ケイケイの映画日記
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2004年06月30日(水) 「ブラザーフッド」

「シュリ」と言う、今の韓国映画ブームのはしりとなった作品を監督したカン・ジェギュが撮った、朝鮮戦争が舞台の大作、「ブラザーフッド」を観てきました。今日観た映画館は、私のホームグラウンドの布施ラインシネマ。お正月明けに観た「半落ち」以来久しぶりで、義姉さんと観てきました。

知らなかったのですが、配給はあの米大手のユニバーサル。最初からそれを念頭に作ってあったのでしょう、「シルミド」のように、自国民向けだけに作った作品ではなく、日本やアメリカに輸出する目的があったためか、韓国映画独特の泥臭さは影を潜め、濃くて熱い兄弟愛が描かれていますが、くどさや臭みはなく、幅広い層に受け入れられるよう、配慮して作られていると感じました。

朝鮮戦争勃発の日、疎開しようとしたジンテ、ジンソクの兄弟一家は、成り行きで一家に一人の出征で良いはずが、二人とも徴兵されます。そこにいた誰でも良いから、戦争で闘えそうな年代の男ならかっさらっていく、そう言う描写なのですが、当時を知る年配の在日の方に聞いたところ、これは事実だそうで、何も知らない民間人が訓練もそこそこ、戦場に送り込まれたそうです。いきなり戦争が始まったので、余裕を持って兵士として鍛えている暇はなかったそうです。

手柄を立て勲章をもらえれば、弟を帰還させられると聞いた兄・ジンテは、進んで危険な任務に着き弟・ジンソクを母の元に帰らそうとしますが、そのため家族思いで優しかった兄が、段々と人間らしさを失い、自分の知らない人間になっていく事に、ジンソクは反発します。

至近戦ばかりを描いた戦場シーンは、私は「プライベート・ライアン」を凌ぐ迫力と凄惨さがあったと感じました。今までどんなむごたらしい戦場場面を観ても、作り物と言う概念が消えずにいたのですが、土や石が物凄い勢いで弾け、腕が飛び足がもげ、血しぶきが飛びまくる地獄の底は、自分が間近で見ているような生々しさでした。

主役を演じるチャン・ドンコンとウォンビンは、容姿に恵まれ過ぎて、リアリティが出ないのではと危惧していましたが、とんでもない。弟らしい繊細な感受性を、ウォンビンは的確に演じていたし、兄を演じるドンゴンは、私はスクリーンで彼を観たのは初めてですが、華やかなスター俳優のオーラが感じられ演技力もあり、低く通る男らしい声も魅力で、これからの韓国映画界の屋台骨をしょうであろうと確信しました。

義姉がジンソクがジンテに口答えする度、「このアホの弟、誰かどついて。」と言っていました。普通の若い世代の日本の人の感覚で観たら、弟が正しいと感じると思います。この兄は何故これほど弟に執着するのか、意義や意味も理解しにくいのではないかと思いました。でも私や義姉は、ジンテの気持ちがとってもわかるのです。

冒頭で法事のシーンがあります。兄が「父さんの行かしたかった大学へ必ず弟を行かせる。」と二人並んでお供えの前で語るのですが、父親を早く亡くしたこの家にとって、まさに兄は家長な訳で、自分は働き手として家族を早くから養わなければならなかったので、教育の機会に恵まれず、父の意志を弟に託しているわけです。父親の遺言ならば、当時の韓国人なら何がなんでも叶える努力をしたはず。

自分が捨石になっても、何の苦労とも思わないのは、「長男」だから。家の繁栄と名誉をひたすら思うからです。弟を思う後ろには母がおり、「家」があるからです。韓国人独特の、この濃い身内への情愛が理解出来にくいと、このお話は、少しも心の琴線に触れる事が出来ません。

この感情は、少し前の日本でも主流だった感情であり、日本でも充分に通じる感覚だと思います。主役二人の人気で平日お昼にもかかわらず、老若の男女で満員に近かった場内は、すすり泣く声が度々聞かれ、すぐ後ろの中年の男性、横の年配の男性など、声をあげて泣いていおられました。現代では失われつつある親兄弟の情に、胸に去来するものがおありだったのでしょうか?

