ケイケイの映画日記
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2006年06月29日(木) |
「ククーシュカ ラップランドの妖精」 |
本日観て来ました。本当はシネフェスタ9時40分からの「インサイド・マン」を観る予定でしたが、息子から用事を頼まれその時間がアウトに。さてどれにしようと、お気に入りに入っている劇場HPを覘いていると、この作品が明日で終了と書いてあります。えらいこっちゃと、12時10分の回を無事鑑賞してきました。タイトルに魅かれて観たかった作品ですが、淡々と進む画面に対して反比例の濃ーい内容で、本当に見逃さず良かったです。息子に感謝しなくちゃ。フィンランドが舞台のロシア映画です。
1944年、第二次大戦末期の北欧フィンランドの最北部・ラップランド地方。フィンランドはかつての自国の領土を取り戻すべく、ドイツ軍と同盟を組み、ロシア軍と闘っています。反戦思考の強いフィンランドの兵士ヴェイッコ(ヴィッレ・ハーバサロ)と、反体制思想を咎められたロシア軍の大尉イワン(ヴィクトル・ブィチコフ)は、フィンランドの先住民サーミ人のアンニ(アンニ・クリスティーナ・ユーソ)にそれぞれ助けられ、言葉のわからない三人の男女の、奇妙な共同生活が始まります。
前半は懲罰で鎖につながれ置き去りにされるヴェイッコの様子や、味方の誤爆で吹き飛ぶソ連兵の姿なんぞが映り、普通の戦争モノだったのかと思いました。
三人の共同生活は言葉がわからないので、とてもユーモラス。皆勝手に自分だけしゃべり、会話は成立しませんが、その分相手に言葉が解れば、絶対口にしないようなセリフも発します。それがとっても面白い!噛み合わない会話の中、三人とも本音しか喋りません。
タイトルの妖精とは、アンニのこと。4年前夫が出征したっきりで、粗末な掘っ立て小屋のような家に住み、数頭のトナカイの放牧と、あとは自給自足で生きています。一人寝が寂しかった彼女は、急に二人の男が目の前に現れ、欲望を隠しません。「死にかけの病人なのに、ほてってしまったわ。」「私に障らないで。それだけで濡れるから。」「早く私を押し倒して」などなど、あからさまなセリフの数々が、この逞しく生々しい妖精から発せられると、とてもユーモラス。女の魔性とか不義密通の淫靡さもなく、食欲や睡眠と同じく生理現象、快楽などと大それた物でもなく、人生の楽しみの一つだと思えます。自分たちを助けてくれた女性だと、男性二人が彼女に敬意を払って欲望を隠しているのに対し、アンニがいつコノ男達を食っちゃおうかと、虎視眈々なのが笑えます。
友好的でもう戦争などしたくないヴェイッコに対し、イワンはあくまで好戦的。ヴェイッコがドイツ軍の軍服を着せられていたこともあり、最期までファシストと罵ります。ヴェイッコが普通にフィンランドの軍服を着ていたなら、ここまでイワンも固執したかな?と思います。この表現に、ヨーロッパではナチスに対する嫌悪感は、当時から今もってぬぐいされない存在なんだなと感じました。しかしこの様子も、アンニをめぐる恋のさやあて同様、言葉が通じないことを上手く使って、ユーモラスに表現しています。
キノコはあたるから食べちゃダメ、トナカイのお乳を搾り、その中にトナカイの血を混ぜたものは病人に精気を与える、解毒のハーブ入りのスープなど、文明の発達していなさそうなこの土地の、生きる知恵が土俗っぽくも神秘的に表現されます。現代の価値観で見ても、なるほどと納得出来る言い伝えで、国は違えど人として生きる先達への敬意が湧きます。
その最もたるのが、死の淵に彷徨う人を耳元で音を鳴らし、犬の遠吠えを真似、意識を呼び覚まそうとするおまじない。人間の聴覚は生命の最期の最期まで感じる力があるそうで、このおまじないも、生活の知恵から生まれたものだと思います。フィンランド版三途の川が出てくるのですが、それが日本で言い伝えられている様子ととても似ていて、びっくりしました。このシーンは寓話的なこの作品を一層際立たせ、私は一番好きな場面でした。
男性の精を浴び、見る見る美しく生き生きしてくるアンニが印象的。牧歌的なのどかな雰囲気の中、母にも看護士にもシャーマンにも「女」にもなる彼女は、神が与えし命を尊ぶ術を、私たちに教えてくれているようです。大阪は30日の金曜日まで。東京・名古屋は上映終了のようですが、これから公開の地域の方は、お時間があれば是非どうぞ。忙しい毎日を送る中、一服の清涼剤になる作品かと思います。
2006年06月25日(日) |
「コースト・ガード」(レンタルビデオ) |
