ケイケイの映画日記
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2004年10月30日(土) 「エクソシスト・ビギニング」&「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」

仕事休みの木曜日に、格安チケットを入手した友人のお相伴に預かり、道頓堀の角座からアメリカ村のパラダイス・スクエアまで、久しぶりにはしごして来ました。

★「エクソシスト・ビギニング」★

元の「エクソシスト」は、私が中1の時の夏休み公開でした。まだ子供だった私には本当に衝撃的で恐ろしく、悪魔にとりつかれたリーガンの部屋はとても寒々しそうで、クーラーがガンガンに効いた劇場と相まって、文字通り凍える思いで観たものです。初作のメリン神父は、粛々しく厳かな雰囲気を漂わせていたマックス・フォン・シドー。当時彼を知らない私にも、威厳を感じさせました。今回の若き日のメリン神父は、ステラン・スカルスゲールド。若き日といっても充分中年で、老人の役だったシドーより若いということです。渋いけど、元聖職者という割には少々生臭い感じがして、そこが若さなんでしょうか?シドーと同じスウェーデン出身ということで、キャスティングされたのではないかと思います。

物語の軸は、戦時中ナチスの残虐な行動を止められなかったことに、神の存在を否定してしまったメリン神父が、アフリカの地で悪魔と対峙することで、信仰心を取り戻すまでのお話です。元作が母娘の愛情、シングルマザーの孤独、若き神父の信仰に対する葛藤など、オカルト・ホラーの中に共感出来る人間ドラマの部分を、色濃く強調していたのに対し、こちらは、土俗的なアフリカの因習を巧みに見せながら、未開の地に土足で踏み込む先進国の批判を絡ませています。

しっかりした脚本で、レニー・ハーリンが監督ということで、もっと爆発シーンなど火薬とCG満載かと思っていたのですが、意外や重厚な作りです。単体として見れば、合格な作品だと思います。でも元作と比べる気のなかった私ですが、ちょっと退屈しました。色々山場を張ってくれているのですが、全部にこじんまり。あれもこれも手を出さないで、たとえば戦闘場面を減らして、メリン神父の信仰に対する葛藤をもっと掘り下げて描けば、ぐっと作品が締まったように思います。出演者はみなそれなりに好演でしたが、大幅に華に欠けたように感じます。演技巧者というので選んだキャスティングなら、ドラマ部分の各々出演者の心の動きを、もう少し丹念に描く方が良かったと思いました。

監督はジョン・フランケンハイマーがクランクイン直前に亡くなり、ポール・シュレイダーはほとんど撮り終えて降板させられ、イチから取り直したのが、今作・ハーリン版だそうです。シュレイダーなら、メリン神父にきちんと焦点が当るだろうし、フランケンハイマーなら、エンタメ度がぐっと上がったかも。両方観たかったです。


★「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」★

この作品の初回の公開時は、まだ末っ子が2歳で、映画なんかとんでもない、という時期でした。ビデオもテレビも観ずの、正真正銘の初見です。少々グロテスクでユーモラスなキャラクターたちの生き生きした様がとても楽しく、ダニー・エルフマンの音楽も気に入りました。CG全盛の今では、こういう手動のアニメは、とても暖かく感じられます。「餅は餅屋」ということわざを思い出しました。

私が好きなのは、オンボロ人形と揶揄されるサリー。あちこち継ぎはぎで、さながら女フランケンのサリーですが、自分の置かれた運命にあらがい自由を求める姿は、等身大の共感を呼びます。がい骨のジャックを一途に思う心には、思わず切なくなります。

先に短編の「フランケンウィニー」が上映されましたが、この作品の優しいお母さんがシェリー・デュヴァル。彼女もかなり個性的な容姿ですが、いつも観た後、最後にはとても愛しい気持ちにさせる人です。大きすぎる目と縫い後だらけの手足を持つサリーが、シェリー・デュヴァルに重なって見え、シェリーがモデルなのかしら?と思ってしまいました。

一見悪趣味っぽい中の暖かさと切なさ、とてもティム・バートンらしいファンタジー・ミュージカルでした。


2004年10月27日(水) 「シークレット・ウィンドゥ」

オチは絶対に言わないで系サイコ・サスペンスです。って、これだけでオチがわかったあなた!ジョニデのファンなら観ても可です。ジョニー・デップは不思議な俳優です。ハリウッドの主流から少し離れた場で活躍しながら、多くの大物俳優や監督に愛され、いつの間にやら、しっかりハリウッドど真ん中の大物俳優に。それなのに風格さえ感じる今も、インディーズ系の香りと俳優としての鮮度を失っていません。同年代のトム・クルーズやブラビのファンだと言うと、ミーハーに聞こえがちですが、彼のファンだと言うと、ちょっとセンスがいい人風に感じるのは、私の思い違いでしょうか?

