ケイケイの映画日記
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一週間ぶりに今週の月曜日に観たのに、ズルズル書かないままに、なんかもうすでに色あせてしまった作品。夏休みで朝練の息子のために4時半に起き、入院中の姑さんの見舞いに仕事に家事とvery busyで、レディースデーなどと言っておれず、ラインシネマでのマックス鑑賞料金の1300円で観ました。今年この料金で観たのは「呪怨」だけで、鑑賞後の印象は似たようなもんでした。失礼かしら?(どっちにだ)
昭和27年の東京。久遠寺産婦人科の双子の姉妹の妹梗子(原田知世)は、妊娠20ヶ月にもなるのに出産せず、婿養子の牧朗も一年半前に出奔したまま。この事件を取材することになった小説家の関口(永瀬正敏)は、古本屋の主人にして憑き物落としの顔も持つ京極堂(堤真一)に取材の協力を頼みます。折りしも梗子の姉涼子(原田知世二役)も、京極堂の知人の探偵で、失明した片目から過去が透視出来る探偵・榎木津(阿部寛)に、事件の捜査を頼みに行きました。二方からの捜索から、事件は意外な展開を見せるのです。
と一応ミステリーなんで書きましたが、ツッコミどころ満載なので、あんまりミステリー部分は盛り上がりません。20ヶ月も身ごもったままの妊婦なんて、誰だって○○妊娠だろうと検討がつきますが、何故か産婦人科医の梗子の父は気がつきません。姉涼子にしたって、生きているのが不思議だというくらい体が弱い設定なのですが、それなら○○なんて無理だろうし、第一演じる原田知世は透明感があって美しいですが、全然そんな風には見えないので、なんでこんな設定にしたのかちょっと疑問です。
京極堂と榎木津は、関口に「後は警察の仕事だ」と口々に言いますが、何でそうなのか、関口同様私にも全然わかりません。匂わすような演出もチラっと伺えますが、あれくらいでは種明かしの時、なるほど〜と納得出来る伏線とは思えませんでした。その他、調べられる方の人物たちの造形が甘いので、突飛な行動に同情や共感が沸きにくいです。
私の推測ですが、多分京極夏彦の膨大な原作は、私がいぶかしげに思った数々の事柄を、きっと丹念に描きこんで、ありえないことをありえるように 魅惑的に描いてあるのではないかと思います。その辺が映画では京極堂の印象深いセリフ、「見えるはずの物が見えず、見えないはずの物が見える」という、奥の深いセリフが生きていませんでした。
撮影やセット、登場人物たちの雰囲気などは、終戦直後の活気とはまた別の、淫靡で妖しげな風情が魅力的でした。それだけでもスクリーンで見る価値はそれなりにあると思います。私は昔の東宝の横溝正史の金田一シリーズ(特に「獄門島」)のような雰囲気の作品かと思っていたので、ちょっと肩透かしではありますが、期待せずに見れば、豪華なキャスト共にそれなりには楽しめるかと思います。是非原作が読みたくなるところが、一番収穫でもあり、欠点でもあるかな?金田一シリーズは、映画だけで堪能出来ました。
2005年07月21日(木) |
「サラ、いつわりの祈り」 |
J・T・リロイ原作の自伝小説を、イタリアからハリウッドに渡り活躍中のアーシア・アルジェントが、脚本・監督を担当した作品です。ネグレストの親を子供の目から描き、見るに忍びない悲惨な描写もありますが、普通では理解し難い母と息子の愛情の絆を、冷静に、しかし突き放さず遠くから見守っているかのように描いた作品です。