家に帰り、社会人の20歳の長男に「お父さんが倒れて働かれへんようになったら、あんた、どないする?」と聞いたところ、「俺の給料全部家に入れるわ。」と、事もなげに言うのです。年子の次男も今年から社会人なのですが、「あの子はどない言うやろ?」と話すと、「あいつもそう言うに決まってるやん。俺より家族を思う気持ちは強いで。」と言い切りました。うちにはまだ下に小6の三男がいるのですが、父親代わりは自分がすると言うのです。

何故そんなことを聞くのかと言うので、この作品の兄弟の話をしました。「ふーん、いざとなったら、日本の人も同じように思うんちゃう?」私もそうだと思います。

在日3世として生まれ、いずれ日本人になるであろう息子から図らずも聞いた、韓国人の心。そしてこの作品を観て胸を熱くした私も、何故帰化しないのかと問われ、韓国人の誇りという大層なものでもなし、何なのだろうと言う自分自身の疑問も、常々夫の言う「国籍が変わっても、中身がいっしょじゃ同じことやろう。」と言う言葉は、やはり正しいのだと思いました。

婚約者を殺され、弟も死んだと思い込んだジンテは、国に絶望と憎悪を感じ、北側に寝返ります。そしてそんな兄を救い出そうと、身の危険を顧みず敵のアジトに臨むジンソク。また殺し合いが始まり、やっと見つけた兄は、あんなに愛した弟がわからない。殺されそうになるのに、一方的に殴られる弟。何度も何度も「兄さん!」と呼びかけ、やっと正気に返る兄。戦争とは、あんなにも大切にしていた者さえ忘れさせてしまう、イデオロギーとは、戦争とは、いったい何なのだろう?私が一番戦争の悲しさむごさを感じたシーンでした。

遠く日本に生まれ育ち、日本の学校に通い教育を受けてきた私にも流れる民族の血。その同じ血が流れている者同士のこの戦争を、当時体験した方々の気持ちは、筆舌に表すことは出来ないでしょう。今も世界のどこかで戦争、内戦が行われています。その無残で哀しくやりきれない姿を白日にさらした作品です。娯楽大作と名がつく作品ですが、とても心に重くのしかかり疲れる作品です。しかし見応え、心に響く内容の充実さは充分です。自信を持ってご覧になる事をお薦めします。



2004年06月28日(月) 今日は番外・映画ケチケチ道

突然ですが、皆さん映画1本単価にいくらお使いですか?ロードショーで1800円?、前売り1500円から1300円?いえいえ、映画はもっと安く観られます。デフレが横行する中、映画の料金はまだまだ高い。主婦と名のつく身分には、節約方法は必須科目です。私は今年は上半期51本観て、1本単価728円でした。全てロードショーあるいは特集上映で名画座はなし。名画座は衰退一途の大阪での、映画館にこだわる私の奮闘を、どうぞお読み下さいませ。

まずよく知られているのが映画の日。男女関係無く月の1日の日は、一本千円で映画が観られます。次にレディースデー。ほとんどの劇場で、毎週決まった曜日は女性は千円で映画が観られま。その他最近は各劇場独自のサービスとして、メンズデー、最終回のみ1200円や、金曜日の初回のみ千円など、行っているので、劇場に立ち寄った際やHPで調べてみると良いでしょう。

その次は、自分がよく観る劇場で会員になることです。だいたい1500円から3000円の間が1年間の会費で、入会料は無料のところがほとんどです。特典は会費の高い劇場では、入会時に無料の観賞券をくれ、1年間土日祝に関わらず、前売り価格から千円までくらいの値段で1本観られます。その他スタンプカードを発行してくれ、1本毎にポイントがつき、5個から0個貯まると、無料観賞券がもらえます。他にも提携の劇場で、300円くらいディスカウントしてもらえます。

私の場合2つの劇場の会員ですが、動物園前シネフェスタを例に取ると、会費1500円で1年間いつでも千円で観られ、スタンプ5個で1枚更に5個で2枚と、年間10本映画を観れば3枚無料券がもらえ、1本単価770円となります。

私がよく活用するのはネットオークションです。株主券、劇場招待券、前売り券、試写会の券が格安で手に入ります。気をつけるのは期日に限りがあるものがほとんどなので、観たい映画と日にちが合うか確かめて下さい。他は交通費。私の場合自転車で行ける10スクリーンのシネコンが近くにあり、メジャー系作品は、少々安いくらいではレディースデー千円で観る方が得と言う場合が多いです。もう一つ全国共通前売り券と銘打っていても、使えない地方・劇場もあるので、怪しい時は事前に出品者に質問した方が良いでしょう。後は送料・入金手数料にも注目して下さい。送料込み、切手払い可もあります。ちなみに私の最低価格は「ギャンブル・プレイ」の2枚211円。送料・入金手数料込みで401円でした。

町のチケット屋さんも良いですね。大阪は中々格安は見つかりませんが、中には公開後も前売り価格で販売しているところもありますので、急に見る場合は一度覘いて見て下さい。終了間際には格安で売る場合がありますが、ダブついている場合のみ。ヒット作は早くに完売の場合もあるので、この方法は少しリスキーです。その他、各劇場のHPでパソコンでプリントアウトすると200円から300円ディスカウントしてくれます。