昨年の韓流フェスティバルで唯一観たい作品だったのが、これ。ガーデンシネマで6時過ぎから一週間上映なので、観るのを断念した作品。久しぶりにビデオ屋に入ったら、この作品のビデオがあったので、即行借りました。演技力と華とを併せ持つチャン・ドンゴン主演作ですが、内容は非常に厳しい作品で、ロマンスやコメディ主体のフェスティバルの中では、異色の作品ではなかったかと思います。2001年のキム・ギドク作品。
南北の軍事境界線で警備に当たるカン上等兵(チャン・ドンゴン)。ある警備の晩、海岸で情事にふける民間人の男女の姿をスパイと誤認し、男の方を射殺してしまいます。そのことが原因で、残された射殺した男の恋人ミヨンも、気がふれてしまいます。そしてカンもまた、だんだん精神を病んでいきます。
冒頭泥だらけの凄まじい訓練のシーンが出てきます。以降も過酷な訓練シーンが数々映し出され、中にはしごきとも取れるものも。同じ過酷なシーンでも、「シルミド」のような、目標があるための志の高さも感じません。ただ決められたことを一生懸命やっているだけ、そういう風な後ろ向きの感じがします。休戦中とはいえ、朝鮮戦争は兵士たちとって遥か昔の事、平和な暮らしを生まれた時から享受している彼らにとって、限りなく朝鮮戦争は終戦に近いのだと思います。
それは民間人とて同じこと。海に面した場所で警備している兵士たちに、「どうせ人も撃った事がないのだろう」と冷やかしたりつっかかったり、民間人が入ってはいけない場所に旅行に来た若い女性が、兵士とツーショットの写真をせがんだり、これがほんの十数年前の韓国なら、考えられなかったことではないかと想像できます。どこにスパイが潜んでいるかわからないのに、付近の写真などとんでもないからです。それに女性がスパイだということもあるので。日本で暮らしている想像以上に、所謂「平和ボケ」が進行しているのだと、びっくりしてしまいました。
そんな緩んだ空気の中、カンだけはいつも命がけで練習し、敵を撃って手柄を立てることだけが生きがいのようで、隊から浮いているように見えます。あまり彼の背景は描かれませんが、何かに駆り立てられるものがあるのは確か。監督のギドクは、学歴差別が激しい韓国で高校はおろか、中卒だと聞きます。5年間の海兵隊勤務ののち、若き日にフランスに渡り絵を描いて生活の糧にしていた、あるいは外人部隊にいたこともあるなども、読んだことがあります。カンには外の世界での優劣が関係ない軍隊で、手柄を立て、これからの人生の糧にしたい、恵まれない層の韓国の若者が投影されているように感じました。それは「撃たせてくれ!」と叫んだ、「ジャーヘッド」のトロイがかぶります。
精神を病んだカンは除隊になりますが、それが納得出来なかった彼は、次第に自分がまだ軍隊にいるように思い込み、練習中に再三軍隊に出入りし、完全に気がふれたミヨンは、兵士全てが死んだ恋人の見え、誰彼構わずしなだれかっていきます。男ばかりの中で過ごしている兵士たちは、当然彼女に手を出し、複数の兵士におもちゃにされた彼女は、父親のわからない子を妊娠します。
この辺りの描写は見ていてとてもしんどいです。辛いの半分、くどいの反分。特にカンの描写は同じことの繰り返しで、一向に進みません。ギドク特有の過剰な描写+寓話的ムードはこの作品にもみられ、ミヨンの描写では成功していたと思いますが、この作品は今から5年ほど前の物なので、ギドクの腕も泥臭く、この辺は好き嫌いがはっきり分かれると思います。しかしいつもの力強い有無を言わさぬ雰囲気は健在でした。
カンやミヨンの行動から隊は徐々に乱れてゆき、兵士達の分裂やいさかいから、隊は完全に仲間割れに。二人は切ない狂言回しのよう。その狂気の描写は、フィクションでありえないと思いながら、彼等の追い詰められた行動がすごく理解出来ました。
この作品は、南北和平を願うのでもなく、軍隊の存続を否定するのでもなく、平和ボケの市民に警鐘を鳴らしているのでもないと思います。韓国という国の持つ哀しみと痛みを、国民は忘れてはいけない、ただひたすら、ひたむきにそれだけを訴えている、ラストのカンの姿からそう感じました。観ている間はとても過剰な演出で煽られているのに、観た後、ひたひたと哀しみに心が包まれる作品。ただしこれは在日韓国人として観た私の感想ですので、日本の方にはイマイチ心に届かないかも知れません。それでも韓流ドラマで韓国に興味を持った方々に、「もうひとつの韓流」として、観ていただければ幸いです。
梅雨に入りあんまり体調が芳しくありません。雨が降ると不調になるので、この作品も延び延びになっていました。まだ術後二ヶ月半ほどですから、のんびり行こうぜと思っています。本当は昨日は「インサイド・マン」にしようと思っていましたが、朝にうちの掲示板を覘くと、常連さんのみぃさんと眸さんが良かったの感想を寄せて下さっていたので、急遽差し替えました。女子高生があの三億円事件の犯人だったという、大胆な着想の作品のタイトルが、何故に「初恋」?と思っていましたが、観れば納得。久々に少女期の胸のときめきが蘇りました。
