ケイケイの映画日記
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2006年03月30日(木) 「力道山」


終了間際の今日観て来ました。本当は「ブロークバック・マウンテン」を観に梅田まで出かけようかと思っていたのですが、昨日急に、見逃しを納得していたこの作品への未練がムクムク。巷の評判は今一歩で、あまりヒットしていないようですが(そもそもラインシネマの上映も、最初から日に2回。それでなかなか観られなかった)、在日の私には、やはり観なくてはいけない作品に思えたからです。迷ったあげく信頼筋の方にお尋ねすると、押されたのは「力道山」の方。「『ブロークバック』は退院後もやっている。」とのご返答に目から鱗。私ったら、いつも公開直後に観ているので、そういう思考がまるでありませんでした。結果もうもう大感激!
やはり私には観るべき作品でした。

1944年、まだ第二次大戦の最中、貧しさから朝鮮半島からやってきたキム・シラルク(ソル・ギョング)は、相撲部屋に入門するも、先輩力士の手ひどいいじめにあっていました。成功しなければ国へは戻れないシラルクは、一計を案じ部屋の谷町である興行主の菅野(藤竜也)の目に止まります。彼にその気性の激しさを気に入られたシラルクは、「力道山」というシコ名をもらい、同時に彼が後見人である芸者の綾(中谷美紀)を娶ります。順調に実力をつける力道山ですが、国籍の壁は厚く、ついに彼は相撲協会にたてつき廃業。ふさぐ日々を妻に支えられながら暮らしていた彼ですが、ある日偶然目にしたプロレスに魅せられます。

まずは実物の力道山です。ギョングは彼に似せようとこの作品では約30キロウェートを増加、評判どおりちゃんとプロレスラーに見える体格にしてありました。プロレスが舞台ですので、試合のシーンもふんだんにあり、そのほとんどをギョングは自分でこなしているように見え(若干は吹き替えありかな?)ます。大技のシーンにも挑戦し、故橋本真也、武藤敬次、船木誠勝など本物のプロレスラーが大挙出演したのが功を奏して、迫力や技の厚みが充実していて、立派なもんでした。

ギョングは、日本語になるとやや棒読みのきらいと、若干在日のなまりとはイントネーションが違いますが、ほぼ日本語ばかりのセリフも吹き替えなしでこなし、さすがです。強烈な自我を撒き散らし、孤高というには幼稚過ぎる、一向に大人になれない巨漢の男の哀しさと孤独を、持ち前の演技力でいやというほどに演じています。どの作品を観ても常に彼は渾身の演技で、本当に感心してしまいます。

他のキャストも、藤竜也の貫禄と懐の深さを感じさせる演技にも感嘆。きかん坊のように言う事を聞かない力道山に手を焼きながら、父親のような愛情を注ぐ姿は、決して力道山を愛玩物としてではなく、一人の人間として愛しているのが、挿入する数々の出来事でわかります。

綾を演じる中谷美紀もしかり。力道山が綾に魅かれたのは、その美貌のみならず、宴席で三味線を弾く彼女の横顔の「孤独」ではなかったかと思います。貧しさゆえ朝鮮から日本に来た力道山、やはり辛い事情があったであろう、長崎から東京に出て芸者になった綾。同じ孤独を共有する者同士であったのが、やがて夫は成功者に付き物の誰にも本心を明かせない孤独にさいなまれ、妻は夫の心が掴めない孤独を託ちます。男性というのは、ともすれば妻に母親を重ね、何をしても最後は許してくれる存在だと思ってしまいがち。妻の方も、そんな夫に愛想尽かしする前に子供が出来、自分も母となり、そんな夫を不承不承受け入れるうちに、やがては男女の愛から夫婦の情へ移行すると思うのですが、この二人には子供がいませんでした。いつまでもお互いを真剣に見つめる気持ちは、純粋であるが故に孤独を癒してはくれません。

最後まで力道山のマネージャーを勤める吉町(萩原聖人)は、血の気の多い破天荒な力道山に、穏やかで協調性を重んじる自分には無い、男としての憧れがあったのではと感じました。その気持ちが、自分の子供のバースデーカードに書いた文章に表れていました。力道山にしても、学習能力のない自分を支える吉町にすまないと思いつつ、彼もまた吉町がそばにいてくれることに、自分を委ねることが出来る、得難い開放感があったかと思います。

そんな自分を心から愛する人々の気持ちを、何故力道山は踏みにじり、自分をもズタズタに傷つけたのか?ひとえに朝鮮人であることを、ひた隠しにしていたからではないでしょうか?彼が朝鮮人であることは、現役時代は知られてはいなかったはずです。日本で差別され渡米した彼は、帰国してから洋館に住みベッドで眠っていました。スープとパンのディナーを食べ、朝鮮語を話す友人などいないと、自分から一切の故郷のしがらみを取り去っても、故郷の家庭料理を隠れて食べ、夢に出てくる母を恋しく思う気持ちはどうにもならない。意識して日本の習慣から逃れ、自分は朝鮮人でも日本人でもなく、世界人だと言いながら、逃れても逃れても追ってくる朝鮮人の自分の血。本来なら自分を差別しただろう人々の熱い応援は、「負けられない力道山」を彼の心に棲みつかせたのではないかと感じました。男としての、朝鮮人としての、バカバカしくも愚直で純粋なプライドを貫いた力道山の幕引きが、あのような形であったことは、私は彼に似つかわしかったように思います。