妻は他の男に寝盗られ、執筆もスランプ気味な流行作家・モート(ジョにー・デップ)。そんな彼に、自分の作品を盗作しただろうと、言いがかりをつける男(ジョン・タトゥーロ)が現れ、ストーカー化した行動を起こします。やがてモートの周辺では、殺人事件が次々起こります。

と言う内容です。私はこの手の作品で、辻褄がどうのこうのと言うのはあまり気にしない方で、ラストに脱力したり強引に収集をつけても、それまでが魅力的でワクワクしたり、胡散臭さ満点でニヤニヤさせてくれたら、それでいいと思っています。が、この作品はストーリー展開も演出も、本当に平凡です。あちこち張ってある伏線も底が浅く、すぐオチがわかってしまいます。

原作はスティーブン・キング。キングの原作の映画化は、当たりハズレがありますが、これはハズレ組みたいです。監督はデビッド・コープ。知らない名前だと思って調べたら、主に脚本を書く事が多い人らしいです。脚本作は「永遠に美しく」「カリートへの道」、近作では「パニック・ルーム」「スパイダーマン」などのヒット作がありますが、「ロスト・ワールド」では、
栄えある?ラジー賞で脚本賞を取っていました。

じゃダメなのかというと、観た後まぁまぁかなぁという気になるのです。何故かというと、ジョニデ以下、俳優さんたちが上手いから。ジョニデは、寝盗られネチネチ夫をボサボサ頭で演じようが、本当に素敵です。いつまでも少年っぽい部分と、大人の男の色香がない交ぜになった雰囲気が、この作品でも良く出ています。見せ場のない演出も、彼が演じると全部見せ場に見えるのだなぁ。尚且つトム君みたいに、「ボクこんなに頑張ってるのよ」みたいな感じもなく、自然体です。(いや、「こんなに頑張っているトム・クルーズ」は、私は俳優としてとても認めております。誤解なきよう。)

ストーカー男のジョン・タトゥーロも、普通の人の狂気が静かに感じられ、上手く演じていました。妻役のマリア・ベロは、映画よりテレビドラマの「ER」に、ワンシーズンだけ女医役で出ていて、そちらの方が印象深いです。6〜7年前の初々しさから、今回はしっとりした大人の美しさがあり、彼女も良かったです。

残念なのは、間男役・ティモシー・ハットン。彼が悪いと言う訳じゃなく、ジョニデの妻が何が悲しくて、夫より格段に落ちる男と浮気を・・・と言う感じがするのです。容姿が負けていても、誠実さや優しさが感じられれば別ですが、それもなし。どっから見たって、ジョニデの方が遙かに素敵。でも「ノイズ」でも、夫が別人かと疑うシャーリーズ・セロンに、「こんな男前の夫なら、別人でもええやんか。」と思った私ですから、他の方が見れば、妻の気持ちも理解出来るんでしょうか?私は脚本のひねり方不足と感じたんですが。

以上、ジョニデが大好きという方は、何を観たって至福だと思いますので、御満足いただけるかと思います。私のような割と好きと言う人は、気持ちに加速がつくでしょう、と言う作品です。でも作品の出来不出来にかかわらず、常にマックスで魅力的と言うのは、本当にすごいですね、ジョニー・デップ。


2004年10月20日(水) 「恋の門」

おもっしろーい!!この作品を観た心斎橋シネマ・ドゥは、10/24をもって閉館になります。小さな劇場なので、最終上映で入れないと困るので前倒しで観たのですが、「何でこの作品がシネマ・ドゥの最後の作品?」と思ったものですが、こんなマニアックな楽しい作品が最後なんて、さすがシネマ・ドゥ!