突然暖かい愛を注いでくれた里親から、実母のサラ(アーシア・アルジェント)の元へ引き取られた7歳のジェレマイア。強引に彼を連れ戻したはずのサラでしたが、トラックの運転手相手に娼婦をしている彼女との生活は、暴力・育児放棄・ドラック、果てはホームレスまがいの生活など、子供にはとても劣悪な環境です。その生活の中で絆を深めていく二人。それは他人には伺い知れない母と息子の世界でした。
「世界でひとりぼっちの、ふたり。ギザギザの愛情でも、サラとぼくは、幸せだった。」これがこの作品のキャッチ・コピーです。本当に上手くこの作品を表しています。ジェレマイアが受ける虐待というのは、食事を作ってもらえない、子供を一人だけで何日も放置する、ドラッグを与える、粗相したした下着をそのままはかす、食べ物がなくなる、一緒にゴミ箱をあさるなど、あげるとキリががありません。そしてサラが連れ込むたくさんの男たちから受ける虐待。しつけと称しベルトで殴る、幼い子に同性の男性からの性的虐待などです。映画全体から漂う不潔感と嫌悪感。しかし何故か二人の心からは透明で純粋な愛が感じられます。
サラは幼いジェレマイアに、里親には捨てられたのだと嘘を言い聞かせます。お前には私しかいないのだと。そして私にもお前しかいないと抱きしめます。その様子や「こちらにおいで。」と、眠っている自分の傍らにジェレマイアを抱き寄せ、腕枕をして胸に抱く姿からは、この上のない幸福を感じます。幼い我が子を胸に抱きならが眠るその至福の瞬間、かつて同じときがあった私には、サラの気持ちがとてもよくわかります。
サラは我が子がいないと生きていけないのです。15の時生んだ欲しくなかった子供。しかし母親失格の烙印を押され、育てられないからと取り上げられたジェレマイアを、きっと片時も忘れたことはなかったのでしょう。「お前のためにどんなに私が自分を犠牲にしたと思っているの!」と叫ぶサラ。素直に謝る息子。一見なかなか理解出来ない光景ですが、母としてとても未熟なサラのこの叫びは彼女なりの真実だろうし、母には誰よりも自分が必要なのだという心が、素直にジェレマイアに通じるというこの不可思議も、納得も理解も出来るのです。
一児の母であるアーシアは、自分に全く共通項のない母であるサラを表現するのに、とても苦労したそうです。虐待の場面など細かく演じる子役や観客に配慮してあります。同性に陵辱されるシーンはその部分は言葉だけで、ジェレマイアの心身の苦痛は毒々しい赤い鳥で表現し、女の子が欲しかったというサラから化粧をほどこされたジェレマイアは、自分がサラと同化したと、きっと錯覚したのでしょう、同棲相手に自分から誘惑するのですが、そのシーンも腰をふってお尻を見せて演じるのは子役ではなくアーシア。
普通の感覚の大人なら、子供が性的暴行を受けるのを見るのは耐え難いです。なのに自分は排泄シーンやヌードを含め、レベルが低く薄汚い母親を果敢に演じています。この演出方法から、私はアーシアの母親としての子供を守る見識の高さを感じ、好感を持ちました。
サラの両親を登場させ、いわゆる虐待の連鎖も見せ、彼女がどうしてこんな女性になったのか、観客に問いかけています。ラストは甘美な雰囲気を漂わせながら、しかし破滅もきちんと感じさせるようになっています。J・T・リロイは、実際15歳の時まで母親と一緒に男娼として身を売っていたそうです。それなのにこの作品からはありのままを描いているのに、母と息子、お互い求め合う姿がそこにはあります。
子供はその表現がいびつでも、母親が自分を必要だということを心から感じたいのです。
アーシア・アルジェントは才女の誉れ高い人で、確かにすごく手ごたえのある作品でした。原作は未読ですが、きっとリロイの母に対する思いを、きちんとすくい取った作品ではないかと思います。
2005年07月17日(日) |
「イン・ザ・プール」 |