韓国で在日の心が掬い取られることはめったになく、このように丁寧に日本で成功した在日の作品が作られたことに、私は嬉しく思いました。エンディングでフィクションだと但し書きがあるように、この作品は単なるプロレスのヒーロー物ではなく、一人の成功した在日の、強烈な自我の奥の孤独が描きたかったのではないかと思います。なるほど、日本の人にはイマイチ芳しくないのも肯けますが、私のような同じ立場の者には、忘れられない作品となりました。


2006年03月25日(土) 「ポルノ時代劇 亡八武士道」

石井輝男監督、丹波哲郎先生主演のカルト大作。この作品が製作された1973年当時の東映は、お色気作品、+バイオレンスの作品も数多く製作されていました。小池朝雄(『子連れ狼』)の劇画が原作のこの作品、何と言っても丹波先生が主演ということで、当時のこの路線としては、格上作品ではなかったかと思われます。しかしキャストは格上でも、中身はかなりハチャメチャ。でもすんごーく面白かったです。

役人に追われる身の剣豪の浪人・明日死能(丹波哲郎)は、吉原遊郭の総名主・四郎兵衛(遠藤辰夫)に腕を買われ、拾われます。四郎兵衛の命令は、自分と対立する売春組織を潰すこと。敵であろうが役人であろうが、斬って斬ってきりまくる死能。ようやく幕府も、この争いの仲裁に立ちますが、その条件とは、死能の首でした。

と、ほとんど筋を書いてどうするねん、という話。しかし筋なんかどうでもいい作品です。場面場面をどう見せるかが命の作品なのだ。オープニング、いきなり飛ぶ丹波先生にキャー、先生が飛んでいる!と喜んだ私です。首が飛び血しぶきが飛びまくる大立ちまわりの中、出演者がクレジットされ、最後に川に沈む死能の背中に「石井輝男」の文字が浮かんではすぐ消え、まあかっこいいわ!という感じです。

ちなみに忘八とは「義・礼・忠・信・孝・悌・廉・恥」を忘れた人間のこと。いうなれば「人でなし」でんな。その亡八を、人であったため試験に不合格だったのに、なんで亡八になれんねんというツッコミはさて置き、私が八つの中で一番感じ入ったのは「恥」。なんというか、お姉ちゃんたちのてんこ盛りの裸攻撃なのです。

意味無く挿入される裸は、まさに当時大映のエロス路線の女神・渥美マリが語った名言、「裸のための裸なんていやです」の、裸のための裸シーンの連続です。それも当時はヘアはご法度だったので、皆さん全裸で大事な部分はお隠しになり、当時は当たり前だっただろう姿は、今観るととっても間抜けで笑えます。初めアンヌ隊員こと、ひし美ゆり子のヌードが出てきた時(美乳でびっくり)、ちょっとエロだなぁと思った私ですが、その後あれだけおっぱいがいっぱいだと、ほとんどコメディ。今はEカップくらいの女性はごまんといますが、昔はCカップも珍しく、これだけぷるんぷるん揺れるほどのおっぱいの女性を探すのは、大変だったろうなと、妙に感心してしまいました。

一番すごいシーンは、死能があわや火達磨かのシーンで、顔を黒い頭巾ですっぽり隠し(顔は火傷しちゃいかんので。芸が細かい)、女亡八たちがごろんごろん転げまわって、着ている着物で「消火」する場面。水も被らず、あんなんで火が消えるかい!しかも隣に水がめあるし!というツッコミはさて置き(さて置きばっかりの作品)、消火活動の済んだ女たちの着物を斬ると、また皆さん全裸。そしてその後、全裸のまま敵方の内田良平と闘うわ、説明なくいきなりご登場の外人女を、誰が責めるかでキャットファイトするわ、本当にハチャメチャ。

しかしもうええわ、ゲップが出そう、とはなりません。何故ならあれだけ裸ばっかりだと、ほとんど女湯状態です。私が子供の頃は「時間ですよ」や「影の軍団」の風呂屋のシーンなど(「大江戸捜査網」でもあったかな?)、テレビは女性の裸に制限が緩く、頻繁にゴールデンタイムに出てきました。その当時を思い出し、ポルノというにはのどか過ぎ、今観るとエロス感はほとんどないからです。

裸に圧倒されて、肝心の立ち回りは印象が薄くなりがちですが、それでもアヘン中毒にされ、役人との立ち回りで禁断症状が出る死能が、自分の足を刺し、正気に戻ろうとするラストの立ち回りは、一番力が入ります。ライトアップされた死能の顔が、ドサ回りの剣劇役者のようなチープさで、ここも良いです。正気に戻るため自傷するって、「エイリアン2」のヒックス伍長もしてませんでしたっけ?(マイケル・ビーンよ、今何処)。

丹波先生は当時51歳。懐かしの「キイハンター」で先生に初めて出会った私ですが、そのダンディさ渋さは子供心にもカッコ良く、今でも日本人俳優で一番男ぶりが良いと思っている人です。どういう経緯でこの作品に出演となったかは知りませんが、当時も大御所だったはずで、こんな珍品に主演なんて懐が深いと感激しました。