石で漫画を描く自称漫画芸術家の蒼木門(松田龍平)と、昼はOL,実はコスプレ命の同人誌漫画家・証恋乃(酒井若菜)の、出会いから成就までをオタッキーに描いた作品です。

恋乃を演じる酒井若菜が素晴らしい!コスプレしながらの演技は全く照れがなく、根性の入ったオタクぶりで、「好きな物に没頭出来る幸せ」がすごい勢いで伝わり、例えそれが世間から色眼鏡で見られようが、いいじゃないか、と応援したくなるほど。対する松田龍平は、半歩か一歩遅れ気味の受身の演技ですが、門の役柄自体がそんな感じですから、これも計算かと。

はちゃめちゃおバカギャグが満載なので見落としがちですが、原作のコミックがいいのか、脚本がいいのか、ストーリーがしっかりしていて、青春物の王道なのです。ふとしたとから出会う若い男女、徐々に高まる気持ち、相手を思う真心、恋の成就への障害、力のある親への反抗が、しっかり、それもイマドキ感を損なわず描かれています。

特に新人賞を取った方が恋乃の恋人になるという賭けを、門と門が世話になった漫画バーのマスター・毬藻田の間で交わされたと聞くや、恋乃の「私も書く。私が新人賞を取ったら、私の言うことを聞いてね。」宣言には感心。そりゃあそうです、そんな大事なこと、自分抜きで決められちゃたまりません。男性だけの自由にはさせない、自分の恋人は自分で決めると言う、見せ掛けでない力強さを感じました。その他、コスプレマニアの変だけど仲の良い両親を持つ恋乃は、同じ路線まっしぐら。片や水墨画のそれなりの地位の父を持つ門が、父の浮気現場を見て父を否定してしまい、水墨画を捨て、父との思い出のある、石に漫画を描くという創作にこだわる部分にも、親子の普遍的な正しい愛情の示し方、受け取り方が垣間見られ、作品をただのはちゃめちゃで終わらせません。

出演は他に、この作品を監督・脚本した毬藻田役の松尾スズキ、恋乃の両親に、平泉征・大竹しのぶ(コスプレス姿あり)、小島聖、塚本晋也、大竹まこと、チョイ出に三池崇史、市川染五郎、忌野清志郎などなど、もう書ききれません。どこの出ているかお楽しみを。小島聖は、すごく綺麗になったのでびっくり!大人になって垢抜けていました。若菜ちゃんとともに、おっぱいの谷間で悩殺してくれます。

一つだけ気になったのは、阿部セイキなる役柄の人物。この人のモデルって、”アニソン界のアニキ”水木一郎のことじゃないでしょうか?だったら本人にやってもらえばいいのに。劇中で出てくるアニメの歌は、ちゃーんと影山ヒロノブ(元レイジーのミッシェルですよ)に歌ってもらってました。違うのかなぁ・・・

門、毬藻田、恋乃が一心不乱に寝食を忘れて、新人賞のため漫画を描くシーンは圧巻。ふらふらになりながらも「気持ちいい〜」のセリフが、ずしんとこちらにも伝わります。そうそう、体育会系の一心不乱は認められ易いですが、文科系の一心不乱は軽視されがち。オタクはもっと冷たい扱いを受けています。何も熱中するものがないより、こうして人生賭けるもんがあるって幸せでしょう!と思っていたら、エンドクレジットにでかでかと、「支援・文化庁」と出てきました。えっ?お上がオタクを支援?なかなか粋ですねぇ。


2004年10月18日(月) 「ゲート・トゥ・ヘヴン」

ドイツ映画です。久しぶりに九条のシネ・ヌーヴォで観てきました。ヌーヴォは、今まで旧作の特集上映ばかりだったので、新作はお初。びっくりするほど人は少なく4人で観ました。他はシルバーの方ばっかり!でもお年を召した方が、たった4人しか観ない映画に足を運んでいらっしゃるのは、何だか嬉しいです。全部で10カ国ほどの俳優さんが出ていて、国際色豊か。ドイツが舞台なのに、よくあるように全編英語を喋るのはちょっと惜しいですが、全体に楽しい作品でした。

フランクフルト空港で掃除婦として働くインド人のニーシャは、いつかスチュワーデスになる夢を持っています。夫の暴力に耐えかねドイツに逃げてきましたが、故国に残した3歳の息子が気がかりです。ロシアから来たアレクセイは、密入国者です。賄賂を渡して密入国の手助けをしてもらったダックに、これからの住まいになる空港の地下迷宮に案内されます。そこには先輩密入国者が3人。ダックは彼らに職を紹介しますが、上前はピンはね。先輩達は自分たちは奴隷と言います。そんな彼がニーシャに一目惚れします。

奴隷と言いながら、この密入国者たちの生活が明るく楽しそうなのです。ご飯は機内食の残りをもらい、仕事はベルトコンベアーに荷物と一緒に乗り込み目的地まで。危なそうな天上の窓ガラス拭きも、恋のときめきに上手に使われ、果ては宴会までやっちゃいます。底辺で働く彼らの絆は深く、運命共同体的な一体感が感じられ、こんな生活、ちょっとやってみたいなと思うほど。