最後の究極はタダ。新聞屋さんにもらったり、懸賞に応募しましょう。試写会などもネットで応募出来るのもたくさんあり、切手代やハガキ代も気にせず済みます。

もっと上級は、タダで当った試写会の券を売ること。私は夜は中々出られないので以前は試写会は応募していませんでしたが、ネットで落札した出品者の方とメールをしている時、「平日限定の券は仕事があるので使えず、こうやって売って仕事休みの日に映画を観るのに充てている。」と仰ったのがヒントになり、応募するようになりました。しかし時々当るのですが、売るのが惜しくなり、結局友人に譲っています。でも何度も譲ると友人が申し訳ながり、この前は一緒に映画をはしごした時、お昼をゴチになりました。ねっ、観られなくてもおいしいでしょう?

その他7/1より夫婦どちらかが50歳以上なら二人で2千円の「夫婦50割引」、大阪の西九条にあるシネ・ヌーヴォは、身障者の方の付き添いの方も千円でご覧になれる、劇場独自のサービスも展開中です。

以上が私の節約方法です。これで大阪市内の劇場をあっちこっち回っています。ビデオやDVDももちろん良いのですが、臨場感・集中力・観客同士の一体感など、私はこれからも生活の許す限り、映画館で映画を観ることにこだわりたいです。それではどこかの劇場で是非お会いしましょう!


2004年06月24日(木) 「白いカラス」

うーん、残念ながら久々の玉砕です。ストーリーは黒人ながら白い肌を持ち、黒人であることを隠し白人として人生を送り、有名大学の学部長にまでなった男性が、授業中黒人学生にに差別的な発言をしたと言うことで解雇された、その晩年を描くお話です。

出演者は豪華です。主人公コールマンにアンソニー・ホプキンス、彼の最後の恋のお相手にニコール・キッドマン、暴力的なその元夫にエド・ハリス、コールマンから彼の不当解雇を書いてくれと言われる作家にゲイリー・シニーズ。これだけすごい面子なら、どんな演技合戦が観られるか期待しますよね?あぁ、それなのに・・・。無駄に豪華に終わってしまいました。

主軸は自分の出自を親兄弟と縁を切ってまで偽った、コールマンの苦悩のはずなのですが、その演出が緩いのです。彼が白人として生きようと誓ったのは、立身出世もありますが、直接の理由は黒人と言う事で破れた、若き日の白人との恋でした。何回も挿入される回想シーンで、45年程前の彼の苦悩を見せるのですが、その後が空白で、45年間での葛藤の描写が一度もないのです。妻にまで隠したこの事を、告白してしまいたい、心が解放されたいと言う描写がないことで、中々この年寄りの心に寄り添うことが出来ません。

冒頭コールマンと小説家・ネイサンの交流が描かれますが、どういう風に晩年の失意のコールマンが、彼の友情を心の拠りどころにしていたか、一緒にジョギングしたり、ダンスをしたり(このシーンは観ていて恥ずかしい)で、終わらせてしまうので、消化不良が残ります。

娘ほどの年の掃除婦・フォーニアと恋に落ちるのですが、何故彼女が必要か、彼女でなければいけないのか、それを「最高ではないが最後の恋なのだ」と言うセリフだけで説明してしまうので、無意味にセックスシーンやその前後を匂わすシーンが多いので、正直色ボケしたのかと思ってしまいます。

フォーニアは、義父の性的虐待で14歳で家出、夫には暴力で悩み、夫から子供を連れて逃げ出し、別の男と会っている時、自宅が火事になり子供を亡くしてしまい、今では人生をあきらめてしまった女性です。観客の同情と共感を呼ばなければならないのに、あまり知らない老人のコールマンを誘い、裸でベッドで待つ様子はほとんどあばずれ。彼に甘えたい、頼りたいと言う
心の結びつきは積極的に拒否、ならばセックスで渇いた心を潤わせえたいと思っているなら、何故自分を委ねる相手に老人のコールマンを選んだのか、鍵になるような演出はなく、これまた不明なのです。

せめて別の男と会っている時子供を亡くした、と言う設定は夜に仕事に出かけていてとかには出来なかったのでしょうか?フォーニアの環境に同情する前に、人としての幼稚さを先に感じてしまいました。