その他濃い顔を更に濃くメイクした伊吹吾郎にも笑えます(コメディじゃないんですが、笑えるばっかり)。この人も先の副将軍と諸国漫遊したり、マイホームパパの必殺仕事人だったりするのに、役を選ばない方で素敵です。

昔東映は、こんな感じの「大奥なんとかかんとか」「温泉なんちゃら芸者」「スケバンちょめちょめ」とか大量に作っており、今ではピンキー作品として立派なカテゴリーになっています。何故子供だった私が覚えているかというと、町の電信柱や新聞、テレビで、デカデカ画像のような物が簡単に子供の目に、無差別に飛び込んできたのです。そういえば当時ピンキー路線の大ヒロイン池玲子が、いきなりテレビでおっぱいぽろんと出した時はびっくりしました(出したことではない。あまりに大きかったから)。そんな無神経な時代を過ごした当時より、テレビなど格段に規制が厳しくなっている現代の方が、信じられない性犯罪が起こるのは何故なんでしょうか?表面だけ規制が厳しく、現実はよりエスカレートした物が、簡単に手に入ることが問題なのだと思います。

大阪のローカル番組で赤井秀和が、もし死ぬ前にエッチ出来たら、誰としたいかという問いに「池玲子!」ときっぱり答えていました。彼は私より二つ上。きっと坊主頭を帽子で隠し(昔中学生はジャーヘッドだった)、「大人一枚」と、ドキドキしながら映画の券を買っていたのでしょうね。一人でAVを観るより、健康的だと思うのは私だけかな?


2006年03月22日(水) 「SPIRIT スピリット」


土曜日またまた家族で観てきました。普段なら観るのが微妙なボーダーラインの作品ですが、夫も末っ子も観るというので、これに決定。入院間近でいつどうなるやらの私にとっては、もう映画館で観られるというだけで有難い。ジェット・リー主演の、各国の武闘家の大格闘技大会のシーンだけが見せ場の作品と思いきや、実在の中国の武闘家を題材に、武道の心を私のような素人にもきちんと教えてくれる、爽やかな作品でした。

100年前の中国天津。武術にも人間的にも優れた父を持つフォ・ファンジア(成人からジェット・リー)。しかし息子が喘息の持病を持つのもあって、父は武術を教えず勉学にばかり励めと言います。そんな父の思いを無視し、隠れて稽古するファンジア。やがて天津随一の武闘家となったファンジアですが、彼の慢心は思わぬ不幸を呼びます。傷心の彼は・・・。

前半・中盤・後半と、三部に分かれたような構成です。前半は父と武道とに強い憧れを持つファンジアの幼き日を、学問に長けた親友ジンスンとの交流を織り交ぜて描き、子供心の純粋さを感じさせ、ユーモラスで明るい描き方に好感が持てました。大人になり、腕っ節だけが自慢の彼の慢心振りも、彼が何故こうなったのか、何がいけなかったのかが、観客が考えられるようわかりやすく描写しており、この辺も良かったです。ライバルとの料亭でのバトルは、エキゾチックで美しい調度品の中、階段や池など上手く使って見応えがあり、いつまでも観ていたい気がします。この辺もさすがはジェット・リーというところ。

私が一番好きだったのは、中盤のファンジアが暮らす田舎暮らし。まさにスローライフを実践する生活で、ゆるやかな時間の流れが、ファンジアを癒します。華やかな娯楽が何もない生活。彼の世話をする盲目の少女の、「私は目が見えないけど、心の目で何でも見えるから不自由しないの。」の言葉は、力と富とを持ち崩したファンジアには、とても厳しい言葉だったことでしょう。風がさやさや吹くと、田植えの手を止め風に体をさらす村人。あれは「自然の気」を体に吸い込んでいるのでしょう。大自然の恵みを、心に体にたっぷり吸収している村人は、厳しさではなく、暖かさで彼を包みます。この様子が本当に素晴らしいです。

後半、己の力を誇示するためではなく、中国人としてのプライドのため、再び戦う決意をしたファンジアを、一度は絶交したジンスンが、私財をなげうって、生まれ変わった親友を支える姿が泣かせます。原田真人演じる日本人は、西洋人以上の悪役で描かれていますが、それを救うのが中村獅童演じる日本の武闘家です。正々堂々とした戦いぶりと心栄えは、まるで山下の足を攻めなかったラシュワンのような潔さ。

ただ何で中村獅童がこの役に選ばれたのかは謎です。悪くはありませんでしたが、吹き替えだなぁとわかる挌闘シーンもあり、本気で格闘技を演じられる人でも良かったかも。原田監督は、あの「ラストサムライ」に続き、あの時代の日本人を演じるのが好きなんでしょうか?あんな敵役なんて、こちらも謎が残る出演。

アクション監督は、ユエン・ウーピン。古くはジャッキーの「酔拳」の監督などがあり、最近は「マトリックス」シリーズや「キルビル」のアクション監督や振り付けを担当しています。流麗で力強い挌闘場面が堪能出来ました。監督はロニー・ユー。あの「フレディVSジェイソン」を、きちんと見せられるように作った人です。大昔観た「キラー・ウルフ」も、おバカに流れそうな内容ながら、結構切なくて良かった記憶があります(レスリー・チャン主演作)。