密入国者が題材だと、どうしても惨めで暗いものになりがちですが、後で出てくるニーシャの息子に対しても、お役所仕事で冷たく接する審査官が出てきますが、それもニーシャの息子の愛らしさとユーモアで、冷酷さより滑稽さを全面に出し、それらがこの訳ありの人々のバイタリティーと映り、観る者に親近感と愛情を抱かせます。

インド映画さながら、ニーシャの夢を表現する場面で、ダンスと歌が披露されますが、これまたとても楽しいです。こういう楽しい場面の連続の中に、捕まると悲惨な結果が待っているシーンが挿入されると、ずっと厳しい場面ばかり見せられるより、ずっとハッとしたり胸に迫るものがありました。

全体の2/3まで絶好調なのですが、密入国させるニーシャの息子が、手違いで収容所行きとなったところから、失速が始まります。絵空事でないリアルな密入国の現実が浮きぼりになり、同じトーンで話を進めるには無理があり、ややドタバタで収集をつけようとするきらいがありました。特に職権乱用でニーシャに色目を使うノヴァクの存在など、途中まですごくいい感じなのに、ラスト近く、彼がニーシャに本当の愛を感じている場面を挿入するのに、ニーシャのアレクセイとの間で揺れる女心が描かれていません。あくまで駆け引きの相手に終始しているので、不安定な彼女の立場を考えれば、ノヴァクに心が揺れて当然ですから、ちょっと不自然でした。

しかしそれ以外は、大笑いする作品ではないですが、クスクスニコニコ、本当に楽しく心が和む作品です。監督は「ツバル」のファイト・ヘルマー。気になりながらも、「ツバル」は未見。今日レイトでヌーヴォで上映中の「ツバル」の予告編を観ましたが、すっごく面白そう!あぁ、でもレイト・・・。


2004年10月14日(木) 「CODE46」

ずっと伸ばし伸ばしになっていたこの作品を、今日テアトル梅田で観てきました。テアトルは一人で観る事が多かったのですが、最近はずっと友人達と一緒。今日も15年来の母友と観てきました。現在二十歳の長男同士が幼稚園で一緒になって以来、主婦としての山あり谷ありの時期を共に過ごし、語り合った大切なお友達です。早めに待ち合わせて、サンマルク・カフェでお茶をしました。一人の時はさっさと観てさっさと帰りますが、誰かと一緒だとこういう楽しみもあります。

今回はネタバレありです。
パペルと言う通行証明がないと、滞在も旅行も出来ない近未来、偽造パペルの捜査のため上海に入ったウィリアム(ティム・ロビンス)は、すぐ犯人がパペルの審査・製造を行うスフィンク社に勤めるマリアだと見つけますが、彼女に魅かれた彼は、会社に虚偽の申告をします。彼女も彼を運命の人と、一目見て感じます。一夜を共にする二人。同じ遺伝子同士の恋愛や結婚は禁じられた法律・CODE46に抵触するとも知らずに。

私はサマンサ・モートンが好きです。小柄でボリュームのある身体ですが、印象は華奢。ですが母性を感じさせます。微笑んでも陰りがあり、はかなさと切なさを感じさせますが、愛しい思いも抱かせます。この作品を観ていると、監督のウィンターボトムも、私と同じ思いを彼女に抱いているのかと感じました。

ティム・ロビンスも素敵です。今年は「ミスティック・リバー」の彼を観て、その大きな体から存在感を消し、役になり切る演技に感心しましたが、この作品では、大人の落ち着きと愛する者たちに対しての包容力を感じさせ、とても素敵です。

ですが、作品はこの二人の魅力で、成り立っている部分が多いように感じます。ウィリアムは既婚で6歳くらいの男児の父です。マリアが彼の母と共通の遺伝子を持つため、生みの母を知らない彼が、何故一目で魅かれたのか一応説明がつきます。しかし政府の要職につき、安全な中と呼ばれる世界しか知らず、順風満帆な生活をしていたはずの彼が、一夜限りならともかく、何故仕事も家庭も捨て、あてのないマリアとの逃避行を望んだのか説明不足です。

既婚者で円満な家庭に恵まれていても、他の異性に魅かれることは理解出来ます。しかしそれだけで家庭を捨てられるでしょうか?本当に夫婦の間が破綻してしまった時、子はかすがいにはなりませんが、そこまでいっていない仲で、離婚を躊躇させるのは、やはり子供の存在です。何度も彼が子供を愛してる描写が出てきます。私はマリアが母の遺伝子を持つことが重要なキーワードと感じたので、(名前もマリアは偶然ではないと思います)良き家庭人の部分を強調すると、ちぐはぐな感じがし疑問を感じました。