執拗に元夫に追いかけられているのですが、これを演じるエド・ハリスが意味なく見事な老けっぷりで、そうか、フォーニアはジジイ転がしなのか、と別方向に思考回路が回ります。おまけにこの夫、ベトナム帰りなのですが、
そのPTSDに悩んでいる設定です。この作品の時代設定は1998年。80年代が設定ならいざ知らず、この時代にベトナム帰還兵の苦悩を挿入したは見当違いだと感じました。何故エド・ハリスをキャストしたのか、本当に意味不明。まるで見せ場がなく、あぁもったいない・・・。

それ以外にも人種差別の言葉狩りに、近しい今を感じますが、それ以外はとんでもなく古臭い景色、ファッション、演出で、回想シーンに1944年と挿入されなければ、ずっと同じ時代だと勘違いしてしまいそうです。

人種差別がテーマのはずが、老いらくの恋、性的虐待、ドメスティックバイオレンス、ベトナム帰還兵の後遺症など、枝葉になることを盛り込みすぎ、全てに散漫な印象がぬぐえません。登場人物の心模様を全て説明する必要はないし、観る側の感性や知性が要求されても良いと思いますが、あまりの見応えのなさに、こちらの好意なしには、それも叶いません。こちらの感性に訴えたいのなら、もっと想像をかきたてる力強い演出が必要だと感じました。

この作品の監督は名匠ロバート・ベントンと言うこともあり、在日の多い大阪に暮らし、今まで自分の出自を隠さず生きてきた私でも、きっとコールマンの心は理解出来るはず、と期待して観た作品だったのですが、若き日のールマンに彼の母が、「もっと自分の人種に誇りを持って生きなさい」と諭す場面が唯一の見所でしたねぇ。もっとコールマンの卑屈で怯えても、しかし黒人としての怒りとプライドとの葛藤に生きた姿を、深く掘り下げて欲しかったです。


2004年06月21日(月) 「シルミド」

昨日は久しぶりに、難波まで夫と二人でこの作品を観てきました。千日前国際シネマと言う、大きいのですが昔懐かしい感じの劇場です。初回で観たのですが8割方客席が埋まっていてびっくり。韓国流の濃くてベタなところが
受け入れられていないと風評では感じていたので、この入りには、正直びっくりしました。

まず最初にお伝えしたいのは、冒頭で映画でも流れるのですが、今作は実話を元にしたフィクションです。映画では、684部隊は死刑囚や重罪を犯した罪人の寄せ集めと描かれていますが、実際の彼らは民間人です。そのことについては、観る前から知っていた私は、実話ならそんな大事な所を何故脚色するのだろう?と、疑問に思っていたのですが、観れば納得、エンターティメントとして歴史を捉える仕上がりとなっていました。

死ぬか生きるか地獄のような訓練に、歯を食いしばって耐える彼らの、行くも地獄戻るも地獄を映画的に表現するには、この脚色は効果的だったと思いました。ただこの映画化の脚色のため、訓練兵の遺族の方々が誤解を受けたと訴えているとも聞きます。いくらフィクションと念押ししていても、遺族の方々の気持ちは理解できます。実在の人物を描く難しいところですね。

囚人+軍隊ものなので、濃くて熱い場面が続出です。泣かせどころが満載なのですが、舞台が今から35年ほど前のせいもあって、昔の東映や大映のクラシックなやくざものを思い起こさせます。

隠し持っている母親の写真、息子のような年の指導兵とリーダー的訓練兵の心の交流、3年間寝食を共にすることにより、指導兵と訓練兵との立場を超えた連帯感、ならず者の集まりのはずの訓練兵たちが、徐々に規律と友情を育んでいくようすなど、確かに大昔どこかで観た演出なのですが、年齢のせいかこの浪花節的演出は私には合い、巷で聞くくどい・あざといと言う感じはせず、素直に胸が熱くなりました。

当時の韓国では、共産党、いわゆるアカと呼ばれることは大変屈辱で、ソル・ギョング演じる主人公の父は、妻子を捨て北朝鮮に渡ったため、その家族は一生日の目を見ることは当時はありませんでした。このように共産党、アカなどの言葉が侮蔑的に随所に現れ、今以上に緊張感の高かった当時の南北間が表現されています。

映画的には、過分に泥臭く時代がかっており、金日成暗殺計画が頓挫した後がやや散漫な印象で、この辺りは刈り込んで、一気に彼らの怒りが爆発する場面に転換した方が、緊張感は持続出来たと思います。

訓練場面も、「シュリ」の冒頭の切れ味の鋭い表現には及ばず、過酷さは感じるものの、物足りません。しかし夫によれば「シュリ」の場合は北朝鮮の工作員の精鋭の訓練風景、こちらは右も左も分からない民間人なのだから、垢抜けない印象の訓練場面で当然だと言われ、納得しました。