昭和40年代。女子高生のみすず(宮崎あおい)は、家庭にも学校にも居場所がなく、孤独を託ち生きていました。彼女の父は亡くなり、母は兄リョウ(宮崎将)だけを連れて家を出て行き、みすずは叔父夫婦に預けられていました。そんな寂しい日々を送るみすずの前に、突然兄が現れます。自分ならいつでもここにいるからと、自分がたむろしているジャズ喫茶「B」のマッチをみすずに渡します。そこにはリョウの友人達がおり、みすずも仲間に加わります。そしてその中の一人東大生の岸(小出恵介)に、みすずが特別な感情を抱き始めた時、彼からあることを手伝ってくれと言われます。
前半は「B」にたむろする若者たちが中心に描かれます。当時の世相は学生運動華やかなりし頃で、警察との攻防なども描かれますが、この若者達は国を憂う怒れる若者たちなどではなく、経済的に底辺なことや、自分の才能が評価されないことに対する怒りを、刹那的な暴力やドラッグ・酒で鬱憤を晴らす輩です。雨降る中、門限まで家に入りたくなく濡れ鼠になる痛々しいみすずと比べ、彼等の怒りや鬱屈は、私には幼稚なものに思え、あまり共感出来ません。
リョウもみすずを誘っておいて、孤独な妹に兄らしい優しさや頼りがいを見せる訳ではありません。そのことも不満な私。当時時代は敗戦から立ち直り、高度成長に移行する過度期で、「B」にたむろする若者達と同じような境遇の者も、いっぱいいたはず。彼等が全部世間や権力を怨み、後ろ向きにエネルギーを発散していた訳では有りません。コツコツ勉学や仕事に励み、将来に夢を馳せ真面目に生活していた人もたくさんいたはずです。私の夫は昭和28年生まれで、この時代は中学生です。仕事に恵まれない父親を持ち、仕立物の内職をしながら一生懸命家計を支える姑を見て、三つ上の義兄と二人、小学校の時からアルバイトをして、家計の助けをしたそうです。だから貧しさや恵まれない家庭の子が、それを理由にぐれるのを、夫はとても嫌います。
しかしリョウとみすずの母親の見せ方で、ある思いが湧きました。昼間から酒びたりで、下着姿で酔っ払って寝ている姿はとてもだらしないです。そして息子に、「あの人、なんで帰ってこないんだろう・・・」と、出て行った男の相談事を息子にする姿は、なんともやりきれません。私が気になったのは、終始後姿だけで顔が見えません。もう一度画面に出ますが、その時も後姿だけ。彼等にとって母親は、嫌悪感も愛情も抱かせない「顔のない」存在なのです。私の姑は毎日の辛い日々を、韓国の実母に宛てた手紙にしたためては、泣きながら破いたそう。そして子供4人が健やかに成長している写真と共に、良き本当のことだけをまた書き直したそうです。泣いた顔、辛い顔、そして愛情いっぱいの母の顔を見せた姑は、子供たちに真面目に暮らして母親を喜ばせたい、一生懸命働いて母親を楽にしてあげたいという、子供にとっても財産になるような心を引き出したのだと思います。
リョウとみすずの母親だけではなく、権力者の息子に生まれた岸も、父親の「汚い大人」ぶりに怒りながら、その恩恵に預かっていることは気づきません。それどころか、父親に恥をかかせることが、父親に対抗する手段だと思っている甘ったれです。しかし父も画面に出てこず、秘書を通じて父の姿が浮き彫りになるだけです。遠く離れた親子の心をみて、彼等の幼稚であるからこその痛みに、哀しさを感じます。
後半は三億円強奪がメインになると思いきや、これからは完全なラブストーリー。確かに強奪シーンも出てきますが、少しスリリングなだけで、みすずと岸の、共有の秘め事であるためのシーンのように感じました。みすずは誰かに必要とされたことがないから、と岸の頼みを引き受けますが、本当は「岸のためになるのなら」であることは明白です。上の画像は岸の本心を確かめられず、さりとて自分の恋心を明かすことも出来ないみすずが、一枚の石を間に挟み岸の肩に寄り添っている、乙女心をとてもよく表しているシーンです。
ある程度の年齢になった女性なら、私の恋するあの人は、私のことをどう思っているのか?愛してはいないかも知れないが、嫌いではないだろう、告白して会えなくなるなら、このままがいい。そういった感情を一度は持ったことがあるでしょう。そういった本当の意味での、ピュアな恋心の描写の数々が素晴らしい。キスもなく抱擁もなく、ましてやセックスもしません。しかし手を握るだけで、肩を抱きすくめられるだけで、心臓から口が飛び出そうな、しかし幸せなみすずの心が伝わってきます。