マリアもお金のためと語られますが、何故大きな危険を犯してパペルの偽造に手を染めているか疑問。貯めたお金を何に使うか夢を語るわけでなく、長い間無法地帯の「外」と呼ばれる世界の住人で辛酸をなめた彼女が、どうして一部特権階級のように認められた「中」の住人になれたかも説明なし。これではモートンに魅力を感じても、マリアには感情移入出来ません。

マリアが拘留されたのも、ウィリアムとの子を妊娠し、CODE46に触れたためであり、子の中絶と子供の父親の記憶の消去のためですが、偽造の重要参考人であることには変わりなく、監視もなく自由行動を取れるのも変です。事故により逃避行に終止符が打たれたウィリアムは、仕事のため相手の心が読み取れる”共鳴ウィルス”を飲んでいたため、その作用が起こした罪となり、マリアの記憶を消去されただけでおとがめなしで、元の生活に戻る事も、過剰に切なさを盛り上げようとする気がして、たったそれだけ?と違和感がありました。

ただ法に触れたと言って、国が人の記憶を簡単に操作する怖さ、マリアが二度とウィリアムに思い出してもらえない哀しさを抱え生きていく切なさ、ウィリアムの妻が、自分と息子を捨てて他の女性と逃げた夫が、その記憶を忘れ去っているのに、自分は記憶を持って生きていかねばならい辛さは感じます。そして操作する側の人々も、ウィリアムのような立場になるかもしれない、法には国は存在するが、人は存在しない不思議さと滑稽さも感じます。

近未来の一部の特権階級の「中」の様子と、荒れ果てて過去に一気に遡ったような人も見捨てられた「外」の対比は、今の世にも見られる世界感で、考えさせられます。

遺伝子、「中」と「外」、人の記憶など、魅力的なキーワードがあちこちにあるのに、全体に印象が散漫で消化不良のような印象が残りました。


2004年10月12日(火) 「ヘルボーイ」

こういう作品で当たりに出会うと、本当に男の子を生んで良かったと思います。「デビルズ・バックボーン」が思いの外良く、同じギレルモ・デル・トロ監督と言うことでどうしようかと思っていたこの作品、末っ子の「観たい」の一声で決定しました。

ヘルボーイ、あるいはレッドと呼ばれる彼は、一言で言えば化け物です。それも本来はナチスと妖僧ラスプーチンによって、人類を破滅させるために作られました。生業は、FBI管轄の組織での”魔物退治”です。もう60歳なのに老化が遅く、心は思春期の若者のような反骨心に溢れ、乱暴で粗野です。自分を見つけ出し赤ちゃんの時から限りない愛を注いで育ててくれたブルーム教授に、本当の息子のように反抗し、少年のようです。決して「妖怪人間ベム」のように、”早く人間になりたい!”など思わず、人間の僕になって友好関係を結ぼうなどどは、思っていません。

では彼は本当に孤独をきどって不遜に生きているのか?それは違います。本当は恋心を持つ女性に気持ちを伝えられず、愛らしい猫をたくさん飼うことで自分を癒し、醜い容貌にコンプレックスを持ち、自分の身の回りの世話をしてくれる人々に愛情を持ち、ブルーム教授を父として愛し、教授の自分への愛情が無くなる事を、一番恐れています。

まるでツッパリ不良少年の素顔です。劇中「どんな出自に生まれても、生まれ方や育ち方が重要なのではない。大切なのは、人生において何を選択するかだ。」と語られます。何故地獄の申し子として生まれた彼が、地獄からの使者達を葬ると言う「正しい選択」が出来たのか?

人間関係に疲れると、人は一人で生きて行こうと考え勝ちです。でも本当はそれで良しとは思っていないはず。孤独でいいと思いながら親との絆を信じ、人を愛すると言う気持ちを抑えきれない。自分とかかわる善良なる人全てに、情を持ってしまう。異形のダークヒーロー・ヘルボーイを通じて、デル・トロ監督は普遍的な人の純粋な心の中を透けて見せます。

人は色々な自分ではどうにもならない物を背負って生まれてきます。それを負や重荷と思わず、個性としてとらえたらどうか?彼以外にも、発火念力を生まれ持ったヘルボーイの愛する女性・リズのか弱さと強さ、半漁人ながら博識で教養があり、身のこなしまでエレガントなエイブ、監督は暗く哀しくなりがちな異形の彼らの孤独と純粋さを、深みのある愛情を持って描いています。

