ケイケイの映画日記
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2004年07月29日(木) 「キリクと魔女」(吹替え版)

本日は夏休みということもあり、末っ子とその友達を連れて、試写会などを良く上映する、新大阪のメルパルクホールまでフランスのアニメ「キリクと魔女」を観て来ました。この作品は昨年夏ロードショー公開されていますが、今回は製薬会社とラジオ局のタイアップで、限定4日間で大阪の色々なホールを巡回しており、本日が最終日でした。『ファミリー映画界』と銘打っていたので、小さなお子さんがいっぱい。うちの子供達が小さな頃を思い出しながらの鑑賞でした。

舞台はアフリカのとある村。魔女ガラバに支配されている村は、泉は枯れ、ガラバに戦いを挑んだ男たちは皆ガラバに食べられてしまい、女達は金や宝石を奪われ、村には女子供と年寄りだけが残っています。そんな村で、産み月間近い若い母の胎内から、「ぼくを生んで」との声とともに、自分の力で生れてきたのが、この作品の主人公・キリクです。

この神話のような誕生の仕方から、観客はこの村の救世主はキリクだと確信するのですが、映画の中では、身体は赤ちゃんながら、大人より賢く勇敢な彼は、村人から薄気味悪がられ、なかなか受け入れてもらえないのです。
しかし、キリクの知恵と勇気のおかげで、数々の危機を救われた村人達は、徐々に彼の存在を認め、受け入れてくれます。

本来なら他者から守られ愛されて当然の赤ちゃんのキリクですが、その中身と外見のギャップが、人からは警戒心を抱かせてしまいます。「普通」と言う概念からは、キリクは遠い存在なのです。こうして映画の中では、キリクの存在を受け入れている私たちですが、日常生活において、村人達と同じような行動を取り、普通と言う概念から少々はずれた人たち(身体的以外にも不登校や性同一性障害など)の善良な心までも排除しているのではないか?そんなことをふと思いました。

キリクがいじけず真っ直ぐに生きられるのは、彼の特性を見極め、見守る愛情で彼を包む母がいるからです。「人は黄金がなくても生きていけるが、水や愛する人がいなくなれば、生きていけない。」と、若い母親は、人生の指針を息子に教えます。キリクの人格を認め、息子の可能性を信じる母は、ともすれば冷たく見えますが、いつも心に子供の存在があるのに、手出し口出しないと言うのは、実際はとても難しいことです。子離れの時期をとっくに過ぎた息子たちを持つ私は、とても教えられることがありました。

村を救っても、「何故魔女ガラバは意地悪なの?」という好奇心を持ち続けるキリクは、その答えを得るため、彼の祖父である山の賢者に会うため、危険をおかして”禁じられたお山”に向かいます。そこでは数々の試練が彼を待ち受けていますが、「今までも何とかしてきた。きっと今度も良い方法がある。」と言う彼の言葉に、前向きな心と頭の柔軟さが大切と学ぶことが出来ます。

監督・脚本・原作のミッシェル・オスロは、子供の頃アフリカに住んでいたらしく、心に焼き付いた原風景を映像化したのでしょうか、極彩色に彩られたアフリカの大地は生命力に溢れ、力強い美しさに魅了されます。人々は子供は素っ裸、大人も腰蓑やパレオを巻いた上半身裸です。これが白人や東洋人なら、少しエロティックに映るかもしれませんが、褐色の肌は性と言うより生を感じさせ、女性達の乳房は子を孕み育む、たくましさと母性を感じさせます。

首尾よく祖父に会い、ガラバの意地悪の原因を突き止めたキリクは、ガラバを救いたいと願います。彼女は男たちから虐げられ、心にも肉体にも傷を負っていたのです。カラバを救ったキリクは、彼女に求婚、彼女とのくちづけにより、中身と相応しい立派な青年となるのです。何だか「一寸法師」のようですが、敵として戦ってきた女が運命の赤い糸、というところがいかにもフランスを感じさせます。相手の過去も問題にせず大人ですね。

観終わって一番感じたのは、子育てに大切なことがぎっしり詰まった作品だと言うこと。私も経験がありますが、育児中は少しでも我が子が枠からはみでると、とても心配してしまうものです。あるがままを受け入れ、心を柔軟にして知恵を絞り、風通しの良い心を持ち、子供の好奇心を満たしてやる。わかっちゃいるけど、子育て中にイライラしている時は忘れがちなことです。この作品には、キリクや母、祖父の言葉や行動から、そんな時に心を静めるヒントがたくさんもらえます。