ある事柄から、岸のみすずへの愛がわかります。このシーンはとってつけたようで、映画的には不自然です。しかし岸の愛を確認したみすずが号泣する姿に、私ももらい泣きしました。自分の恋心が報われた時、それが例えどんなに切ない状況であっても、嬉しくないはずがありません。辛く孤独な暮らしの中、捨て鉢にならず自分に正直に生きた、監督のみすずへのプレゼントだと思いたいです。
宮崎おあいは表情で見せる静かな演技がメインでしたが、大変好演だったと思います。いつまでもセーラー服が似合う瑞々しさですが、もう22歳なんですね。小出恵介は、初登場シーンから昭和の青年満開で、もうびっくり!幾ら髪型や服装を上手に真似て雰囲気を出していても、「B」にたむろする連中は昭和の若者に見えませんでしたが、小出恵介だけは別。いいところのおぼっちゃんで優等生とは、昔はあんな感じでした。
岸には三億円強奪という形で、みすずと共有する物を持つのではなく、男性として彼女を幸せにして欲しかったですが、父親を真っ当な形では越せない、弱い自分を自覚していたのでしょう。きっと彼女を守りきれなったはず。代わりに彼女に人を愛する強さを与えたのだと、ラストシーンのみすずの姿を見て思いました。ラストに「B」の仲間たちのその後を知らせますが、不遇な男性陣に比べ、女性二人(小峰麗奈扮するユカ)が、たくましく生きている姿は、その後の昭和から平成の時代を表しているんでしょうか? お若いお嬢さん方には、みすずのような初恋を経験してほしいなぁと思います。いえ三億円強奪ではなく、即セックスに結びつかない恋です。これは少女期でなければ、絶対味わえない感情ですから。命短し恋せよ乙女、ですね。
2006年06月18日(日) |
「DEATH NOTE デスノート」前編 |
父の日の今日観て来ました。息子達三人は父親孝行もせず、さっさと遊びに行ってしまい、代わりに私が趣味とお父ちゃん孝行を兼ねて、映画に引っ張り出しました。角座のチケットが一枚余っており、前に夫が観たいと言っていた「デスノート」に決定。日本橋で降りてチケット屋で1400円なりのチケットを買いました。これで私の電車賃460円を足しても1860円なりで、夫婦50割引より安くついたぞ(夫は定期券で途中下車)。「少年ジャンプ」で連載のコミックを映画化したもので、私は原作は未読です。何でも息子達によると、原作は「ジャンプ」ではなく「ヤングジャンプ」で連載した方が良さそうな代物だとか。結構期待して観ましたが、うーん、稚雑な点が目につき、映画の方はヤンジャンではなく、ジャンプ風の作品でした。監督は「平成ガメラシリーズ」の金子修介。
頭脳明晰で将来は警視総監を目指している夜神月(ヤガミライト・藤原竜也)は、警視庁のHPに不正アクセスし、犯罪者が野放しになっている実態を知り、法の限界を悟り激しい無力感に襲われます。そんな時「デスノート」と書かれたノートを偶然拾います。ノートの書いてある通り、一人の犯罪者の名前を書くと、その犯罪者は心臓麻痺で死亡します。こうして人の命を操るようになったライトは、次々と犯罪者を処刑していき、「キラ様」と呼ばれ、世間から救世主扱いされます。この前代未聞の大事件を解決すべくインターポールより天才的頭脳を持つL(松山ケンイチ)と呼ばれる少年が、警察庁に送り込まれ、二人の戦いが始まります。
冒頭からライトがキラになるまではテンポよく見せ、快調です。ライトの闇の処刑人ぶりは、性犯罪者、汚職、無差別殺人などで、法の網をかいくぐって無罪になった犯罪者を裁くので、観ていて確かに納得も出来ます。しかしその犯罪者が捕まると裁判も何もなしで殺してしまうのが、如何にも短絡的でちと疑問符がつきます。犯罪には必ず背景があり、裁判がある限りその審議も必要ではないか?と、ライトの恋人詩織(香椎由宇)のように、私も感じました。有無を言わさぬライトの裁きに、少々傲慢な感じがしたからです。
デスノートは死神(声・中村獅童)の落し物で、以来死神はデスノートの所有者にだけ見え、ライトの傍に住み着きます。この死神はCGなのですが、これがちょっとコミカルを通り越して、漫画っぽい。こういう設定はかぶりもんでも難しいので、無難なのはCGなのでしょうが、大昔の東宝の特撮物や子供向けドラマの「マグマ大使」や「仮面ライダー」など、今観ても魅力たっぷりのかぶりものを着た人間が扮し、チャーミングでした。反ってその方が良かったかも。これは昔を懐かしむ私の懐古趣味かも知れません。
死神に取り付かれたのか、行動が暴走するライト。権力を握ると人間は、最初の志どこへやらになりがちですが、彼にもそれがあてはまります。最初は犯罪者ばかりを狙い撃ちしていたはずが、自分の身を守るための行動に出て、その神気取りの様子には怒りを感じます。