ポン・ジュノが「殺人の追憶」で、軍事政権の中、国民が置いてけぼりをくらっていた時代を、洗練された手法で強烈に皮肉っていたのとは対照的に、カン・ウソク監督は泥臭く浪花節ながら、真っ向から当時の政治に対し怒りを込めて否定しています。なんせKCIAの偉いさんに、「金日成暗殺など、そんな機密が明るみに出たら、どんな野蛮な国だと世界中から思われると思っているのだ。」と、自ら言わせているのですから。

新旧両監督とも、自警を込めて自国の真実の姿きちんと振り返ることで、韓国の明るい未来を切り開きたいと願っている、私にはそう感じます。韓流などという言葉が聞かれ、韓国映画ブームと言われますが、ずっと緊張感の真っ只中にあった韓国の、真摯に親や子供を愛するように、国を愛すると言う考え方が、日本の方々に伝わればと思います。


2004年06月17日(木) 「かくも長き不在」(BS2)

この作品は1960年度カンヌ映画祭のグランプリです。

戦後の復興も一段落ついたパリ。そこで安カフェを営むテレーズには、戦時中ゲシュタに連れ去られたまま行方不明の夫がいます。町に根付きそこそこ繁盛している店と、ピエールと言う精悍でたくましい恋人もいる彼女の現在は、平穏な暮らしですが、店の看板は「テレーズの店」ではなく、夫の名「アルベールの店」のままです。その彼女の前に、突然行方不明の夫そっくりの男が現れれるのです。

テレーズを演じるアリダ・ヴァリは、「第三の男」やビスコンティの「夏の嵐」などでもお馴染みに女優さんで、大柄な体に大きな瞳のグラマラスな美女ですが、この作品ではその魅力的な瞳の下にクマを滲ませ、少々無愛想に接客する姿は、女一人で厳しい戦後を生きてきた苦労を、言わずもがなに忍ばせます。

男は戦後すぐから記憶喪失らしい事がわかります。彼に徐々に近づき、夫であると確信するとテレーズは、夫の叔母と甥に頼み、彼が夫であるかどうか確認してもらいます。この時の演出方法が秀逸で、カフェに男を呼んだ隣で、叔母・甥とテレーズが、夫の生い立ちやら親戚関係、ゲシュタポに連れ去られた時の様子を、噂話として男に聞かせて反応を見るのですが、時の流れと夫の半生が、懸命に語るテレーズの切なさと共に、観客にも理解出来ます。

叔母と甥の答えはNO。別人だと言うのです。しかしテレーズは男は夫だと言い張り、誠実な恋人にも別れを告げます。カフェで働く時のしっかり者の姿はなく、ただひたすら夫らしい男に思いを募らせるテレーズと、冷静な叔母の対比に、血の繋がりを越えた、夫婦の愛を感じずにはいられません。いいえ、それ以外にも必死に昔の記憶を呼び戻し、嫌われないよう恐る恐る彼に近づき一喜一憂する姿は、妻だけでなく母のようにも感じます。「私も彼を忘れていた」そう語るテレーズですが、忘れていたのでなく、思い出さないように記憶を封印していたと感じます。このテレーズのような思いを戦後の長い間、どんなに多くの女性たちが、夫や息子に対して思っていたか、胸を切られるような痛みが走ります。

ある日テレーズは男を夕食に招きます。色気のない店での服装と違い、夫であろう人だけに見せる彼女の着飾った服装に、女心が滲みます。夫の好物だった品を用意し、二人でオペラのレコードを聴き、そしてダンスする二人。
久しぶりに満ち足りた気持ちになり、何か男の記憶を呼び戻す手立てはないかと思う彼女は、ダンスの最中男の後頭部に手術の大きな傷跡を見つけます。ナチスによって、人体実験を受けたのか?夫であると信じているこの人の記憶は、もう永遠に戻らないのかと深く絶望してしまうテレーズ。監督のアンリ・コルピも、このシーンを二人の「夫婦」のセリフのない演技だけで語らせますが、どんな言葉を使っても、このシーンの悲しさ切なさは言い尽くせません。私が今まで観た中で、一番深い印象を残すダンスシーンです。

「あなたは優しい人だ。」男の精一杯の感謝の言葉に、胸を詰まらせるテレーズ。帰り際、抱擁もキスも無く、握手だけの別れの儀式に、思わず男の後姿にテレーズは叫びます。「アルベール!!」何度も何度も呼ぶテレーズ。固唾を呑んでカフェを見守っていた人々も、口々に彼を呼びます。「アルベール!!」