どちらかと言うと大人向けの作品ですが、お子さん達にもキリクの冒険物語として楽しめるかと思います。子育て中の方や出産祝いなどにこの作品のDVDをプレゼントすれば、気の利いた品として、先方にきっと喜ばれますよ。


2004年07月26日(月) 「マッハ!!!!!!!!」

一、CGを使いません
二、ワイヤーを使いません
三、スタントマンを使いません
四、早回しを使いません
五、最強の格闘技ムエタイを使います

を掲げて颯爽と登場したタイ映画、「マッハ!」を暑気払いに最適かと、夫と末息子と3人で観てきました。
場内は男の子同士、アベック、父子など男の子指数がうなぎ上りで、うちのように喜んで母親も観にきたところはいないようで。そう言えば「テキサス・チェーンソー」も、女一人客は私だけでしたねぇ。(しみじみ)

冒頭から高い木に巻きつけている布を誰がいち早く取れるかと言う、えべっさん一番乗りみたいな行事を行っている様子が出てくるのですが、思いっきり皆さん高い木からズドーンと気持ちよく落ちます。隣で息子が、「これほんまにやってるなんて、すごいやん。」と感心しきりでした。

ストーリーは、信仰心の高い村から盗まれた仏像・オンバクの首を、村一番のムエタイの使い手・ティンが、村人の期待を一身に背負ってバンコクまで出かけ、村に取り戻すまでを描いています。

ストーリーは身体を張ったアクションの付けたしだと思って下さい。貧しい村からバンコクへと場面転換しても、街の風景や人々のいでたちは、まるで私が子供の頃テレビで観た、日活や新東宝の無国籍映画のようで、エキゾチックと言うよりあまりの古臭い風景に仰天。観たのが吹替え版だったため、顔立ちは東南アジアの人なのに日本語を喋るため、一層その感を強くしました。賭博場でのいかさま場面、ストリートファイトに登場するツワモノたちのキャラクターに、もう一工夫も二工夫もあれば、グッと作品が垢抜けた印象になったと思います。

しかし!!!
ようやく始まる待ちに待ったアクション場面の連続には、そんな不満は吹っ飛びます。ティンを演じるのは、ハリウッド作品「モータル・コンバット」などのスタントに出演していたトニー・ジャー。有能なスタントマンだそうで、今作が始めての表舞台出演です。ムエタイ以外にも、マーシャルアーツ、テコンドーなどの武術を習得し、体操選手でもあったそうです。予告編やチラシを観た時は、もうちょっとハンサムならなぁと思ったもんでしたが、スクリーンではなかなかどうして、精悍な面構えと大きな鋭い目力で、役柄と技を引き立てます。

ジャッキー映画のように筋立てに面白さはないですが、トニーの抜群の身体能力を生かした軽業師のようなアクションと、ムエタイの技の応酬で、観ていて束の間も飽きません。それどころか次は何を見せてくれるか、もうワクワク。大味なCGや、身体を張ることもない欧米のスター映画にない、生身の肉体の素晴らしさを伝えようとする、出演者、監督、裏方の、若々しい熱気に好感が持てる作品です。

御年50歳のジャッキー・チェンは、自分の後継者を必死で探しているそうですが、同じアジアにちゃ〜んといるじゃあございませんか。誰か教えてあげて下さい。相棒役のペットターイ・ウォンカムラオみたいな舌を噛みそうなタイ式の名前でなく、覚えやすいトニー・ジャーで表舞台にデビューは、世界進出の目論み充分と私は見ました。そのジャッキーに習い、アクションシーンの練習風景やNG集がエンディングに出てきますので、どうぞ最後までご覧下さい。全部終わって、私は思わず拍手なんぞしてしまいました。
あのマフィアのボス、何のために車椅子に乗って声帯に穴開けてたの???なーんて、気にしない気にしない。トニーにしびれて、あなたも私もOK牧場!な、作品でした。


2004年07月22日(木) 「MAY-メイ-」

春頃この作品の噂を聞いて、ずっと待ちに待って観た作品です。そういう事を書くと、少々人格が疑われそうですが、これは私が結構好きな猟奇的なホラー作品です。作品の質や全然噂にも上らないので、ひっそり天六のホクテン座かユウラク座かなぁと思っていましたが、何と大阪の中でもマニア受けするミニ・シアタアー、十三第七藝術で公開です。そういえば自傷マニアの女性を描く作品、「イン・マイ・スキン」もここで公開でした。見逃して残念。

