。

終戦を中国の山西省で迎えた奥村和一(わいち)さん、80歳。奥村さんたちは、終戦後すぐにでも帰国したかったのに、上官の命令で中国国民党軍に編入され、中国共産党との内戦に駆り出されました。しかし日本に帰国してみると、奥村さん達は自分の意思で勝手に内戦に参加した脱走兵扱いになっており、軍籍は除籍されていました。そのため恩給などの戦後保証はなく、政府を相手に訴訟を起こしています。自分たちの意思ではない、その証明を求めて戦う老人たち。奥村さんは手がかりを求めて、山西省まで旅します。

この山西省残留問題は、私はこの作品のおかげで初めて知りました。観る前は戦争の被害者である奥村さんたちに、同情の気持ちが湧くであろうと思っていました。事実体に無数の砲弾の破片が残る奥村さんの体を映すシーンや、おじいちゃん達が口々にどれだけ日本軍や政府に怒りを感じているか、その年齢ゆえ言葉が不明瞭で聞き取りにくいところに、反って年月の長い重みを感じさせ、辛くなります。

しかし奥村さんが証明探しと、自分が少年兵であった時の足跡を辿るため中国に行ってからは、私は段々違和感を感じ始めます。いやな思い出の多い彼の地のはずが、何故か懐かしさも感じるという、複雑な思いを吐露する奥村さん。彼は軍の命令で、練習と称して農民を殺したと告白します。その当時のことを知る人を捜し当て、複数の人が如何にひどい仕打ちを日本軍から受けたか話しますが、みんな何故か笑顔交じり。まるで家畜でもこうはされないだろうと言う仕打ちに対し、日本軍に在籍していたという人を前に、このように冷静に話せるものでしょうか?涙一つ見せず、淡々と何があったか事実だけを話し、奥村さんを糾弾するでもない中国の人々。色々な感情があって当たり前でしょうが、皆同じなのが不思議です。

奥村さんは、当時の自分の行いを軍の命令だったから、「軍のせい」とはっきり明言するのですが、銃殺現場だった場所に線香を手向ける彼からは、自らの行いに対しては謝罪はありません。他の戦友などは、はっきりその人の記述した証拠があるのに、自分が中国人を殺したことを忘れています。忘れていたことにショックを受け、呆然としながら、「それが戦争なんだよ・・・」と語る戦友。確かに「軍のせい」「それが戦争」も真理だと思います。戦場とは人の心を狂気にしてしまうものでしょう。しかし平和な時を過ごす今、昔の自分の自責の念に耐えない行いを、全て戦争のせいにしていいのでしょうか?

奥様によると、奥村さんは一切戦争当時の話をされないとか。それは「父親たちの星条旗」で描かれた、ドクに通じるものでしょう。しかしドクが沈黙を破ったのは、自分の命が残り僅かだと悟ったから。妻や娘だけなら、彼は自分の思いを墓場まで持っていったと思います。何故息子なのか?戦場に行くのは男だからです。このドクの思いからみると、奥村さん達は、自分たちは被害者だと強調しているように感じるのです。一人一人がその過ちを認め、繰り返さないこと、これが絶対戦争を起こさないために大切だと考える私は、全てを戦争のせいにするこの人達に、少し嫌悪感を持ちます。

確かに奥村さんたちはお気の毒だと思います。しかし彼は中国に行き、当時は日本人として出兵してた人達も、終戦時解放という名で日本国籍から離れたため、恩給のもらえない人がいるのはご存知だと思います。何故その人達には会わないのでしょう?当時日本兵だった中国の人達も、国単位の戦後補償は終わっていると中国政府から切り捨てられた、いわば同じ立場の人達なのに。この辺問題提議の底が浅い気がします。

最初と最後に映る靖国神社。右翼らしき人の「次の戦争では負けない日本であるように!」との演説に、正直笑ってしまいました。”次の戦争”ですか?古今東西、小説でも映画でもテレビでも、戦争は勝者敗者に関係なく、両方が深い傷を負うものであると説かれ、ほとんどの人が認識していると思っていた私は、まだまだ自分も甘いなと感じます。

その靖国でにこやかに演説していたのは、あの小野田寛郎さんでした。かの右翼の人の演説の直後なので、彼も同じなのかと少々失望する私。この辺は演出ですね。その小野田さんに奥村さんは近寄り、「あなたはあの侵略戦争を美化するのですか?」と言い寄ります。すごい剣幕で言い返す小野田さん。なんかとても作偽的。だって心底悔恨しているように見えない人から、いきなりそういうことを言われてもなぁ。この辺は描き方が散漫になっている感じがします。

奥村さんも小野田さんも、同じように戦争では加害者でもあり、被害者でも合った人です。戦後60年、何故これほど袂を分かつ思考に至ったのか、中国人はみんなイイ人を描くより、この辺を掘り下げた方が、もっと戦争というものの本質に近づけるように、私には思えるのです。

ふとドクなら、奥村さんと同じ立場でも、やはり黙して語らず、一生を閉じたのではないかと感じました。しかし決して観て損をしたという作品ではなく、戦争を体験した人から学ぶことは、やはり多いのです。それが一番「次の戦争を絶対起こさない」ための近道だと思いますから。


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