キャスティングがドンピシャです。監督がコミックの「ヘルボーイ」に容貌が似ているため、主人公に熱望したロン・パールマンが素晴らしい!
(←素顔はこんなです元々アウストラロピテクス系の進化の遅い顔です。













ヘルボーイ姿はこれ↓  隣は心優しき発火少女を演じるセルマ・ブレア






















ブルーム教授にジョン・ハート。彼が「エレファントマン」だったなぁと知る人は、この異形の息子に注ぐ愛に、感じるものがあるはずです。
敵役のラスプーチン、クロエネンも魅力的。特にクロエネンのスマートなカッコ良さは、破壊力のあるヘルボーイとの対比になっています。

自分でもどうにもならない感情を持て余す反抗期や、色々なコンプレックスに悩む小・中学生必見の作品。それに手を焼く親にも必見。もちろん単純に娯楽作を楽しみたい方にもお薦めします。どうして吹替え版がなかったんでしょう?異形の善玉・悪玉だけでなく、FBIの面々も一人一人キャラが立って、丁寧に描いていました。お子様向けの声も聞きますが、私には構成から脚本、CG,撮影まで、手抜きなしの確かな手応えの作品でした。


2004年10月09日(土) 「ツイステッド」

唐突ですが、アシュレー・ジャッドとシャーリーズ・セロンって似てませんか?以前ホンダのCMでジャッド→セロンと交代した時、両方ブロンドだったんで最初わかりませんでした。セロンの「モンスター」に続いて、今日はジャッドが「存在の耐えられない軽さ」「ライトスタッフ」の監督、フィリップ・カウフマンと組んだサスペンスと言うことで、そこそこ期待して初日に駆けつけました。

サンフランシスコ市警に、巡査から殺人課の捜査官に昇進したジェシカ・シェパード(ジャッド)は、幼い時刑事だった父親が母親を射殺すると言う心の傷に加え、職務の激しいストレスのはけ口を、酒と行きずりの男を拾い身をまかせると言うことで発散していました。そんな時、彼女が関係を持った男たちが次々殺され、彼女に疑いがかかります。

このストーリーをチラシで読んだ時、二時間ドラマのようだと微かににハズレも匂ったのですが、そう思ってパスした、同じジャッドの「ダブル・ジョバティー」は、テレビ放映時に大変気に入り、観なかったの事を後悔したもんです。前回は後悔先に立たずでしたが、今回は観たあと後悔しまくり!

まず主役のジャッドにいつもの華が感じられません。女性捜査官と言うことで、ハードな革ジャンにジーンズ、ショートカットと言う出で立ちですが、似合っていません。目の下のたるみも目立ち、若々しさの必要な役なのに、老け込んだ印象です。辣腕捜査官のはずが、2度も元彼に自宅の侵入を許したり、酒に溺れる姿はまるでアル中のようで、これで捜査に支障をきたさないのが不思議なくらい。きびきびした捜査中の様子が描かれず、心のか弱さとの対比がないので、彼女の孤独感が希薄です。

パートナー役のアンディ・ガルシアも精彩がなく、もっと謎めいていなければならないはずが、船越栄一郎が演じてもいいような、ただのいい人なのでこれも×。ジェシカを生みの親に代わり育てた、父親のパートナーだった今は市警本部長にサミュエル・L・ジャクソン。やっぱり同じジャッド主演の「コレクター」も大したことなかったですが、(!)刑事役のモーガン・フリーマンが出てくる場面だけ、映画の格が上がるように感じましたが、ジャクソンにはまだそんなカリスマ性はなかったです。

他にも「羊たちの沈黙」をちょっと彷彿させるような場面が、バッタもんサスペンスの印象を加速させ、ラストは「驚愕のどんでん返し」と謳われていますが、半分くらいで何となく犯人の目星がつくし、いよいよの場面では出で立ちでピンと来てしまいます。その殺人の理由と言うのも無理があるし、ジェシカを罠にかける動機や仕組みも「へっ???」と言う感じの強引なこじつけ。もう本当にユルユルサスペンスです。2時間ドラマでももうちょっとまし。例えるなら、「キイ・ハンター」や「Gメン75」など1話完結もので、今日は出来が悪かったなと思った感じと似ています。あぁ〜、これがカウフマンの新作かぁ・・・。ジャッドも、このままB級サスペンス女優と
なるんでしょうか?セロンに差をつけられてしまったようです。