うちの息子曰く「感動系格闘技作品」だそうです。スポーツや武道に励む少年少女たちが、正しい心を学ぶには打ってつけの作品です。今回のリーには、「少林寺」の頃のリー・リン・チェイでクレジットして欲しくなった作品です。


2006年03月19日(日) またまたバトン、今度は「漢字」

ミクシィのバトンです。しばしお付き合いを。

1.前の人(北京波さん)が答えた(まわした)漢字に対して自分が持つ イメージ
  
  「嘘」 
  

「嘘つきは泥棒の始まり」だが、大人になると「嘘も方便」が多くなりけり。「妖怪大戦争」での神木クンの「相手のことを想って嘘をつくのが大人」というセリフは気に入っている。
  
  「愛」

人生で一番大切なもの。私は愛されるより愛する方が好き。

  「青」
  

大好きな色。清らか。若々しい。

2.次の人に回す言葉を3つ
  
  「真」 「善」 「美」

確か韓国のミスコリアは、1,2,3位にこの名前が付いていたような気が。人生を価値あるものさせるには、欠かせない漢字だと思う。

3.大切にしたい言葉を3つ
  

  愛情
  希望
  品格



4.漢字のことをどう思う??

平仮名や話し言葉では表現出来きれない、豊かさを持つもの。最近パソコンばっかりなので、咄嗟に漢字が出てこない自分のオツムが恨めしい。

 
5.最後にあなたの好きな四字熟語を3つ   

  温故知新
  自由自在
  無我夢中
  

6.バトンを回す人とそのイメージする漢字   

  ダイチャンさん 「育」

お仕事のかたわら、お子さん達の学校のPTAの会長さんを務められたり、子供さんたちに合気道の指導をされたりと、私の中で良きお父さんのイメージが大なので。

  あーちゃんさん 「優」

優しく可愛いお母さん。可愛いの「愛」も浮かんだけど、↑で出ているので、優しいを選択。
  
  マルさん 「漢」

漢字の「漢」じゃありません。もちろん男性の意味。映画の感想や世相を斬る時のタフさや厳しさ優しさ、全部ひっくるめての印象です。

ではでは、お三方、お時間がある時お願いします。


2006年03月18日(土) 「エミリー・ローズ」


木曜日に飛ばして観てきました。予告編では「エクソシスト」のノリの、CG多用のオカルトもんかと思いきや、全然違いました。予告編は客寄せだった模様。アメリカでは広く深く浸透する、神に対する信仰心を真摯に問う作品で、実際にドイツで起こった事件を元にしての法廷劇でもあり、まさか感動するなんて思ってもいませんでした。画像はCMで使われたワンシーンで、「悪魔のイナバウワー」と呼ばれ、人気なんだそうです。

アメリカのとある片田舎。女子大生のエミリー・ローズ(ジェニファー・カーペンター)が悪魔憑きにあったとして、教区のムーア神父(トム・ウィルキンソン)が呼ばれ悪魔祓いをしますが失敗。エミリーは亡くなります。検察はエミリーは精神病だったとし、薬の服用を止めたムーア神父を過失致死として起訴。スキャンダルを恐れた教会から弁護を依頼されたのは、野心家の女性弁護士エリン(ローラ・リニー)。彼女は自分を不可知論者だと言いますが、ムーア神父の弁護を法廷でするうち、彼女自身が不可思議な体験をするようになります。

法廷ではエミリーは精神病なのか、本当に悪魔が取り憑いたのかが焦点となります。検事は高名な医師を証人に呼び、科学的に彼女の病を解き明かそうとします。ここは非常に丹念に解説し、彼女の凄まじい様子もきちんと科学的に証明出来るのだと納得出来ます。対するエリンは、神の存在も悪魔の存在も信じていません。不可知論者というと、否定まではしないということでしょうか?しかし弁護をするうち、彼女の身の上にもエミリーと同じ不思議なことが起こり、次第に神父の考えに傾斜していく過程も、充分に時間をさいて描き、納得出来ます。

特にエリンが自分の功名心のために弁護し、釈放させた凶悪犯が、再び犯罪を犯し、自分の仕事に疑問を持つシーンは効いていました。悪魔、神、信仰の真っ只中にいることで、エリンの良心が目覚め始めるのですね。対するキャンベル・スコット演じる検事はクリスチャンでありながら、若い命を散らしたエミリーの無残な死に様に、職業上の正義感を燃やす様が好感を呼びます。次第に悪魔を否定するクリスチャン、肯定する不可知論者の構図となり、この対比も面白かったです。そして観客も陪審員の目線で、この裁判の行方を見守るよう作ってあります。

真摯にムーアの罪を問う法廷劇が続く中、どうしても重たくなりがちな作品を救うのが、ジェニファーの悪魔憑きの演技です。「エクソシスト」のように特殊メイクやCGは極力排し生身一本勝負。まだ20代半ばの新進女優ですが、これからの女優生命は大丈夫かと心配するほどの形相での大熱演です。これだけだとあんまりなので、チャーミングな彼女もご覧下さい。