頭が切れて生活にも自分の境遇にも何不自由ない子の、対警察への挑戦状のようなゲームに話が変換していくのですが、人の命を自在に操るので、はっきり言って不快です。ここは不快感を持っても良い箇所だと思いますが、ライトの心が段々とではなく、一気に悪魔的になっていくので、最初の志からの変貌の様子が希薄で、元からこういう傲慢な子なんだという印象です。もっと丁寧にライトの心の移り変わりを描いた方が良かったかと思いました。
対するLも食事らしい食事は取らず、お菓子ばっかり食べる引き篭もった青白い子で、どうも好きになれません。そんなに賢そうにも見えませんでした。原作もそうなんでしょうが、私には気持ち悪かったです。こんな小童(こわっぱ)二人に大の大人達が翻弄されて、頼りなくて情けない思いがしました。
数々の頭脳的なプレイ、のはずなんですが、私には駆け引きも強引に思え、だいたいデスノートのあんな定義では何でもありじゃんと、余り面白くありませんでした。何故かFBI捜査官が出てきますが(一応インターポール介入事件)、FBIってこんなバカじゃなれんだろうというくらいお粗末。尾行はバレるは、単独で何でも進めるは、あげくにあの結果。ハリウッド作品で数々のFBIの優秀さを見ている私には、ありえん展開です。
結局Lのセリフの「キラとボクは同じ。幼稚で頭がいい」の、幼稚な部分が目立つ作品でした。主演の藤原竜也は童顔のまま美しさを保ちながら成長し、永遠の美少年という感じで、キラの役には合っていました。松山ケンイチも「男たちの大和」とは打って変わっての変貌ぶりで、将来有望株みたいです。他ではキラの母親役の五代路子がいただけません。少ない出演場面で重要なシーンはありませんが、演技がオーバーで目立ちすぎ、鼻につきます。「ヨコハマメリー」でも、彼女のインタビューシーンだけ、一気に「芝居」になっていて、少々白けましたが、あれはドキュメント。こちら本職でのお仕事なんですから、2度続けて見せられたので、書いておこうと思います。作品の優劣には、案外こういう何気ないシーンが好感度をアップするもの。Lの執事的な役の藤村俊二など、飄々とした演技が自然な空気を醸し出し、とても良かったのですから。
でもナンだカンだ言っても、多分後半も観ると思います。
今観て来たばっかり。あの私を映画道に引きずり込んだ思い出の「ポセイドン・アドベンチャー」をリメイク、それもウォルフガング・ペーターゼンだなんて、あんたなんかに撮って欲しくないわと思っていましたが(「パーフェクト・ストーム」参照)、どんなにダメでも「ポセイドン」とつくだけで、やっぱり観たくなる哀しい私。しかし意外にも私と同世代で、この作品に思い入れのある方々からも、好評なのです。いわく「ドラマ部分はすっ飛ばし、別モンと考えろ」だそう。なるほど、手に汗握る危機また危機は堪能出来そう。ならばスクリーンの小さいラインシネマではなく、大きい角座の方が良さそう(招待券もあるしね)。これが大正解でして、合格はあげても良いリメイクでした。
大晦日の豪華客船ポセイドン号。船上では、船長司会でパーティーがたけなわです。船には元ニューヨーク市長のラムジー(カート・ラッセル)と娘ジェニファー(エミー・ロッサム)と恋人クリス、シングルマザーのマギー(ジャシンダ・バレット)と息子コナー(ジミー・ベネット)、恋人と別れたばかりのゲイの老紳士ネルソン(リチャード・ドレイファス)、訳あって無賃乗船しているエレナ、ギャンブラーのディラン(ジョシュ・ルーカス)などが、様々な思いを胸に抱いて、乗っていました。しかし年が明けてすぐに予測不能な大波が船を襲い、ポセイドン号は転覆。ディランとラムジーを中心に、数人が船上脱出にサバイバルします。
ポセイドン号が転覆するだけで、後はほとんどオリジナルに近い脚色でした。元作のスコット牧師(ジーン・ハックマン)VSロゴ刑事(アーネスト・ボークナイン)の印象的な対立などもなく、私が予測したラムジーVSディランもなく、仲間割れはありません。女子供を脱出の優先にするお約束も守り、なんですが、この人間関係はだいぶツッコミあり。後でネタバレで書きます。巷の評判通り、ドラマ部分は希薄です。
そもそもすぐに転覆しちゃうので、その人の背景がわからずというか、多分どうでも良かったんでしょう(暴言)、その代わり、脱出までの過程は見応え充分です。転覆の大掛かりな仕掛け、燃料が引火しての大爆発、吹っ飛ばされる人々の様子、脱出組はあの危機、この危機を乗り越えても、すぐにひたひたと洪水のように水が押し寄せるので、息つく暇なく行動に移さねばなりません。観ているこっちも息つく暇なし。途中カンカン音が鳴るので「救出だ!」、とみんな色めき立ちますが、スカでした。あれは一息入れて下さいとの、監督のサービスでしょうか?