2004年10月04日(月) 「モンスター」

主演のシャーリーズ・セロンが、本年度オスカーの主演女優賞を取った作品。類まれな美貌でセレブな雰囲気の強いセロンが、実話を元にしたこの作品のため15キロ太って、その上逆メイクと言うか不細工に変身して演じたことばかりが注目されていますが、ストーリーもなかなか見応えがあります。

主人公アイリーンは娼婦です。私のイメージしている娼婦とは、毒々しい化粧をほどこしながら、露出度の高い服を身にまとい、少々安物の色気を振りまく女性、と言うものです。まず驚いたのは、ヒッチハイクで客をつかまえるアイリーンは、男だか女だかわからないような姿なのです。化粧っけもなく女性らしい色気もなく、何日前にお風呂に入ったのか分からないような有様。それでも客はつく。これが女の性を買うと言うことか、と男性の持つ性に対しての浅ましさ、滑稽さ、そして少しの哀れさも感じます。

対する13歳からこの仕事しかしたことのないアイリーンは、底辺を這いずり回りながら、人からの侮辱と好奇の目に慣れっこになり、何の希望もなく生きています。この観ている者に、猛烈なやり切れなさを感じさせるセロンの演技が素晴らしいです。歩き方・話し方から、本当に下品で荒んだアイリーンになりきっています。

ふとしたことから知り合ったレズビアンのセルビー(クリスティーナ・リッチ)と恋に落ち、彼女のために真っ当な仕事を探しますが、学もなく手に職もない彼女を雇ってくれる所はありません。ですが、彼女は獣医になると言ったり、面接に選ぶのもいきなり弁護士秘書であったり、あまりに世間を知らなさ過ぎます。これは世間の冷たさを責めると言うより、家庭の愛を知らず、学校に行けず、まともな仕事についた事のない、人生で学ぶべき場所に一度もたどり着けなかった、アイリーンの哀しさと孤独を、無知・無教養と言うことで表現していたと思いました。

対するセルビーは、「私の面倒をみてね。」と甘え、お金がなくなると、「お腹がすいたのに、あなたは何も食べさせてくれない。」と泣き叫び、まるで幼い子供並みです。生活のため再びアイリーンに客を取ることを望んだり、自分の保身のために彼女を切り捨てたりのセルビーですが、私はしたたかさより、彼女も未成熟なあまり、こういう思考しか浮かばなかったと見えました。その性的嗜好を周りから罵倒され、ノーマルになるよう強要されてきた彼女は、未成熟でいることで周りの関心をつなぎとめようとする処世術が、知らず知らずついたのでしょうか?

アイリーンは、レズビアンになったのではありません。初めて自分を受け入れ、自分の庇護を求めるセルビーが、たまたま同性であっただけです。セルビーの未熟さ危うさを、アイリーンもまた愛したのです。

私が気になったのはキリスト教を通じての父系社会です。セルビーの父親は画面には出てきませんが、常にセルビーの背後で彼女を支配しています。セルビーを一時預かった父親の友人宅の主婦は、「今度あの女をうちに入れたら、主人が撃ち殺すわよ。」と、いつも自分の言葉でなく夫はこういう考えだと、セルビーに伝えます。アイリーンの父親も、9歳の時に父親の友人にレイプされたと訴えると、嘘をついた、友人を侮辱したと彼女を殴ります。

その時母親たちは何をしていたのでしょう?一向に母親の存在が出てこない。こういう場合、日本なら母親が影に回って、子供の傷ついた心を癒そうとするはずです。日本も社会は男性中心に動いていますが、家庭は大黒柱として妻が夫を立てると言う形をとっても、実際は家庭の決まりごと・実権は妻が握っている場合が多いかと思います。

去年観た「マグダレンの祈り」で、刑務所よりひどい修道院を脱走して逃げ帰った娘を、鬼の形相の父親が修道院に連れ戻しますが、その父親を演じていたのが、監督のピーター・ミュランでした。キリスト教の陰の部分に焦点をあてていたこの作品で、監督自ら暴君の父親を演じた事に、宗教の戒律に振り回され、何のための信仰か解らなくなっているさまが象徴されていました。「モンスター」でも、日曜日に教会へ礼拝に行く様子や、何度も神の愛を信じないと言う言葉がアイリーンの口から聞かれ、暗に行き過ぎた宗教心を批判しているように感じました。

やはり昨年観た「アントワン・フィッシャー/君の帰る場所」は、同じように親の愛を知らず、里親の家で性的虐待を受けた黒人男性が、立派に社会人として生きていく様子を描いていて、こちらも実話を元にしていました。同じような生い立ちをたどった二人が、明暗を分けたのはどうしてでしょう?その辺りの掘り下げが、「モンスター」の場合は社会のせいにしているように見え、今一歩であったかと思います。