私が感動したのは、何故悪魔が彼女に取り憑いたか、ちゃんと説明が出来ていたからです。

以下ネタバレ***************














ムーア神父は法廷で証言することに固執しましたが、その理由はエミリーが彼宛に残した手紙にあります。彼女は苦しんでいる中、マリアに出会い、自分が悪魔に憑かれたのは、悪魔の存在を他者に知らしめるからだと教えてもらいます。そして苦しいのなら、私の元にいらっしゃいというマリアに、エミリーは再び自分の肉体に戻ること希望します。エミリーの取った崇高な行動に私は深く感動。私はキリスト教はわかりませんが、彼女は罰を受けたから、また悪事を働いたからではなく、神に愛され選ばれたから悪魔が取り憑いたのだと解釈しました。エミリーならば、この苦痛に耐えられると。悪魔の存在を他者に示すのは、大変な戒めになるはずです。肉体は精神の器という言葉を噛み締め、生死は神の御心のままなのですね。

判決は有罪。しかし陪審員の提案の量刑は判決日の今日限りというのを、裁判官も支持します。このあたりはものすごく納得。法廷では科学的裏づけでエミリーの症状が解明されている限り、悪魔の存在は否定されるのは妥当です。しかし自分がたとえ刑務所に入れられようとも、強靭な信仰心を持った神の子エミリーの存在を知らせたかったムーア神父の愛が、人々の心を動かしたということで、見事なお裁きだったと思います。良心に忠実な弁護士として生まれ変わったようなエリンの様子も挿入し、鑑賞後、私もエミリーの愛に包まれたような気になりました。


2006年03月15日(水) 「イーオン・フラックス」


シャーリーズ・セロンが「モンスター」でオスカーを取った後、選んだ出演作。パスする予定でしたが、予告編を観て気が変わりました。だってオスカー直後の作品ですよ。もろ主演ケイト・ベッキンセールという感じのB級SFに主演とは、「お客様は神様です」を感じさせませんか?(違うか)これこそハリウッド女優としてのプライドではないかと、セロンの心意気に感じての鑑賞でした。

西暦2415年、約400年前新種のウィルスによって滅亡寸前までいった人類は、科学者トレバー・グッドチャイルドによって作られたワクチンで、500万人が生き残ります。現在人々は、グッドチャイルド家の子孫であるトレバー(マートン・ソーカス)が指揮する都市ブレーニャで、汚染された下界から隔離されて生活しています。しかし秩序を重んじるあまり、高圧的な政府に反抗する勢力”モニカン”を率いるハイドラ(フランシス・マクドーマンド)は、モニカンの最強戦士イーオン・フラックス(シャーリーズ・セロン)に、トレバー暗殺の指令を下します。

お目当てはセロンの美しさと頑張りだったので、まぁそれには満足でした。元バレエダンサーの資質を生かし、↑の画像の大開脚や、忍者かやもりのような姿勢での移動など、体の柔らかさが目につきます。アクションは足こそ高く上がるのですが、イマイチ切れが悪く、ちょっと体が重たそう。全然太ってはいませんが、彼女は身長が180cmくらいあるので、よほど俊敏に動かないと、強そうには見えません。だからスタントとCGを多用していましたが、もうちょっと訓練しても良かったかも。

衣装は基調はボンデージファッションです。何というか、反政府勢力って、レジスタンスでしょ?こんな格好で歩いていたら、目立ってしょうがないと思うのですが、それはヤボだし綺麗なので置いておこう。私が爆笑したのは寝間着。何か乳房とオヘソの下を数珠みたいなのでぐるぐるしただけので、思いっきりハミ乳していました。こんなんなら、いっそスッポンポンの方が寝やすいかと。それにしてはベッドシーンは思い切りあっさりで、ちょっとサービス精神が足りないような。

お話はこれ以降、よくあるSFの流れになります。使いまわしてどこかで観たなぁという手合いです。これなら「アイランド」の方がずっと面白かった。全体的に話はわかりやすいのですが、あれこれ盛り込みすぎで、全部中途半端に終わっています。

でも私が結構楽しめたのは、セロン以外にも掘り出しもんがあったから。クレバー役のマートン・ソーカスがタイプなのです。いや役者としてはあんまりかも知れませんが、役柄のちょっと気弱で優柔不断気味の温厚で誠実そうな人と言うのは、私の男性のタイプ。容姿はケビン・スペイシーからアクをとって調えた感じで、地味に渋くてこれもグー。亡くなった妻を○○○○になっても覚えていたいなんて、普通執着強すぎて怖いんですが、ソーカスが演じたので純粋に感じてしまいました(バカ)。

他には「ホテル・ルワンダ」で、ドン・チードルの妻を演じたソフィー・オコネドが、びっくりの大変身。「ルワンダ」では、アフリカ人ながらヨーロピアンのようなエレガントさと気品を漂わせていましたが、この作品では、容姿共々とってもワイルドで、イーオン以上に強そうなモニカンの女戦士を好演していました。他にもピート・ポスルスウェイトのお茶目さんな生命の鍵を握る人物も良かったし、イーオンの妹役のアメリア・ワーナーもすっごく可愛かったです。えーと、マクドーマンドは何で出演したのか、よくわかりません。彼女の演技力を持ってしても、謎だけ残る役でした。アンジェリーナ・ジョリーの最初の夫、ジョニー・リー・ミラーも、次男坊の憂鬱的役柄で出ていますが、これもただ私利私欲に走っているように見えて、単なる敵役です。