小さい頃から弱視で、海賊のようなアイパッチをしていたため、廻りからからかいの対象となり、以来友人も出来ず大人になってしまった若い女性・メイが本作の主人公です。今は動物病院に勤めていて、手術の腕など獣医以上です。

幼い頃の彼女が描かれるシーンで、そんな娘を不憫に思った母親が、自分の手作りだと言う人形を、今日から親友だと思いなさいとメイに与えます。しかし、お母さん、あなた神経は大丈夫ですか?というくらい、この人形が不気味なことこの上ないのです。メイを愛してやまない両親の様子とこの不気味人形の対比で、メイは歪な溺愛の仕方で育ったことがわかります。そしてメイは、それ以降この人形にスージーと名づけ、生きているかのごとく接するのです。

そのせいか大人になったメイは愛らしい容姿なのですが、どこから見ても怪しいというか、あぶないというか、これでは友人も出来ないだろうと納得出来る雰囲気です。ただ演じるアンジェラ・ベティスの好演が、上っ面だけ見ないで、ちゃんとメイの内面(いや、これもあぶない)と言うか、純粋な面を誰か理解してくれないのだろうかと、彼女を案じさせてしまいます。

そんなメイにも好きな男性が現れ、やっとのことでデートにこぎ着けます。
手術で縫ったり切ったりする以上に、メイは洋裁が得意です。少しでも可愛く見えるようミシンを走らすメイ。数々のメイ自作の服が出てくるのですが、全てセンス抜群。彼女が洋裁が得意と言うほかに、人より優れた感受性の持ち主であることも感じさせます。

この男性・アダムは自動車修理工なのですが、部屋に行くとヘンテコな猟奇的な小道具やポスターがいっぱいのオタク青年。しかしオタク文化は日本の方が進んでいるそうで、アダムはあくまで明るいアメリカのニセ猟奇オタクです。アダムが趣味で撮っているカニバリズムの映画を一緒に観たメイは、彼に好かれたい一心で、映画と同じような行動を取り、当然アダムはドン引き。空想と現実は別物と言うのは、普通に他人と交わって生活してきた者の考え方ですが、他者と接する機会がほとんどなかったメイにはそれがわからず、何故嫌われたかもわからない。傷心のメイに、彼女の変わった風情に興味を持ったレズビアンの同僚が近づき関係を持つのですが、これが尻軽女で、メイの心の傷は深くなりばかりです。

自分だけを見て、自分だけを愛してくれる親友が欲しい、人形のスージーでない本当の親友。なら自分で親友をつくればいい。そう考えた彼女は、アダムや同僚など、次々殺害して彼らの素敵だった手や首や足を切断、それをつないで親友を作ります。

理想的な親友を作らんがため、あくまで今まで自分の生きてきた狭い狭い世界の中で、気に入ったパーツを持つ人たちから拝借するのであって、自分を捨てた、裏切ったという復讐心でないところが哀しいのです。殺すシーンや解体シーンはとても静かに演出され、さすがに血は大量に映りますが、絶叫や阿鼻叫喚は皆無。そのものズバリのシーンはありません。正直少し物足りないかな?くらいの演出なのですが、これくらい抑えた演出が、ラストではとても生きてきます。

ラストあっと驚くエンディングが用意され、猟奇的ホラーではなく、猟奇的ファンタジー映画へと、この作品の印象は一変されます。
観終わったあとグロい場面も数々あったのに、印象に残るのは、本当は純粋で感受性豊かなのに、不器用で愛し方・愛された方がわからなかったメイの、哀しく切ないみなしごのような孤独な心です。

この手の作品を輝かせるには、監督の主人公への思い入れが重要ではないかと思いますが、初監督作のラッキー・マッキーは、メイと言う女性への愛がとても感じられます。主演のアンジェラ・ベティスは、細部に渡るまで繊細にメイの心を表現し、きっと彼女の代表作となるでしょう。アダムを演じるジェレミー・シストがちょっとトラボルタに似ているので、母娘の歪な愛が同じようにモチーフだった「キャリー」を思い出しましたが、テレビ版でリメイクされた「キャリー」で、ベティスは主人公を演じたそうです。今後もホラーが続くそうですが、シシー・スペイセク同様、ホラー以外でも輝く演技を見せてくれる女優さんに、是非なって欲しいものです。


2004年07月19日(月) 「シュレック2」(吹替え版)