精神科医・伊良部役の松尾スズキが、浮気したあげく男を乗り換えた女に未練たっぷりのオダギリジョーに代わり、「腐れ売女!」を連呼して罵る素敵な作品(そーじゃなくて・・・)。先々週の木曜日に観て、次の日検診で結果が悪く、ガク〜と来て書くのに間が空いてしまった作品です。でも上に書いたシーンが気に入ったので、それだけでも書きたいなぁと。
伊良部総合病院の精神科医の伊良部(松尾スズキ)の元には、少々奇妙な患者が診察にきます。24時間勃起しっぱなしの継続性勃起症のサラリーマン田口(オダギリジョー)、ガスを止めたか?鍵は閉めたか?いわゆる強迫神経症になってしまい、まるで仕事にならないルポライター涼美(市川実和子)などが、彼を頼って診察に来ています。診察予備軍にはエリート管理職で、仕事のストレスをプールで泳ぐことで解消していたはずが、いつの間にかプール依存症になってしまった大森(田辺誠一)がいます。
伊良部総合病院の伊良部ってことは院長なのか?こんないい加減な診察でいいのか?の伊良部センセーですが、刑事になりたいという彼に、涼美は「止めて下さいよ!先生みたいな人でも頼ってるもんがいるんですから!」ということで、伊良部にかかった患者は適当すぎる診察なのに、それなりに快方に向かう過程を、クスクス笑いながら納得も説得力もありで観る作品です。
要するにみんな原因は「ストレス」。知らず知らずに貯まったストレスは、無自覚なため心が沈む前に行動や体に先に出てしまうのです。コメディなので、ゲラゲラ笑って観ていますが、いかにもありそうな症状ばかりで、特にガスの元栓や玄関の戸締りなど、不安になったことがある人はいっぱいいると思います。私も何日か続けてエレベーターのボタンを押しては、もう一度玄関まで戻るというのを繰り返したことがあり、ちょっとやばいぞと思ったことがありました。後で振り返ってみると、やはりストレス全開の時でした。
この作品を観て、あぁこれって自分と思う人は多いのではと思います。ストレスは色々深層心理を探って解消方法を見つけようとしがちですが、素直に恥ずかしがらず喜怒哀楽をいっぱい出す、これでいいみたいです。出演者はみんな軽く飄々と演じて、こちらも笑いっぱなしの作品ですが、気持ちが明るくなることは確実。前半テンポがちょっとのんびりですが、後半加速するので問題なしです。それこそストレス解消には、ぴったりの作品ではないかと思います。
で、浮気して夫を乗り換えた元妻に、一度も怒らず離婚したオダギリジョーは、その怒りが下半身に出たというわけ。なんと彼は未練たらしくそんな女の夢まで見るのだ!回想シーンでは、「ごめんね、あなたに対しての最後の妻の仕事」と言われて、おしいそーにアボガド丼など食すのです。男なら「お前みたいな女の作ったもん食えるか!」と、ちゃぶ台ひっくり返さんか!そしてストーカーみたいに別れた嫁と現夫のマンションなんぞにまで行くのです。あー、情けない情けない。
理由が彼女だと突き止めた伊良部に付き添われ、彼女を罵りに行ったのに何も言えず。「あなたが結婚するかと思ったのに。私だけ幸せになって申し訳ないと思っているの・・・」。なんだぁ、お前は!可愛い顔していけしゃーしゃーと!申し訳ないと思っているなら、今の夫と地獄に落ちろ!と私が噴火していると、伊良部センセが同じようなことを仰って「腐れ売女!」を10数回連呼して下さったので、私は大受け。私は男の浮気と女の浮気は違うと思っている、時代錯誤も甚だしい絶滅種寸前の人間なので、昨今の彼女がかる〜く他の男とエッチしちゃっても、「僕のこと捨てないでね。」風の男子にイライラしていたので、このシーンには溜飲を下げたのでした。(監督はそんなつもりだったのだろうか???)