監督は日系のカリン・クサマ。女性です。私は未見ですが「ガール・ファイト」という、ボクシングに情熱を賭ける女性の映画でデビューした人です。そのせいか、番傘、インテリア、畳、桜などジャパネスクなムードが盛りだくさん。でも意味あるのかな?原作は韓国系の人が書いたコミックだと聞いていたので、ちょっと謎でした。今回はちょっと(本当はだいぶ)力不足の感はありますが、映像的には良かったと思うので、内容の充実を次作に期待したいです。

以上私は期待のセロンが綺麗だったし、副産物で楽しめたので、凡作でしたがそれなりに楽しめました。でもすぐ忘れる作品です。


2006年03月12日(日) 「シリアナ」

本年度アカデミー賞助演男優賞受賞作。祝ジョージ・クルーニーということで観て来ました。どうもこの作品、面白かった人とダメだった人きっちり分かれるようで、私なんかネタバレなしの感想を読むと、明らかに後者なのです。しかし私は今年のオスカーで彼を予想し見事的中、それにクルーニーは私が大好きだった「ER」の第6シーズンまで、プレイボーイながら熱血漢の小児科医ロス先生だった人。観に行かないのは人の道にはずれるのじゃ、と覚悟を決めて観て来ました。私の予想のつまらん、わからん、眠くなる、は全然大丈夫でした。トロい私の頭では、ぼわ〜ん観ていたら置いていかれると、必死で筋を追いかけたのが良かったみたい。でも悲しいかな、あんまり面白くなかったのだな。

CIAの工作員であるボブ(ジョージ・クルーニー)は、現場での最後の指令が上司から下されます。それは中東の小国の次期国王候補であるナイール王子の暗殺です。ナイール王子は熱心な改革派で、石油の利権で長年手を結ぶ米国ではなく、中国と手を組もうとしています。ナシール王子の父のパーティに出向いたジュネーブ在住の石油アナリストブライアン(マット・デイモン)は、そこで起こった不幸な出来事の償いに、ナシール王子から大きな仕事を持ちかけられます。そのナシールの国に出稼ぎにきていたパキスタン人の青年ワシムは、そのため雇い主が変わり、突然の解雇のため、父共々路頭に迷います。ベネット(ジェフリー・ライト)は、アメリカの気鋭で野心家の弁護士で、二つの石油会社の合弁に深く関わります。

と、一見繋がらないお話が、徐々に絡み合っていきます。が、事態の全容が段々明らかになるという感じではなく、一つ一つのお話が掘り下げられていきますが、一話完結という感じで全体の繋がりが悪いです。主軸は石油の利権なのであまり馴染みが無く、それなりにはわかるのですが、話を味わうより筋について行くのに精一杯の感じが残ります。これは個人差があるでしょうが。

各々エピソードは悪くないもので、特にパキスタン青年ワシムが豊かさを求めて夢砕かれ、同じ境遇の友人と共にカリスマ性のあるイスラム原理主義者の集会に参加し、次第に彼に心酔し洗脳されていくのは説得力があり、憐れさも充分感じさせます。しかし感情を刺激されるのはこのエピソートと、改革に熱心なナイール王子が、安定を求め再びアメリカと手を組む父によって、王位を弟に奪われることくらいです。その他のボブのCIA工作員として、最後は捨石になってしまう悲哀、家庭的だったブライアンが、感情よりも大金の入る仕事を優先させるお話などは、どこかで観た既視感があり、あまりお話も盛り上がりません。

ベネットのエピソードも、ほぉ〜、アメリカの弁護士は、国の経済にも深くかかわり、フィクサーめいた存在なのかと勉強にはなりましたが、これもあんまり面白くはなかったです。面白かったのは、相手に合わせて狩りをしたりスカッシュしたり、お酒に付き合わされたりで、商社の営業マンみたいだったこと。弁護士と言っても日本とはだいぶ事情が違うみたいでした。

要するに石油の利権を握る者が世界を制すということですね。やっきになってアメリカが、他人様の国の政治に首を突っ込むのはよく理解出来ました。クルーニーは良かったんですが、正直オスカーを取るほどかなぁとも思います。作品と監督両方にもノミネートされていたので、どこであげようとなると、一番キャリアの長い演技でってことだったのかと想像出来ます。

シリアナとは、イラン・イラク・シリアが、もし一つの国家をなしたらと仮定しての名前だそうです。ハリウッドのリベラル派がこぞって出演したかった作品だそうで、元CIA工作員の書いた手記が原作だそうです。それにしてはCIAのやったことはどえらいことで、あんなに大っぴらにやるのかという疑問も残りますが、この辺はフィクションだと思います。力作だと思うし出来も悪く無いと思いますが、私にはイマイチピンと来る作品ではありませんでした。