先行ロードショーなるものに初めて行きました。去年くらいから、話題作など初日の一週間前くらいに、夜2回くらい先行で上映するのが流行っていますが、悲しいかな主婦の身では夜はなかなか。この作品はファミリー向けと言う事もあり、先行モーニングでした。近所のシネコンに着いてビックリ!駅の近くまで行列が出来ているのです。「座れるやろか?」と末息子とヒソヒソ話していたのですが、これがなんと「ポケモン」の方たちでして。我が家が「ポケモン」と縁がなくなって3年、ピカチューはまだ神通力はあるみたいですね。

結婚したシュレックとフィオナ姫は、新婚旅行から我が家に帰ってみると、フィオナの両親である国王と王妃から、是非結婚のお祝いをしたいので、国に帰ってくるようにと連絡が入ります。渋るシュレックを説得して、二人+ドンキーは両親の元へと帰ります。しかし、怪物のシュレックとフィオナを見て、国王はあからさまに嫌悪、王妃は戸惑いながらも娘の幸せを願い、二人を受け入れようとします。そこへ占い師の妖精・ゴッドマザーが現れ、国王に約束通り、自分の息子のプリンス・チャーミングとフィオナを結婚させろと言うのです。はてさて、それからそれから・・・・

前作同様全編CGアニメですが、技術的に無理にリアリティを追求するのではなく、人の手で書いたような暖かみのある絵柄で、顔の表情の豊かさや皺やすばかすなどの描きこみの芸も細かく、前作より魅力が増しています。

前作では御伽噺のブラックなパロディと心暖まる展開に魅力がありましたが、今回はそれに加え映画のヒット作のパロディが満載です。「ミッション・インポッシブル」「ゴーストバスターズ」「フラッシュダンス」「インディ・ジョーンズ」「恋のゆくえ」などなど、愉快な事この上なしです。
場内は満員だったのですが、あちこちでおぉ!と歓声が上がっていました。クッキーマン、ピノキオ、三匹の子豚など、前作以上に彼らも大活躍でした。

初登場人たちもとても魅力的。長靴を履いた猫はラテンのヘタレ刺客なんですが、猫の生態?も勉強出来て、いやもう〜とにかく楽しいです!私はあのつぶらな瞳撃ち抜かれました。(観ればわかりますよん)字幕版は愛しのバンちゃんなので、私は吹替えの竹中尚人さんには申し訳ないですが、バンちゃんの声を思い出し脳内転換に必死でした。ゴッドマザーは、妖精というより、やり手女社長みたいでいやらしさ満点。こんもりした胸の谷間に妙な色気があり、終盤で「ヒーロー」を太ももまで露にして熱唱する様子は、熟女の魅力たっぷりでした。息子のチャーミング王子は、全然チャーミングじゃありません。(きっぱり)ナルシストな様子は爆笑もので、こちらの字幕版はルパート・エヴェレット。吹替え版を観たので想像ですけど、みんなウハウハ喜んでお仕事してたんでしょうね。

愛するフィオナのため、シュレックが美男子に変身する場面があり、その姿は、私は只今マツケンサンバで日本中を席巻している松平健さんにそっくりに感じ、私はニヤニヤ。音楽には「ヒーロー」の他、シックの「おしゃれフリーク」、リップスの「ファンキータウン」などかかり、親子連れの親に大サービスな作りでした。ハロルド国王の意外な秘密も、シュレックとフィオナの行く末もだいたい想像出来るのですが、これは良い子のみんなも観る映画、心に残るこういう結末は大歓迎です。

その他字幕版では、心優しい王妃にジュリー・アンドリュース。
私は前作も好きでしたが、断然こちらの出来の方が良いと感じました。
満載のパロディで、大人向けの印象がある「シュレック」ですが、小さい子供さんもたくさんいて、わかるのかな?と思っていましたが、それは杞憂に終わり、大人といっしょに笑い楽しんだ様子。ぐずる子供さんはいなかったですね。心の底から大人も子供も楽しめて、と言う映画はなかなか見当たりませんが、今年の夏休みの親子映画には「シュレック2」をイチオシさせてもらいます。








2004年07月17日(土) 「チルソクの夏」

この作品は1977から1978年の1年間、当時本当に下関と韓国・釜山と間にの行われていた、高校生の日韓親善陸上競技会で知り合った、下関の女子高生と釜山の男子高校生との遠距離恋愛を軸に、当時を時代背景にした、清清しくもノスタルジックな思い出にどっぶり浸れる秀作です。