他にはエリートの田辺誠一はあまり家に寄り付かないみたいですが、たまの夫婦二人の夕食が、スパゲティミートソースと小さなサラダ、これまた小さなスープと、レディースセットみたいなのです。一緒に観た友人と「あのミートソースの赤さ加減はレトルトやな。」「あの量で一人前の男が、次の日仕事出来るわけないやんなぁ。うちやったら旦那も子供も怒るわ。」と、観た後御主人様に出す夕食の内容の貧困さで盛り上がること、この上なしでした。
2005年07月13日(水) |
「ダニー・ザ・ドッグ」 |
今週は「フライ、ダディ、フライ」を観る予定が、嘘ばっかり、針千本じゃないかのこの作品。実は昨日三男の三者懇談があって、軽く目眩がするような通知表を見せられた私。テストの点より悪い評価がついてある。って、ことは!「未提出物、忘れ物、授業中のおしゃべりが目立ちます。可愛いくていい子なのは、どの先生も知ってるんですよ。もっとM君は怒らないといけないのに、あの笑顔に騙されるなぁって、他の先生ともよく言い合っているんですが。」先生、それやったら、通知表も騙されて下さい。いや、そんなことを言ってはいかん!これ全て年の離れた三番目なので可愛さもひとしお、「可愛いだけじゃ、ダメかしら?」で育てた母の責任だ。それで笑えて突っ込めて、後に感動など残りそうにないこの作品で頭をクールダウンして、VS三男の傾向と対策を練ろうと思った次第。
5歳の時誘拐されたダニー(ジェット・リー)。人間らしい感情を持たない殺人マシーンとして犬のように育てられた彼は、高利貸しのバート(ボブ・ホスキンス)の元、彼の番犬として脅迫的な取立ての片棒をかつがされていました。取り立てた顧客から仕返しされたバートの一味は車の事故に合い、命からがら逃げ出したダニーは、偶然の出会いから心惹かれた盲目の黒人ピアノ調律師サム(モーガン・フリーマン)の元へ逃げます。そこには彼の亡くなった妻の連れ子ヴィクトリア(ケリー・ゴンドン)がいました。二人の暖かく手厚いもてなしに、段々と人間らしい感情が芽生えるダニー。しかしバートは彼を執拗に追いかけてくるのでした。
製作・脚本リュック・ベッソンの、ジェット・リーがわんこになったり、恋するティーンエイジャーになったり、殺人マシーンになったりする七変化映画。ジェット・リーとくりゃアクション映画に決まっているのですが、アクション場面が悪いというのではないのに、何故か暖かく和む要素の方が印象深い作品です。
ちょっと感激したのは、リーが表情で演技していること。首輪をつながれた拾われた捨て犬の時は、ぼぉっとした心も感情もない様子ですし、首輪を取られてバートから「殺せ!」の命令が出ると、目つき顔つき凶暴ながら精悍になり、サム家で愛に包まれた暮らしをするようになると、少年というより幼い子供のようにおどおどしていたのが、サムやヴィクトリアの計らいで段々と色々な人間らしい経験を積むと、正しく青春を謳歌するような少年に見えてしまいます。四十をまわった不惑の年齢の男性と思えば、あっぱれな若々しさです。
こんなどこの馬の骨とも分からない男を、手厚く家族として受け入れるなんて普通では考えられませんが、血の繋がらない父と娘として、黒人と白人、盲目である継父などの葛藤を超えたサムとヴィクトリアなら、東洋の得体の知れない若者に手を差し伸べたとしても、違和感はありませんでした。むしろ暖かい二人の思いやりと、ダニーの人としての成長が垣間見られる部分に時間を割いた演出だったからこそ、破綻しまくるストーリーも大目に観られたと思います。