2006年03月06日(月) 「ナルニア国物語 第1章ライオンと魔女」


土曜日の晩、夫と末っ子と三人で観て来ました。その前日は夜の診察の受付にも出て、土曜日は術前検査で9時半までに病院に入り、造影剤を入れての検査でした。多分もうヘロヘロだろうと予想して、映画の前に外で晩ご飯を食べて(日本で一番初めに回転寿司を始めた、「元禄寿司」の布施本店だよ〜)、7時15分の回の字幕版を予約しての鑑賞です。なんだかアメリカ人の週末みたいです。入りは遅い回でしたが初日なのでそこそこ、小さなお子さんの姿は皆無でした(「ハリポタ」は最終の回でも結構見かける)。この作品は子供向きなので、吹き替えが人気かな?大人の私は、アスランの声を吹き替えた、リーアム・ニーソンの威厳に満ちた声が聞けたので、字幕版で満足でした。

第二次大戦のイギリス。ベベンジー家の四人の兄弟は空襲を避けるため、田舎のカーク教授の元に疎開します。気詰まりな中、ケンカしながらも力を合わせて暮らしていた彼らですが、ある日空き部屋の大きな衣装ダンスの奥が、雪に覆われた森に通じるのを、末っ子のルーシーが見つけます。そこは100年間冷酷な白い魔女(ティルダ・スウィントン)に支配されたナルニヤという国でした。動物や半神半獣の生物が言葉を話す不思議なナルニヤは、大王アスラン(声・リーアム・ニースン)が作り上げた美しい国でしたが、今は厳しい冬しかありません。アスランの帰還を待つ住人達は、ナルニヤを救うのは、ペペンシー家の四兄弟だというのです。

冒頭子供達と母が疎開のため別れるシーンで、私ははや爆泣きモード。だって原作を読んでないので、こんなのが真っ先なんて知らんかったもん。この手のシーンには異常に弱い私、別れをいやがる末っ子ルーシーを抱いてなだめる長男ピーター、反抗期の弟エドマンドがいやがっているのに、全然おかまいなしでしっかと手を握る長女のスーザンにすっかり感情移入してしまいます。「しっかりしなくちゃ!」と自分のたちの心細さを隠して下の兄弟に接するけなげなピーターとスーザン、親のように接せられ、不満いっぱいの次男エドマンド、上の兄弟達を慕いつつも、寂しくてたまらいなルーシーなど、導入部分で子供達の性格や、兄弟としての役割や位置づけがしっかり頭に入りました。

ルーシーが目を丸くして、好奇心いっぱいに見渡したナルニヤの景色は、私の心も射止めます。凍てつく雪と氷の世界は美しく、しかし冷酷な風情もしっかり漂わせ、本当に白い魔女のよう。演ずるティルダは、この人しかこの役は出来ないかのようなはまりようです。人を(いや獣や珍獣)をひきつける魅力がいっぱい!各種取り揃えた可愛い子供、愛嬌のある動物たちに珍獣奇獣が大量投下の中、これだけの存在感とかっこよさは、ホントにただもんではないです。やっぱりファンタジーは悪役が素敵じゃなきゃ。白熊のそりにのった彼女の艶姿(?)は圧巻でした。

戦闘場面や半神半獣のタムナスさんなど、CGの使い方も滑らかで、この辺は流石にディズニーです。無駄な血しぶきもなく、お子さんたちにも安心してご覧いただけます。アスランはCGではなく、本物そっくりに作ったリモコンだと思います。アスランはライオンなのですが、威厳に満ちているだけではなく、民に対する慈愛深い心、勇敢さや男としての心構えをピーターやエドマンドに伝える様子など、まるで彼らの父のよう。私なんぞ原作を読んでいないので、これはあの世から彼らの父がライオンに転生して蘇ったのかと思ったほどです。ニーソンの絶妙の吹き替えのせいか、姿はライオンですが、外観より器の大きな中身が、強く印象に残ります。

ちょっと難点は、何故アスランがナルニヤを離れたのか、どうして魔女が取って代わったのかがわからず、サンタクロースからの折角の武器が、あまり上手く演出できていなかったことですね。しかしそれも後から思うこと。観ている間は、ワクワクドキドキ、手に汗握って、兄弟達を応援しました。四人とも画像で観るより、映像の方が生き生きしており、充分に及第の演技です。特にルーシー役のジョージー・ヘンリーは可愛くて可愛くて。そばかすいっぱいの顔、すきっ歯からの笑顔も泣き顔も堪らなく愛らしく、すっかり虜になりました。ゆっくり大きくなってほしいなぁ。

何回も出てくる「アダムの息子、イブの娘」と語られる四兄弟。キリスト教が広く普及している欧米では、全ての人間はアダムとイブの子供でしょう。この作品が書かれた50年前は、戦争の傷跡もまだ深い時代ではなかったかと思います。そんな中、この児童文学は、ともすれば後ろ向きになる子供達に、愛と勇気と夢を与え、家族愛や隣人愛も、しっかり心に刻ませたことでしょう。それをディズニーは手堅く映像化した印象です。兄弟っていいなぁと、素直に思った人も多いはず。もしかしたら、少子化対策にうってつけの作品かも。