韓国へ招かれた同じ女子高に通う仲良し4人組は、競技そっちのけで、日本からいっしょに来た男子や、釜山の男子の物色にキャーキャー騒いでいます。競技会も終わり、明日は帰国と言う晩に、戒厳令の厳しい検問をかいくぐって、4人組の中で一番おとなしい郁子に一目ぼれした釜山の高校生・安が宿舎に会いにきました。

この二人の逢瀬がなんとも微笑ましいです。安は木に登り郁子はベランダと、レナード・ホワイティングとオリビア・ハッセー、じゃなかった、「ロミオとジュリエット」そのままの構図なのです。すごくロマンチックで初々しく二人を捉えていました。

その時住所を交換し、次の七夕(韓国語でチルソク)に再会することを約束し、二人は文通を始めます。しかし今より日韓の間柄は厳しいもので、日本人は差別心、韓国人は恨みの気持ちを抱いていて、さながら二人は本物のロミオとジュリエットになってしまいます。

全編4人の少女たちの青春真っ只中の描き方が素晴らしいのです。元気いっぱいで本当に可愛らしい!成績を気にしながら他の事にも興味がいっぱい、男の子との交際、放課後にお好み焼きを頬張りながらの他愛無い会話、打ち込む部活を安との交際が上手くいかず、後ろ向きになり練習に身が入らない郁子を囲み、一生懸命説得する他の少女たち。

泣かせに入るプロットでもないのに、私の目からは知らぬ間に涙が。当時彼女たちと同世代であった私の姿もそこにいたのです。平々凡々、楽しかったけど取り立てて褒められるようなこともなく、毎日なんとなく生活をしていたと思っていた過去の自分も、彼女たちのように光り輝いていたのです。それをスクリーンで観て、年をとって乾燥気味の私の心を潤すための涙なのだと思いました。青春とは、振り返って初めてその輝きがわかるのだと実感しました。

郁子の父親に扮するのは歌手の山本譲二。カラオケの出現で行き場を失いつつある流しの役ですが、時代を感じさせる好演です。男性にとって懸命に頑張っている仕事を失うと言うのは、女性のように家事や子育てと別の役割があるわけでもなく、自分の人格も否定されるように感じるのではないでしょうか?安のためのマフラーを編む郁子を激しく殴る父、郁子はこう口答えします。「お父さんの仕事も、お母さんの勤めるパチンコ屋も、みんな朝鮮の人の世話になっとるやろ?何で私が付き合ったらダメなん!」この言葉は、父の胸に突き刺さったはず。人から見下げられている相手に世話になって生きていると言う事に、とても葛藤があったはずなのです。陸上で奨学金をもらい進学して欲しいと願う母とともに、父にも郁子にはこの底辺の生活から抜け出して欲しい、そう願う気持ちがあったと思います。このお父さんも良く描けていました。

そして約束の次の七夕の日、会うことが出来た二人は、次は4年後の再会を約束し、初めてキスします。ここで私の感情は頂点に。大人の思考では4年後などあり得ない、このまま二人は青春の思い出を胸に結ばれることはないのだと、嗚咽を必死でこらえていました。その後見守っていた他の3人と郁子は、抱き合いながら同じ感情を共有します。いいなぁー若いって。

郁子に扮する水谷妃里は大人っぽい顔立ちですが、撮影当時15歳。控えめでおとなしいけど、芯の強い郁子をよく表現していました。他の3人は上野樹里、桂亜沙美、三村恭代。みんな良いですが、中でもリーダー格の真理を演ずる上野樹里がとても良いです。ハツラツピカピカ、この年齢にしか出せない光を、身体全体から放っています。「がんばっていきまっしょい」の田中麗奈クラスの素晴らしさでした。

韓国映画ブームでハングル語を学ぶ方が増えた現代は、この作品の時代背景から見ると隔世の感がありますが、いつの時代も差別や障害を取り除いていくのは、政治でなく市井の若い人々の純粋な心ではないかと感じました。
個人的には全編ツボを押されまくりの作品でした。監督は佐々部清。今年は「半落ち」もヒットしています。「半落ち」は脚本やキャストなど文句もいっぱいあったのですが、描きたい心はしっかり受け取れ、やはり好きな作品でした。この監督は、私には合うぞ。


2004年07月16日(金) 「スパイダーマン2」(吹替え版)