だいたいサムが盲目である必要は全くないし、ダニーの母親の過去や死の原因も謎のまま、もっとサムとヴィクトリアが追い詰められて、命からがらダニーが助けてこそ盛り上がるはずですが、拍子抜けするほどあっさり。ラストは絶対あり得ないシーンで終わりますが、突っ込めど突っ込めど、何故か笑って許してしまえます。善と悪、くっきり分かれて二方好演だったのが一番の勝因かな?ホスキンスは私はいつもダニー・デビートとかぶってしまうのですが、彼の憎々しくない役作りも、影の功労者に感じます。アクションは、せっかくのジェット・リーなんですから、返ってCGを使う方が時代遅れの気がします。
かる〜く楽しむには、なんら問題ない作品。感動なんてありませんが、ほんわか良い気持ちにしてくれます。私はサムの「キスは心の栄養」というセリフが気に入りました。皆さん、毎日良いチュウをしましょう。
皆様どうも毎度お騒がせしています。昨日医師会で写したMRIを持参で再検診に行って来ました。結果低いながらも悪性腫瘍の疑いありで、手術することに決めました。
まずかなり異常な21000まで数値が上がった白血球(通常は3000〜9000)は、腎盂炎ではなく筋腫の炎症のせいだと言うのが主治医の見解で、筋腫でこういうケースは稀だそうです。次にMRIに写った画像で、私は二つ筋腫があるのですが、小さい方は筋腫の典型的な黒い色で写っているのに、大きい6cm×7cmのメインの方が白っぽく写っていました。白く写るのは、中で出血している場合や他の場合もあるそうですが、悪性腫瘍である子宮肉腫の疑いもあるそうです。
「ケイケイさんの腫瘍は、悪性でなくてもタチの悪い部類のものであるのは間違いありません。それに女性ホルモンは55歳まで分泌されますし、境界線の今のままで筋腫の大きさが治まるとは思えません。これが僕の家内なら、今すぐ切ってしまえといいますね。どこの病院へ行っても、良心のある医者なら要観察で済まさないと思います。それでもどうしても切りたくないと仰るなら、自己責任であると考えて下さい。同じような病状の患者さんで、どうしても切りたくないといって、2年後来られた時は、あちこち転移して手遅れでした。」センセー、そこまで言われて手術したくないとごねる患者はいてませんて。
私 「手術の方法はどうなるんでしょうか?」
先生「下からや腹腔鏡は、もし肉腫の場合組織が取りきれない場合があるので、肉眼で見える開腹手術が一番安全です。」
私 「手術は全摘になるんですね?」
先生「これも肉腫の場合筋腫だけを取ると、手術中には病理検査の結果が出ないので、もし悪性の場合また開腹する場合もあるので、全摘が一番安全ですが。もし子宮をどうしても残したいと仰るなら、その辺をふまえてもらえれば希望に沿います。」
ガビ〜ン・・・。あんなに色々手術方法調べたのに、「悪性の疑いアリ」の一言で、赤子の手をひねられた状態。一番スタンダードな様式に落ち着きそうです。
私が手術に躊躇していたのは、色々ネットで探したり友人知人に尋ねたりした結果、筋腫の手術をした後、以降体調不良になった人が半分くらいいるからでした。それと子宮に対しての未練。手術してさっぱりしたと仰る方々は、みな月経過多やひどい貧血、ホルモン療法などで何年も子宮に振り回され、体がボロボロになってようやく決心しての全摘手術です。私のようにふって沸いたように筋腫の存在が発覚した者は、やはり女性として子宮がなくなるという事に、一言では言えない寂しさがあります。それに私の年齢では簡単に全摘で当たり前という認識にも、子宮は子供を生むためだけの臓器なのか?という疑問もあったからです。