一瞬記憶が戻ったように、逮捕される前の犯人のように両手を上げる男。ここのシーンの演出は鳥肌が立つほど。そしてすぐさま走り出し、あっと言う間に車にぶつかるその瞬間場面は変わり、気絶から目覚めたテレーズが映ります。ピエールが、「彼は大丈夫だ。またどこかに行った。」彼のこの嘘”に、愛する女への思いやり、その女の夫という存在に対しての敬意が感じられます。「夫を冬まで待つわ。」そう答える彼女。

映画はここで終わります。脚本はマルグリット・デュラスです。彼女自身、戦後長い間拘束された夫がおり、獄中の夫を支えながら待ち続けた経験があります。しかし念願叶い、再び一緒に暮らすようになってほどなく、デュラスは離婚したそうです。その苦くやるせない妻の心を、精一杯テレーズの
造詣に込めたのではないでしょうか?

この作品は優れた反戦映画です。戦争とは、希望を、未来を、愛する人を奪い取り、人の人生と人格を踏みにじるものだと観た者に深く感じさせます。
市井のありふれた夫婦の死ぬまで終わらぬ戦後を描き、地味ですが映画史に残る大傑作だと私は思います。あの淀川先生だって「この作品の監督、アンリ・コルピは、これ一作で映画史に名を残すであろう。」と言わしめた作品です。この感想文を読んで下さっている全ての方々にお薦めしたい作品です。





2004年06月11日(金) 「ハッピーエンド」

「あなたのからだが今も好き」この刺激的なコピーと、主演のチョン・ドヨンとチュ・ジンモの激しいセックスシーンばかり話題になっていますが、母性や妻、そして女としての主人公の心模様が丹念に描かれているので、際物的でない秀作として観る事が出来ます。

冒頭から二人の全裸のファックシーンがいきなり出てきてさすがにびっくりするのですが、こちらにまで汗が伝わって来そうな生々しさで、特にチョン・ドヨンには、相手を貪り尽くす勢いを感じてしまいます。韓国ではトップ女優が脱ぐのは御法度で、「情事」のイ・ミスクのヌードは吹替え、「ディナーの後で」のカン・スヨンは、ヌードなしで濡れ場を演じていたので、ドヨンのこの思い切りの良さには感心します。事実このシーンの強烈な印象が、後々までドヨン演じるボラの気持ちを理解するに役立つのですから、ただの客寄せシーンではなかったと思います。

ボラは幼児向けの英語学院の院長で、仕事、生後5ヶ月の娘、失業中の夫を抱え、そんな多忙で心身ともに疲れ果てている中、再会した昔の恋人との刹那の逢瀬を楽しむ事で、心と体のバランスをとっています。失業中の夫は、昨年「パイラン」でも情けない中年男を演じ、絶妙の演技で何故か共感も同意もさせられてしまったチェ・ミンシクが演じています。古本屋でいつまでも立ち読み(座り読み)する様子、仕事を断られた時の表情、妻にいつまでも無職でいることをなじられる時の受け答え、夫婦の性生活での鈍感さに、情けさや卑屈さと同時に、男としての悲哀も感じさせます。

こんな情けない亭主なら、浮気の一つもしたかろうと、多少ボラに同情的な私でしたが、話が進むにつれ、元恋人との復活は、「ヨニ(娘)は自分の子」と主張する愛人の言葉に、娘を妊娠する前にさかのぼるとわかります。
これはどうした訳か?

愛人はかつて、ボラとの結婚を望んでいたのに、彼女がふったと冒頭でわかるのですが、それは自分の夫として彼はふさわしくないと思ったからでしょう。しかしふさわしいと思っていた今の夫は、見る影もない情けなさ。彼女くらいの甲斐性があるなら、夫と娘を養うことも出来ます。しかし夫として父として、彼女には無職の男は許せない。

ずっと観ていて感じていたのですが、ボラは愛人の「あなたの体が好き」ではなく、「あなたの体も好き」なのではないでしょうか?ならばどうしてボラは、夫と離婚して愛人の元へ走らないのか?愛人に対しては、「あなたに何もしてあげられない。だからあなたの前を通り過ぎるだけの女でいたい。」と、充分な愛情を感じる彼女ですが、夫へは罪悪感は感じても愛情は感じられないので、よけいそう思ってしまいます。

思うに、やはり娘は夫との間の子なのでしょう。この娘の役の子が、あまりにふてぶてしく赤ちゃんらしい愛嬌のない子で、寝顔などけんかを売っているようにも見える子なのですが、子供が乳児の頃にする表情は、母親が
妊娠中に抱えていた感情が表に出ると聞いたことがあります。笑顔一つないこの子の表情に、妊娠中のボラの心模様が表現されていたのでしょうか?