モンスターとは、アイリーンでもセルビーでもなく、彼女達を覆う男性を通じての暗雲の立ち込めた社会であり、まぎれもなく自分もその住人なのだと
、観た後痛感しました。


2004年10月01日(金) 「父と暮らせば」

昨日は8月末から公開しているこの作品を、やっと観ました。延び延びになっていたので期待も膨らむばかりでしたが、期待通りの秀作でした。

原爆投下から3年経った広島。美津江は図書館司書として働きながら、焼け跡に残った元旅館だった自宅で一人暮らしをしています。たくさんの人々が亡くなった原爆で、自分が生き残ったことに負い目を持つ美津江は、人並みの幸せは望んではいけないと、自分を戒めながら生きています。そんな彼女の前に、原爆の資料を集める青年・木下が現れ、お互い好意を持つのですが、負い目に縛られる美津江は、木下からの好意を素直に受け取れません。そんな時、死んだはずの美津江の父親・竹造が彼女の前に現れます。

幽霊のように思える父・竹造ですが、彼は美津江の想念が生んだ幻です。幸せになってはいけない、そう思い続けていた彼女ですが、木下の出現で恋心が芽生え、自分も幸せになりたいと思う気持ちとの葛藤が生んだ産物です。ですから「俺はお前の応援団長」、そう語る竹造の言葉も彼女の想念と言う訳です。一瞬の間に、肉親・友・恩師など大切な人々を失った美津江には、彼女の心の痛手を癒す人も、真っ当な好きな人と添いたいと思う気持ちも、後押ししてくれる人はいない切なさに胸が痛みます。

幻であるはずの竹造ですが、私には幽霊のように思えてなりません。「私は幸せになってはいけんのです。」「死ぬ勇気もないがです。」「この3年、生きていただけでも褒めてつかあさい。」そう父の幻に語り、慟哭する美津江に、私も一緒に涙を流します。他人の私が涙を流すのに、例え肉体は滅んでも、これほどの娘の心の窮地に、あの世から父の魂が舞い戻らずにはいられないと思いました。そしてそう感じさせて当然の、娘を思う父の言葉には、重みと生身の暖かさがあります。それは生前の父と娘の絆の深さ、お互いを思う気持ちの深さをも表しています。

美津江を演じる宮沢りえが素晴らしいです。現在30歳くらいのはずですが、23歳の美津江を演じて違和感なく、透明感と聡明さの中に心に傷を負う美津江を、静かに熱演しています。華奢な容姿から似つかわしくない豊かさとまろやかさを感じさす彼女は、内面からの溢れ出ている美しさのように感じました。10年ほど前の彼女は、女優ではなくバラエティー向きのタレントでした。若い時分、スキャンダルからマスコミに追いかけられ、そこから這い上がった彼女の芯の強さを見た思いです。きっときっと今以上に素晴らしい女優さんとなってくれるはずです。

ほとんど二人芝居なので、竹造はとても重要な役です。宮沢りえに負けず原田芳雄も絶品。若い頃の彼はアクが強く、こんな娘との愛を表現する人になるなどど、思いもしませんでした。木下に手紙を出せない娘に「出せ!」と強い口調で言ったり、幸せになってはいけないと言い続ける娘に、「お前は女専まで出て、何を勉強しておったのだ!」と言う怒鳴り声の暖かさよ。これが母親から出る言葉なら、悲痛な叫びであったはずです。竹造の発する言葉に込められる包容力・力強さは、母性とは違った、父性の特性を浮き彫りにもしていました。

このお話は、元は井上ひさし原作の舞台劇だそうです。なるほど、セットは舞台のようですし、竹造演じる「エプロン劇場」の演出の仕方も舞台のままなのでしょう。舞台をそのまま映画にするという事に抵抗のある方もいらっしゃるみたいですが、私のように時間の隙をかいくぐって映画を観ている人間には、夜に上演が中心の舞台までは中々行けません。こうした優れた舞台劇を映画化してもらえるのは、とてもありがたく思えます。

何故幻が友や他の人でなく父なのか?その秘密はラスト近くに明かされます。原爆だけでなく、今も続くなくならない戦争に、たくさんの美津江や竹造がいるのだと思いました。普遍的な父娘の愛情を軸に、静かにそして本当に力強く、原爆を風化させたくない黒木和雄監督の心を感じる作品です。


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