でもこれ全て命あってのモノダネ。もし悪性ならばこんな悠長なことは言っていられません。「じゃ、次は10月の頭くらいに予約しておきますから、それまでに手術のこと考えて置いてください。」???「先生、そんなに後でもいいんですか?悪性なら進行しますよね?」「予約はいつでも変更出来ますよ。決まったら早めに予約の変更してください。今看護婦に説明させますから。」と言われたので、私が看護婦さんに説明を受けている時、付き添っていた夫が先生に何やら聞いていると思ったら、「大丈夫、セックスも今まで通り出来ますから。」と先生の声がする・・・。
いや、大事なことなんですが。(幸か不幸か、まだそんな心配もある我が家)「あんた、何を聞いてたん?」「先生に子宮を取った後、女性として体に変調がないか、夫として気をつける点はあるかて聞いたら、先生が『女性は内性器なので、別段気をかけることはありません。』の後に、あない言わはったんや。そんなつもりやなかってんけど。」そうですか。私を心配した三男が、「子宮がなくなったら、お母さん女じゃなくなるの?」と聞いたとき、「そや、お母さんもう女じゃなくなるねん。」といつものように軽口を叩く夫に激怒した私は、「うちの嫁さん43やねんけど、筋腫で子宮取らんなあかんようになって、女じゃなくなるって冗談ゆうたら、怒りよってん。シャレのわからん奴やでって、今すぐ外で言ってこい!他人がどんな顔するか見てこい!」と怒りまくったことがあります。ここまで言わないとわからないデリカシーのない我が夫、それなり成長したようで。(ほんまかいな)
今月中に病院に行き、秋に手術の予約を入れたいと思っています。(夏は満杯だそう)その頃またお知らせしますが、手術から一ヶ月ほど日記はお休みさせていただきます。その後はぼちぼちDVDなどで書いて、先生のお許しがでたら、映画館に行きたいと思っています。今は以前よりは疲れやすく無理は利きませんが、手術までは通常通り劇場で観た作品の感想は書きたいと思っています。今後とも「映画通信」及び「ケイケイの映画日記」、よろしくご愛読お願い致します。女性はよく子宮でものを考えると言いますが、私の感想もそんな部分はあると思います。子宮がなくなったら、どうなるんでしょうね。これからは卵巣で考えます、なんちゃって。
私が自閉症が心の病ではなく、脳の発達障害による先天的な症状だというのを知ったのは、長男を産んだばかりの22歳の頃。当時少しでも子育てに有益な情報が欲しくて、毎月育児雑誌を購入していました。今は廃刊になった「ベビーエイジ」という雑誌で、毎月さまざまな障害児を取り上げ、障害児を育てる親御さんの苦労をお涙頂戴ではなく淡々と、しかしきめ細やかな配慮を感じさせる文章で綴った連載で、毎月私は真っ先に読んだものです。あれから21年以上経つのに、未だに自閉症は精神的な病と思う方が多いのには驚いてしまいます。障害者というと、美談仕立ての感動物と相場が決まっています。しかし確かに感動も美しさも感じますが、自閉症児をもつ家庭が抱える苦悩、世間の偏見を浮き彫りにしながら、普遍的な母親の葛藤、家族のありかたが描かれた、幅広い層に受け入れられやすい秀作でした。
自閉症の障害を持つ20歳の青年チョウォン(チョ・スンウ)。チョコパイとシマウマとジャージャー麺が好きな彼ですが、知能は5歳児程度しかありません。そんな彼に母キョンスク(キム・ミスク)は一心に愛情を注ぎます。チョウォンにマラソンの才能があると信じるオンマ(母)は、今は落ちぶれたかつての名選手チョンウク(イ・ギヨン)にコーチを頼みます。しかしこれが、今まで張り詰めていたオンマの心と体の緊張をの糸を、プツンと切ってしまうきっかけになるのです。