元作から30年経っているので、CGをふんだんに使っての描写も、地上とはまた違った船の中の出来事なので、迫力満点で新鮮味がありました。水を使ったアクション物というのは、案外少ないからかも知れません。パーティの様子や調理場の様子には、人海戦術を使うなど(違うかも?)、細かい配分も良かったです。元作はヒッピー風味のキャロル・リンリーがオスカーの主題歌賞を撮った「モーニング・アフター」を歌っていましたが(歌はモーリン・マクガバン)、今作では叶姉妹のような色っぽいお姉さんで、その辺はやっぱりちょびっと寂しかったです。
今回の出演者トップは、なんとカート・ラッセルを追い越し、ディラン役のジョシュ・ルーカスでした。(↑)ちょっとマシュー・マコノヒー似のハンサムで、なかなか良かったです。アメリカではコケちゃったそうで、次に観る時は主役ではないかも(残念)。カート・ラッセルは水の中に潜るシーンでは、レイ・リオッタに顔が似ていました。元市長だけではなく、元消防士とは「バック・ドラフト」を意識してか?手に汗握ると言いながら、ドラマ部分が希薄だと、こういうところも楽しめます。ドレイファスは老けすぎてびっくり!だってまだ60前ですよ、もう老人みたいでしたが、役作りであることを望みます。元作より老人を減らし、使える若い男性(クリス)を増やしたのが、サバイバル場面のバージョンアップに貢献していました。
ドラマ部分はオリジナルなので比較しようがなく、正解だったかも。サバイバル場面が面白かったから、これはこれで楽しめました。役者さんたちもずぶ濡れ体力勝負の演技ばっかりで、よく頑張ったと思います。でもやっぱり私は
「ポセイドン・アドベンチャー」の方が大好きですが。オリジナルをまた公開してくれないかなぁ。
ではネタバレドラマ部分のツッコミ**********
脱出が始まるとき、ディランは一匹狼で行きたかったはず。だからネルソンの足にしがみつく乗務員バレンタインを「蹴り落とせ!」と言った時、これは穏健派そうなラムジーと対立するなぁと思いましたが、後は女子供に優しく、ほとんどリーダーとして颯爽と引っ張る様子とちょっとちぐはぐ。バレンタインは優しく親切な若者だったので、あの発言は余計に鬼です。「蹴り落とせ!」にはせず、自然に落下したとする方が、納得し易いです。人間の土壇場の保身を描きたかったのなら、もっと人物描写に工夫せにゃ。
ネルソンも自分の身を救うため、バレンタインの命を犠牲にしているのに、最後まで生き残っても葛藤なし。その割にはエレナを最後まで気遣い、ここもチグハグ。この二人は元作のレッド・バトンズとキャロル・リンリーになるのかと思いきや、途中でエレナが亡くなるので、予想がはずれました。(誰が途中で死ぬか、予想しながら観ていた←人でなし)。それに何でゲイの設定なの?別に奥さんに男が出来たでもいいんじゃないでしょうか?死のうとしたくせに、最後まで頑張るのはツッコミません。拾いものした命だから、必死になって守りたくなる、そんなもんじゃなかろうかと思います。
これは死ぬなと思ったラムジーは(←人でなし)、まさか「アルマゲドン」風味で亡くなるとは思いませんでした。あれは元作のシェリー・ウィンタースの場面の代わりなんでしょうね。感動指数は1/3くらいでした。
昨日観て来ました。前評判上々の「誰も知らない」の是枝裕和監督作の人情喜劇です。爆笑という感じではなく、くすくすほのぼのした笑いの中に、いつの世にも変わらぬ人のまごころや哀しみを描いていて、この作品もとても良かったです。
父の敵を討つため、信州から江戸に出て来ている青木宗左衛門(岡田准一)。もう2年になるというのに、手がかりはなかなか掴めず、実家からの仕送りも少なくなっています。住んでいる貧乏長屋には、調子がよく知恵の回る貞四郎(古田新太)を初め、最底辺ながらたくましく生きている人々ばかり。宗左はその中の子持ちの未亡人おさえ(宮沢りえ)に気があります。 仇討ちどころか、近所の子供達に読み書きそろばんを教えることで、生計を立て始めた宗左ですが、そんなある日、人相書きそっくりの仇(浅野忠信)を見つけます。
ちょっと頭の軽い長屋の住人・孫七役の木村佑一のアップが最初に出てきてびっくり!その後想像を遥かに越えた、きったな〜い長屋にまたびっくり!早朝家族に叩き起こされ、寝ぼけ眼で出てくる住人の垢と泥にまみれた姿にまたびっくり!こりゃちょっとやそっとの貧乏じゃないなと、想像に難くないです。みんなもっと寝ていたいようなのが印象的。そうだろうな、寝るのは一番お金のかからないレジャーだもんね。
しかしここの住人たち、たくましいというか、しぶといというか、こんな困窮した生活なのに、生きることに楽天的なのです。難儀や災難、因業大家(国村隼)からの家賃の督促に逃げ回る姿は、したたか且つ愉快です。この人々と交わるうち、宗左は仇討ちだけで明け暮らしている自分の生き方に、段々疑問が湧いてきます。
折りしも時代は犬公方・五代将軍綱吉の時代で、ちょうど赤穂浪士が吉良に仇討ちする様子も挿入しています。その浪士たちの、武士は食わねど高楊枝の様子の、体面ばかり気にして空威張りする姿を冷やかしながら、「武士って何も作らず売らずで、どうして金稼いでるんだ?」や、武士の散り方になぞらえられる桜を、「来年も咲くってわかっているから、パッと散るんだよネェ」という長屋の住人たちのもっともな言葉をかぶせて、宗左の苦悩に説得力を持たせています。