ボラは仕事をしているため、母乳を与えていませんでした。母親にだけが出来る仕事は、赤ちゃんに母乳をあげること。もしボラが娘におっぱいをあげていたら、睡眠薬やら、蟻の入ったミルクを与えることはなかったでしょう。それ以上に、愛人とのセックスよりも大切な物が見えたはずです。

社会で成功し、「私が稼いでいるのだからあなたが家事をして当然」と夫に言い放ち、母性より女を優先させる彼女も、やはり平凡な家庭の幸せを踏みにじることは出来なかったのですね。ラストの提灯を追いかけるボラの姿は、平凡な主婦としての幸せをつかめなかった彼女が表されていたと感じます。

あっと驚く夫の復讐劇で幕を閉じるこのお話ですが、失業中でも夫は夫、何でガツンと男の意地を見せなかったのか?ボラはボラで、罵るより前に夫に自分の素直な気持ちを言い出せなかったのか?一見夫婦のセックスの不一致と、女性の性欲を浮き彫りにする事がテーマに感じる作品ですが、実は素直に自分の気持ちを相手に伝えられない、夫婦にはとてもよくある話を刺激的に描いた作品でした。


2004年06月07日(月) 「21グラム」

初作・「アモーレス・ペロス」が高評価を受けた、メキシコのアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督のハリウッドで撮った2作目が、今回の「21グラム」です。前作は脚本の練り方、CM出身らしい撮影の構図の妙、人物の掘り下げ方などたいそう完成度が高く、とても新人監督とは思えぬ出来でした。

にもかかわらず私の感想は、イマイチ何か足りない、何故だろう、映画館ではなくビデオだったので、集中力が欠けたせいかと思っていました。その謎は昨年観た、同じラテンのブラジル映画、「シティ・オブ・ゴッド」を観て解けました。

「シティ〜」はフェルナンド・メイレレス監督の2作目、はちきれんばかりの若さと勢いがありました。計算されていたのかも知れませんが、好感の持てる荒削りさもありました。「アモーレス・ペロス」には、それがなかった。余りに巧く出来すぎて、高なり名を遂げた老練な監督が撮った作品と、同じ香りがしたのです。本作でも、そのような違和感はぬぐえません。

見応えは充分にあります。麻薬中毒から立ち直り、現在は幸せな家庭を築いていたのに、交通事故により一瞬にして、愛する夫と子供達を失う妻(ナオミ・ワッツ)。その夫の心臓を移植してもらい、命がながらえた大学教授
(ショーン・ペン)。荒んだ生活をしていた前科者だが、信仰により立ち直り、貧しくとも妻や子供たちを懸命に養う交通事故を起こした男。(ベニチオ・デル・トロ)

それぞれオスカーにノミネート、及び受賞した3人の演技は素晴らしいです。ワッツは美貌をかなぐり捨てて、生きる目的を失った疲れきった妻を熱演、アップやヌードでも、シミも皺も目のクマも写し、根性ある演技派ぶりです。ペンは「ミスリバ」より、私にはこちらの方が好きな彼でした。ベニチオは言わずもがな。甲乙付けがたいけど、彼が一番良かったかな?

しかし時間が入り乱れて描かれていて、感情移入しようとすると、全然別の場面に飛んでしまい、気がそがれます。臓器移植がもたらす両方の側の葛藤、立ち直りたい前科者の苦悩、ワッツを含む3人の妻の愛してやまない夫が、自分から遠のいていく哀しさなど、真正面から描くに充分な素材及び俳優陣だと思うのですが、どうも凡人の私には、この演出の意図が、最後まで
掴めませんでした。

ラストの持って行き方も、希望が見えて余韻もあるのですが、その希望が、家庭の絆や新しい命の誕生を示唆するという平凡なもので、決してそれらを否定するつもりはありませんが、数ある生きる希望の内の一つだと思うのです。斬新な演出方法で見せるなら、ラストも新しい価値観を付け加えて欲しかったです。

私はお酒は飲めませんが、すごーく高い上等のウィスキーを、お話に夢中になって飲むのを忘れていたら、氷が溶けて薄くなっていた、そんな感じの作品です。




2004年06月03日(木) 「ジャンプ」

「読んでから観るか、観てから読むか?」大昔「犬神家の一族」に使われたコピーですが、原作のある作品はどちらにするか、未だに悩みます。今日観た「ジャンプ」は、2000年度「本の雑誌」が選ぶベスト1に輝いた、佐藤正午の原作の映画化です。私は既に読んでいるのですが、映画と原作は別物と思っていても、この作品のように、面白くて一気に3時間で読んでしまった物は、ついつい比較してしまいます。