この作品には、ありったけの母親の叫びが詰まっています。私の人生の全ては子供、子供なりの人生の目標を見つけて欲しいと思って何が悪いの?、自分の体の心配は後回しだ、私はこんなに頑張っているのにどうしてみんなわかってくれないの?自分の我で子供を縛る私は最低の母親だ・・・。夫がおり愛する息子たちもいるのに、何故私はこんなに疲れて孤独なのだろう? この子のために私の全てを賭けて育てねばと、呪縛のようになっているチョウォンのオンマ。自閉症の子を持つ母を描きならが、これは私だと思いました。いいえ、正確にいうと私がいなければこの子達はどうなるの?と思っていた若い頃の私です。この子たちが大人になるまで絶対生きるのだと誓っていたあの頃。今私にはチョウォンのように私の顔を書いてくれる子供はいませんが、代わりに頼ったり相談に乗ってくれる成長した息子たちがいます。しかしチョウォンはいくら年をとろうと永遠に5歳のまま。オンマが「私の願いは一日だけチョウォンより長く生きること」と語る姿に、私は涙が止まりません。
出演場面も少なく、仕事にかこつけて家庭によりつかない父は、一見息子の障害から逃げているように見えます。しかし自分と同じくオンマの愛情がチョウォンだけに注がれることに不満な次男に、「お父さんと暮さないか?」と尋ねる表情の寂しさはどうでしょう?父親として、夫としての役割を果たしたい彼は、しかしそのすべがわからないのだと思います。それほど血を分けた父や弟でも寄せ付けない気迫のようなものも、オンマから感じました。 ダウン症のお子さんを持つお母さんが、「障害児を持つと家族の絆が強くなると思うやろ?本当は逆で離婚したり家庭崩壊する方が多いねん。乗り越えた人だけが美談で語られては、そうでない人は辛い。」私はこの言葉を10年前に聞き、絶対忘れてはならない言葉だと胸に刻みました。
この作品は盲目的な母の愛情、頼りない父、反抗する弟、チョウォンを競馬やサウナに連れていくようないい加減なチョンウクまで、全ての人を肯定しています。決して裁かず、自分独りではないと誰かに頼ることに気づくまで暖かく見守っていてくれます。弱音をはいてもいいのだと。その優しさが本当に心に染みます。
チョ・スンウは渾身の演技、と感じさせないほど自然な演技で、思い切り笑わせ和ませ泣かせてくれます。自閉症というと、「レインマン」のダスティン・ホフマンを思い起こしますが、それこそ渾身という感じがしたホフマンの演技に目が行き、自閉症特有の状態はあまり描ききれていなかった気がします。それに比べると、この作品では日常私が目にする自閉症児の姿を、とても自然にスクリーンに現してくれていました。
オンマ役のキム・ミスクは、ほとんどメークもなく所帯じみた感じを出していましたが、本当はとても美しい人なのだと思います。母親が子供を一番知っているという自信と強さ、しかし本当は一番知らない、知りたくないという表裏一体の存在であるというのが、愚かさではなく哀しさと愛しさとして、切々と胸にこみ上げました。全くご同慶の至り。
今中1の三男が保育園の頃、お迎えのバスを待つ間、毎日今三男が通う中学の養護学級に通う女の子が二人、赤いほっぺに満面の笑みを浮かべ手をつなぎ、時には歌を歌い、時にはけんかをしながら下校していく姿を、私は微笑ましく思いながら見ていました。同時にこの子達を自分で登下校出来るまでに育てた親御さんの苦労も、いかばかりだったろうとも思いました。あれから7年、あの子達はどうしているでしょう?