主軸は宗左の仇討ちなのですが、騒々しくも楽しい盛りだくさんのエピソードと、幾つかの恋模様の様子が花を添えます。登場人物もたくさんなのですが、きちんと整理され、それぞれ位置づけも性格づけも分かりやすいです。
登場人物はみんな強く印象を残しますが、私が一番印象的だったのは、加瀬亮演じる世捨て人のようなそで吉。なんというか、相当暗いスナフキンというか(想像しがたい?)、明るい喜劇のこの作品で、唯一本当の生きる哀しみを漂わしています。大家の遊女あがりの後妻(夏川結衣)と、かつて恋仲だったとわかるのですが、そで吉が好きな長屋の娘おのぶ(田畑智子)の口撃に、「あんたがここを出て行くときは、もっと辛いことが待ってんだよ。」の後妻の言葉に、何故ここの住人たちが底抜けに明るいのかわかりました。どんなに貧しくとも、おのぶの父は、決して娘を女郎にはしません。おせいとて、あの美貌(宮沢りえですから)なら、豪商の妾など幾らでもあるはず。「武士は食わねど高楊枝」ではなく、「ボロは着てても心は錦」なのですね。
宗左の取った仇討ちの落とし前の付け方は、あっと驚くものでした。お侍さんの意地もへったくれもない付け方なのですが、自分の意地より、長屋みんなのためを思う、そんな宗左を応援したくなります。おさえの仇討ちに対する心の吐露は、彼女の背負ったものを知る時、深く心に染み入ります。
岡田准一がとっても良くて、それもびっくり!クセ者俳優やイロモノ出身の人が大挙出演したこの作品で、誰に食われることもなく、堂々の主演ぶり。今まで人気がある理由はわかりましたが、美しさが大評判だった「東京タワー」を観ても、どうということもなかった人ですが、へっぽこ侍を演じて、内面の優しさや誠実さを充分表現出来ていました。彼のことが大好きになりました。大阪出身なので、喜劇は性に合うのかも。明るい楽しさと共に、人生の哀しみを挿入するバランスも良い、とても上出来な人情喜劇でした。
2006年6月6日、「666」の昨日、ラインシネマで観て来ました。よその劇場は午後7時代一回こっきりのようですが、ラインシネマは2回上映で5時10分のを鑑賞。晩ご飯の用意をして準備万端出かけました。元作は確か中学の時に公開だったと思いますが、私が観たのは大昔のテレビ放映でした。今回観るにあたり、復習しようと思いましたが、ビデオ屋の会員期限が切れており断念。こういう時は地上波で放送して欲しいもんですよね。666が並ぶことでのいわばお祭り企画でしょうが、劇場は思わぬ超満員。映画オタ風、カップル、往年の映画ファン風、ノリで観に来た女子高生たち。そんな中おばちゃん一人観は、私くらいのモンでしたが。
イタリアに赴任中のアメリカの若き外交官ロバート・ソーン(リーヴ・シュライバー)の妻キャサリン(ジュリア・スタイルズ)が、6月6日午前6時に男の赤ちゃんを産みますが、死産。悲嘆にくれるロバートに、病院で知り合った神父が、同じ時期に生まれた男の赤ちゃんをみせ、ロバートに亡くなった子供の代わりに育てるよう頼みます。妻には内緒で了承したロバートは、ダミアンと名づけ大切に育てます。しかしダミアンの誕生会をきっかけに奇怪な事件が続発する中、ロバートにダミアンは悪魔の子だと申し出る、ブレナン神父(ピート・ポスルスウェイト)が表れます。
元作はオカルトブームが一段落した時分、大御所グレゴリー・ペック主演ということで、真打登場みたいに宣伝されていた記憶があります。当時60歳のペックは盛りを過ぎてはいるものの、往年の大俳優だというのは周知のことで、この手のホラーやオカルトものに付き物の、胡散臭さやいかがわしさを払拭するキャスティングでした。妻役のリー・レミックも中年に入っていましたが、「酒とバラの日々」など印象的な代表作もある美人女優です。
今回のリーヴ&ジュリアのキャスティングは、元作に比べれば小粒な感じは否めません。しかし平凡ですが誠実さは感じさせる人達でしたので、B級ゲテモノ感はありません。特にジュリアの方は健闘していたと思います。主役二人の小物感は、怖〜い乳母・ベイロック夫人にミア・ファロー、その他ポスルスウェイト、デビッド・シューリスなど、ちょっとクセのある役者で補おうとしたのだと思います。
特にファローは、「ローズマリーの赤ちゃん」というオカルト物の傑作主演作品があり、ラストに見せた自分の産んだ悪魔の子に対しての、母親としての微笑が怖くて切なくインパクト大だったので、ダミアンが自分の産んだ子ではないと苦しむジュリアとの対比になっており、ローズマリーが年を取ってベイロック夫人になったような錯覚をうみ、絶妙のキャスティングでした。でももうちょっと気持ち悪くても良かった気が。
ストーリーはある程度忠実にリメイクしていて、印象的だった斬殺シーンは少し変更になったのもあります。元作時は大層ショッキングな場面でしたが、オカルトブームが去った後やってきた、スプラッタムービーを経てしまった今では、ショックは希薄です。それと画像のシーンの、有名な自転車ギコギコのシーンなど、元作はもっと時間を取って、心理的に恐ろしさが盛り上がる頂点で惨事が起こりましたが、今作ではそこもあっさり。その他の惨事のシーンも、偉そうに言えば、もっと「ため」の演出があってもいいように感じました。恐怖心を煽る暇がなく、あっさり次に行き過ぎるのです。