突然理由もわからず恋人に失踪された男性・三谷を主人公に描いた作品で、大筋は原作通りです。ですが、登場人物の性格や設定がかなり膨らんだり、削られたりしているので、原作で表現されている、サラリーマン男性の同情しえる優柔不断さや、女性の持つ良い意味で物事に縛られない自由さ、のちに妻となる女性のすごみやしたたかさが、あまり感じられません。

特に、始まってからすぐ失踪してしまう恋人のみはるは、原作では、姉・実父・友人によってどういう女性か読み手にもくっきり浮かび、伸びやかでしなやかな感性を持つ魅力的な女性なのですが、その辺りがばっさり削られ、
失踪の意味づけが不明瞭で、魅力の乏しい自分勝手な女性に映ります。そのため、何故三谷が必死になって彼女を探すか説得力に欠け、みはるを探す過程で、今まで自分は恋人の何を見ていたのだろうと言う、男性にはありがちな、自分の鈍感さに気づくと言う描写も薄いです。

もう一人鈴乃木早苗と言う女性が重要な役なのですが、彼女は映画では、だいぶ違う描かれ方です。原作では肉食獣が獲物を捕らえる直前のような、絶妙の距離感を三谷と保ちながら、年上の余裕と結婚に対する鋭い洞察力と気合を感じさせ、とてもしたたかな女性なのですが、映画では、自分の気持ちに気づかぬ三谷をひたすら思い、献身的に支える女性に描いているので、彼女の取ったみはるへの行動も、女心の切なさを感じさせました。脚本(と言うか脚色)は、女性の井上由美子。早苗の膨らませ方を見ると、彼女に一番共感したのかもしれません。

私が原作を読んで一番感じた、”if・もしも”的な、あの時ああしていれば、あの時ボタンを掛け違えていなければと、人は人生においてよく思うものですが、結局それは縁がなかったと言うこと。偶然ではなく必然だったのだと言う、感想は、映画でも同じでした。観ている間は淡々と進むストーリーに、退屈せずリアリティも感じながら観られます。主人公を演ずる原田泰造は、最大公約数的優しい男性像を、上手く演じていました。この作品に関しては、観てから読むをお薦めします。




2004年06月01日(火) 「下妻物語」

今日は映画の日です。「トロイ」も「レディキラーズ」もイマイチな予感がし、ちょっと気になっていたこの作品を観に、心斎橋シネマ・ドゥまで行ってきました。

最初はじまって20分くらい、えー、うっそー、これ吉本新喜劇やったん?
あのトヨエツと山崎努のビールのCM撮った(中島哲也)気鋭のディレクターが作った、イケテル若い子映画じゃないの???もうベタベタですがな、と思っていたのは束の間、知らぬ間にゲラゲラ笑い出し、乙女の日常に胸キュン(死後だ・・・)になり、またまた知らぬ間にたかだかこれくらいの内容で(!)ちょびっと感動させられると言う、さすがは1分少々の世界に生きるCMディレクター、手練手管はさすがです。

深キョンはロリータ少女・桃子ちゃん役なのですが、年齢ももう20歳を過ぎているはずだし、健康的なパワー溢れる彼女には、無理があるのじゃないかと思っていたのですが、フランス人形のような愛らしさで、ばっちりはまっていました。キャラ優先の役なので、「阿修羅のごとく」のように、う〜ん、この子好きなんやけど、もうちょっと芝居上手かったらなぁと、観客スキを与えないスピーディな演出が功を奏したようです。

ヤンキーのイチゴ役、土屋アンナちゃんはモデルだそうですが、私はこの作品で始めて知りました。下品だけど情に厚いイチゴを熱演、良かったです。モデルの彼女を見たくなりました。

桃子は外見に似合わず孤高のロリータで、人とつるまず理解されなくても、わが道を道を生きるのですが、元いじめられっ子で強くなりたくてレディースになったイチゴは、その桃子の強さに魅かれ、「顔」の藤山直美ばりに「友達て、おらなあかんの?」で生きてきた桃子が、イチゴと知り合い初めて友情の何たるかを認識するという、乙女二人が絆を強くしていく様子が、観ていて微笑ましく、元乙女の私は懐かしくも思いました。

いつものように助演で場をさらう樹木希林が桃子の祖母役で、「大きな器でなくても、綺麗な器がお前にはある。お前でなければダメだと言うことが必ずあるよ。」と、桃子に語るセリフがこの作品を首尾一貫貫くメッセージだと感じました。

原作はロマ系乙女達の教祖、嶽本野ばら。彼曰く、乙女が一番ハードボイルドだとか。それならこの映画は成功です。フリフリ・ロリロリを身にまとった、漢な乙女映画でした。


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