自閉症は一見障害がわからず、親の躾が悪い、親の育て方が引き起こした病のように言われることが、親御さんたちの激しいストレスになるのは、21年前私が知った当時とまだあまり状況は変わっていません。そういった意味でも、この作品は世の中の偏見を少しは修正出来たと思います。もし私の息子たちが、自閉症の兄弟を持ち、将来は自分が親に代わって面倒をみたいと思っているというお嬢さんを好きになった時、お母さんも出来ることは協力するわと言える母親になりたいと、この作品を観て思いました。
昨日ラインシネマで観て来ました。SFは苦手の私、それでもスピ&トムのコンビの前作「マイノリティ・リポート」は割と面白かったので、今回も難しい出来ではないだろうと、そこそこの期待でした。この日はネットで2枚1100円で落札したラインシネマの招待券の使用期限の最後の日。「バッドマン ビギンズ」で一枚使用、この日ものほほんと受け付けに差し出した私ですが、引換券をもらった後に横の看板を見ると、「宇宙戦争」は公開後一週間は招待券使用は不可と書いた看板がありました。いやみ一つ言うわけでなく通してくれた劇場の方に感謝感激。気持ちよく鑑賞と相成りました。
レイ(トム・クルーズ)はブルーカラーの腕のいい労働者ですが、妻(ミランダ・オットー)とは離婚。今日は二人の間の子供ロビー(ジャスティン・チャットウィン)とレイチェル(ダコタ・ファニング)との面会日で、2日ほど二人を預かることに。ぎくしゃくする子供達と、距離の取り方がわからないレイでしたが、前触れもなく突然晴天だった空に暗雲がたちこめ、稲光が走ると、地面が激しく揺れ地割れが起こります。建物は次々と倒れ、街は崩壊していきます。急いで家に戻るレイは、必死に二人の子供を守るため、奔走するのです。
SFだと思って観に行ったら、王道のパニック映画なのでした。ので私はホクホク。「ポセイドン・アドベンチャー」「大地震」「ジュラシック・パーク」などなど、ちょっと彷彿させるシーンありです。原作がウェルズということもあり、宇宙人が地球を襲うという古式ゆかしさが、古臭いのではなくノスタルジックに感じます。しかしまったり郷愁を誘う作りになっているのではなく、ハラハラドキドキ、次はどうなるの?、この危機はどう切り抜けるのか?と、意外と言っては失礼ですが手に汗握ります。思えば「激突!」「ジョーズ」「ジュラ〜」など、怖がらせるのは得意の人だったなぁと、ちょっと感慨に浸りました。
地味だけどオーソドックスに作ってあるところが私は好感が持て、底は浅いながらも永遠のスピのテーマであろう、家族の絆にも触れています。今回のトムは出ずっぱりながらも、全然カッコよくなくしょぼいオヤジに終始しています。流浪の民と化した民衆を率いるモーゼにもならず、国の崩壊などどうでもよく、ひたすら逃げまくって子供たちを守ることのみに専念。長男が自分も軍隊と一緒に宇宙人と戦いたいと願うや、「そんなことより、妹の気持ちを考えろ!妹を守るほうが大事だ!」って、あんたそれは父親の仕事やろが。元々小柄なトムの体が、もう一回り小さく感じる人間のちっちゃさです。
しかしこの子供たちを守りたいという一念が、ダメダメ親父を一人前の子供に頼られる父親に変貌というか、成長させます。娘役のダコタは相変わらずの芸達者ぶりで、瓦礫の山と化した町にショックを受け、始終キーキーキャーキャー、パニック状態の子供を演じているのに、何故か大人の女にいてるよなぁ、こういう時うるさいのと、きちんと味付けもする演技派ぶりです。古いたとえで申し訳ないですが、私のパニック映画の金字塔「ポセイドン・アドベンチャー」のキャロル・リンリー的な感じなのですが、キャロルよりず〜とイライラさせてくれます。さすが!(褒めているのか貶しているのか・・・)。そういえば孤独で小心者だけど心優しいレッド・バトンズが、キャロルを守ることで男らしく変貌していく様子と、トムの父親としての成長が重なります。
ここまではいいじゃないか、問題なしよ、もしかして問題ないと思っている私が問題?とか思っていたら、出た!問題のシーン!宇宙人の行く末とラストがしょぼいというか、脱力しまくり。よってたかってあまりにも無理な展開です。聞けば原作に忠実に描いているとか。でもこれは映画なんだから、原作と違う展開なんて世の中にはごまんとあらぁな。もうちょっと映画的カタルシスが欲しかったです。
他には軍隊の出動シーンが、相手が侵略する宇宙人なんで、大いばりでアメリカの正義を表現しているみたいで、なんだかおかしかったです。ティム・ロビンスもよい人なんだか、気持ち悪いのかわからん人で出演しています。ぜいたくな使い方ですが、全然彼でなくても良かったです。最後に腰砕けになった感はありましたが、全体としてはまずまず面白かったです。でも超大作と思って観に行くと肩透かしをくらいますので、くれぐれも肩の力を抜いて、リラックスしてご覧下さい。
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