ツッコミも少々。ベイロック夫人が手を下したある件は、あれでは不審過ぎ。すぐにバレバレです。ここは元作通りにガラス窓から突き落とす方が良かったかも。カメラマン役シューリスも、簡単に神父の日記が手に入って、もうちょっと説明があっても良いような。
肝心のダミアン君は、可もなく不可もなくというところ。ちょっと怪しすぎたかな?最初「ダミアーン!」と彼が呼ばれた時、そんな不吉な名前つけるから、惨劇が起こるのだろうが、と一瞬思いましたが、ダミアン=不吉というのは、「オーメン」から始まってるのをすっかり忘れておりました。そんな超有名作を、だいぶ小振りにはなっていますが、決して冒涜したという感じではありません。「666」が並ぶ1000年に一回を全世界同時公開にして楽しむために、「リメイクすることに意義がある」作品ではなかったかと思います。実際私も、「666」に「オーメン」を観るということに、ワクワクしちゃったんですから。
昨日ラインシネマで観て来ました。最近この手の良質だけどヒットが難しそうなミニシアター向けの作品も、ラインシネマで上映されるので電車に乗らなくて済み、仕事を終えた午後を有効に使えるので嬉しい限りです。第18回東京国際映画祭グランプリ作品。監督は根岸吉太郎。地味ですが深々と心に響く秀作です。
東京で事業に失敗した矢崎学(伊勢谷友介)。会社も友人も妻も失い、長年顔も見せなかった故郷帯広まで、母親(草笛光子)の顔を見たさにやってきます。故郷では兄・威夫(佐藤浩市)が「ばんえい競馬」の調教師として、厩舎を運営しています。威夫は元ばんえい競馬の騎手でした。頼るところのない学は、兄の下厩舎で働くことになります。
一番最初に故郷から帰ってきた学が、ばんえい競馬の競馬場に向かうシーンが映し出されます。私はばんえい競馬なんて全然知らなかったのですが、サラブレッドなどの足の速い馬を使うのではなく、農耕馬を使い、騎手は騎乗ではなくそりに乗り、馬を走らせます。そしてただ走るだけではなく、坂など障害物も越えなければなりません。詳しくはここ。正直画面で観た感想は、ちょっとどんくさく、あまり手に汗握る感じではありません。しかし馬といっしょに馬券を買った人々が走り応援する姿には、地域に密着した楽しさを感じ、のどかでいいなぁとも思いました。しかしこの「どんくさい」が、ラストのレースでは「力強い」と思わせる流れに、ストーリーが成り立っています。
矢崎厩舎で働く面々の姿が実にいいです。早朝の暗いうちから厩舎の掃除、馬の手入れ、餌やり、そしてレースの調教など、とても大変な仕事ぶりを、丁寧にスクリーンに映します。そして賄い婦晴子(小泉今日子)の作る、力の出そうな盛りだくさんの手作りの食事を、厩舎の全員で笑顔でパクつく姿には、低賃金で過酷な労働の辛さより、生命のある物を慈しみ、汗水たらして働く労働の充実感を感じさせます。それは貿易で財をなして、夜な夜な派手に遊びまわっていた学が、一瞬のうちに無一文になる姿と対比して、金銭の大小ではない、労働の意義を感じさせます。
お話はややありふれた物で、都会に出て成功と挫折を経験した学が、本人曰く「みじめたらしくて反吐が出る」故郷に郷愁が募り、やがて再生する姿を映し出します。しかしこの心の復活ぶりの描き方が、素晴らしく清々しいです。学を説教するわけでも愛で包むのでもなく、兄は常にぶっきら棒で、気に入らないと殴る蹴る。しかしその様子に、13年も不義理をしていた年の離れた弟への、肉親の愛情が滲みます。学と同級生だった哲夫(山本浩司)の純真さ、他の厩務員の馬への愛情、晴子の優しさ、同じように挫折を味わおうとしている女性騎手牧恵(吹石一恵)、この人々との出会いを通じて、学がこれからの自分がどう生きなければならないか、頭ごなしではなく、しっかり教えてくれるのです。
主演の伊勢谷友介は、演技巧者の感じはしませんが、ハンサムで頭は良さそうだが、人としてどこか軽い学の心の移り変わりを、観る者に充分納得させる存在感がありました。存在感といえば佐藤浩市&キョンキョン。寡黙な故郷を愛する不器用な男を演じて、存在感たっぷり。健さん以外で、こんな不器用な男を魅力的に演じられるのは、彼しかいないかも。キョンキョンはもうすごい!割烹着着て、賄いのおばさんにちゃんと見えるし、夜はスナックの雇われママなのですが、綺麗だけど場末の水商売の女に、ちゃんと見えます。そしてお話全体を柔らかく包む、母性的な包容力が素晴らしく、彼女の存在で、ぐっと作品のコクが上がったと思います。
厩舎の仕事ぶりだけではなく、ばんえい競馬には本当に女性騎手もいるそうですが、吹石一恵はスタントなしでこなしており、立派。黒い髪、太い眉、大きな瞳にふっくら顔の清純な彼女を、私はいつも好感を持って見ていますが、良い意味で垢抜けないところが芯の強さを感じさせ、この作品にぴったりでした。その他獣医役の椎名桔平が、本当に馬の口の奥まで手を入れて、診察しているシーンにはびっくり。でもこういうところの気の使い方が、作品の質を上げるのだと思います。
成績が悪く馬肉寸前のウンリュウという馬に、学と牧恵の再生を託された競争シーンは、冒頭ののどかさではなく、華やかさはないけれど、踏まれても立ち上がる力強さのようなものを感じさせて、秀逸です。それは撮影方法だけではなく、ウンリュウを再走させた威夫の、学や牧恵への愛と激励の心を、私がしっかり受け取ったからに違いありません。
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