2006年03月03日(金) 「クラッシュ」

本年度アカデミー賞、作品・監督・助演男優(マット・ディロン)・脚本賞候補作品。監督は「ミリオンダラー・ベイビー」の脚本を書いたポール・ハギスで、脚本も担当している初監督作品です。オスカーノミニーの発表がある前から、ハギスの監督という事で、注目していました。あらゆる人種の渦巻くアメリカの縮図を、群像劇の手法で表現しています。細かい注文はあるのですが、深く苦い作品ながら、息を呑むほど素晴らしいシーンが随所に見られ、私は好きな作品です。

黒人刑事グラハム(ドン・チードル)は、仕事に人種差別を持ち込まない人ですが、母と弟に問題を抱えています。恋人のリアはヒスパニックの同僚です。有能な検事夫妻(ブレンダン・フレイザーとサンドラ・ブロック)は夫婦仲がしっくりいかず、険悪なムードの時に、二人組みの若い黒人の強盗に車を盗まれます。ペルシャ人の雑貨商は、アラブ人と間違われ店を襲われたのを機に、銃を買おうとしますが、そこでもアラブ人と間違われ侮辱されます。父を気遣うアメリカ生まれの娘ドリ。新米巡査ハンセン(ライアン・フィリップ)は、コンビを組むベテラン巡査のライアン(マット・ディロン)が、人種差別主義者なので憂鬱。今日も裕福な黒人夫婦キャメロンとクリスティン(テレンス・ハワードとサンディ・ニュートン)を、罪も無いのにライアンがいたぶるのを見るのが辛いです。検事の家の鍵を変えにいった職人(マイケル・ペーニャ)は、仕事に誠実な職人であり、家庭では良き夫・父であるのに、タトゥーのあるいかつい黒人であるというだけで、検事夫人から侮辱的な言葉を投げかけられます。

この一見どこも繋がらないお話が、複雑に絡み合っていきます。一つ一つのエピソードはどれも興味深いです。中国人女性が、リアを刑事だと知らずに不法滞在呼ばわりするのは、自分に市民権があるからでしょう。「英語が喋れないの?」と問われ、マイノリティーの人々が怒りまくって「話せるさ!」と答えるたり、「自分はアメリカ人だ!」と必要以上に主張するのは、昨日今日来た人間といっしょにされては困るという意地でしょう。しかしその意地には、昨日今日来た、同じマイノリティを見下げる心が潜んでいます。

黒人としてはハイクラスに位置するように思えるグラハムやキャメロン、ハンセンの上司も、職場での差別や黒人蔑視の目を感じながら、言いたい事をお腹が膨らむほど飲み込んで生きています。グラハムやキャメロンは違うんだよ、普通のニガーとは。君たちは別さ。悪気のない目で彼らを見る白人達は、そういう態度を取られるのが、何より彼らを傷つけるのがわからないのです。母や妻は、そんな息子や夫が黒人としての誇りを捨てたと言い放ちます。救いがたいやるせなさは、彼らにかける言葉も失うほどです。

猛烈な人種差別主義者のライアンですが、彼がそうなった経緯も語られます。それは社会制度の犠牲ともいう理由で、怒りの矛先が黒人に向かったのがわかります。差別から一歩前進したように思えることが矛盾をはらみ、新たな差別心を煽っているのです。人種差別だけではなく、白人の恵まれない層にも目を向けています。ライアン演じるマット・ディロンは確かに白眉の演技です。嫌悪感を抱かせる初登場シーンから、土壇場での彼の警察官としての行動は、徐々にライアンの真実の姿を映し、説得力のある演技とともに強い印象を残します。個人的に彼は好きなので、今回のような役で復活はとても嬉しいです。

一番感動的だったのは、鍵職人の娘の透明マントのお話。一番胸が締め付けられ、大泣きに泣きました。愛のある魔法のような出来事は、父を「守りたかった」二人の娘によって見せてもらいました。二人の父→男、二人の娘→女ということは偶然ではなく、夫や息子をなじる母や妻は現在とみなし、未来から差別をなくす鍵は、新しい時代を生きる、母性という育む力を持つ彼女達に委ねる部分が多いのだと、私は解釈しました。もし息子なら、決してあの銃弾は選ばないと思いますから。

コクのある演出で、行間を読ませる心に残るシーンが多いのに、何故か全体を見回すと少し物足りない印象です。これは時間に関係があります。2時間足らずでは、短すぎます。後30分長く描き込めば、一つ一つのエピソードは、ぐんと輝きを増すかと思います。それとエリート検事夫妻のお話はいらないと思います。黒人・マイノリティ・恵まれない白人たちの苦悩からみると、彼らの悩みなどぜいたくなものにしか思えず、しらける思いがしました。それと見落としかもしれませんが、あのペルシャ雑貨商は、何故ドアごと取り替えるのを、あんなに拒んだのでしょう?お金の問題だけでは、少し説得力に欠けると思います。

ライアンがハンセンに語る、「お前は何もわかっちゃいない」という言葉が、重たくのしかかります。そして冒頭チンピラ強盗の片割れが、「外見で判断しない女がいるか?」という言葉が蘇ります。これは女だけではなく、男もそう。人は皆そうだということです。

希望と絶望が入り混じったようなラストも、作品の雰囲気に大変合っていました。完成度という点では、少し物足りませんが、力のこもった秀作であることは間違いありません。とても好きな作品だと書かせてもらいます。




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