面白い!実はこれは末息子のリクエストで観た作品で、午前中は「チルソクの夏」を観て、急遽午後に観に行く事になったので、あんまり気合が入らず
しょうもなかったら寝てたらええわ、くらいの軽い気持ちで臨んだのですが、とんでもない!覚えている限りの、ヒーローアクション物の白眉の作品でした。

スパイダーマンとなってからのピーターは、人助けボランティアのヒーローとしての活動が忙しく、バイトではヘマばかり、大学の講義では出席もままならず成績は急降下、あげくアパートの家賃も払えず、女優となった愛しいMJから招待された舞台には遅刻で観られず、ピーターからの愛の告白を待つ彼女は痺れをきらし、別の相手と交際を始めます。
いったい自分は人生を全てを犠牲にして、何のために人助けをしているのか?ウツウツグジグジ、ピーターは悩みます。

このウツウツグジグジが、とても良く理解出来るのです。
サイボーグや特殊能力を持つミュータントの苦悩と言うのは、人間としての部分とそうでない部分の間で悩む、言わば自分のアイデンティティーに対してというものだと思います。
しかしこのピーターの悩みは、例えば有力スポーツ選手が自分の人生の全てをスポーツに捧げてふと振り返った時の葛藤、例えば仕事の出来る女性が、「だから女は」と言われることに反発し朝から晩まで仕事仕事で、ふと私は女として正しく生きているのだろうか?と囚われる時、などなど普通の人にも色々置き換えられる苦悩で、「そうやわなー、ちょっと休んで青春楽しんだら?」と、思わず声をかけたくなります。

そうこうするうち、彼はついにスパイダースーツを捨てます。
しかしそのため町の犯罪率はアップ、4本アームの怪人・ドクターオクトパスが街を破壊しまくります。また葛藤が始まるピーター。

ピーターの叔母であるパーカー夫人が、どんなに自分はお金に困っていても、ピーターの誕生日プレゼントは忘れず、受け取れないというピーターに、「受け取りなさい、本当はもっとあげたいの。」と涙ながらに渡す与える愛の深い女性で、葛藤真っ只中のピーターに、「ヒーローは自分の幸せのためだけに生きてはいけない」と悩むピーターを後押しします。彼と深い絆で結ばれた、心暖かい上品な老婦人に語らせることで、聞く者に、素直に真理だと感じさせる重みを与えます。

街に戻ったスパイダーマンは大活躍。橋から落ちてしまう寸前の列車を止めたり、愛するMJを人質に取ったドックオクと対決します。
アクションは全てCG絡みですが、蜘蛛の糸を使ったアクションは前作同様爽快で、アニメチックな感はありますが、まっ、この作品は原作がコミックですから、さして違和感はないと思います。それより色々な作品で、もうお腹いっぱい!の感のあるCGですが、この作品では全ての出演者の演技が上手く、CGだけが一人歩きせず、映画の売りの一つとして機能していました。CGはやはり副菜、主菜はやはり俳優の演技なのだと改めて思いました。

怪人ドックオフを演じたアルフレッド・モリーナは、愛妻家で正しく知的な科学者・オクタビアスと、人格を自ら作った機械に乗っ取られた後の怪人とを見事な演技力でくっきり対比。どんぐりまなこ一つで狂気や優しさ、哀しさを表現していました。ラスト正気に戻った彼が、「化け物のままでは死ねない」の言葉を残し、命を捨てて最愛の妻の命を奪った機械を破壊していく姿に、正直言うと私は涙ぐみました。哀しいはずなのに、きっちり落とし前つけて、きっと天国の妻にねぎらってもらっているだろうと、カタルシスさえ覚えました。

何なのだ、このヒーローものにあるまじき(?)ドラマの厚み・充実は!
脚本はアルビン・サージェント。近くは「運命の女」、遡ると「ペーパー・ムーン」「ジュリア」「普通の人々」など、「不朽の」と付けて良い名作の脚本を書いています。なるほどねー。

もちろん監督のサム・ライミも立派。予算はふんだんにあったでしょうに、
大作のもったいぶった感じはなく、彼流ユーモアが全編ちりばめられ、笑いを誘います。バート・バカッラクの「雨にぬれても」の効果的な使い方に、「明日に向かって撃て!」を思い出し、スパイダーマンの正体を知った花嫁姿のMJには、ウジウジグタグタのピーターとMJらしい『卒業』を用意し、往年の映画ファンを楽しませます。B級の良き香りを残した一流娯楽作。幅広い層の皆さんにお薦めします。


2004年07月12日(月) 「69 sixty nine」

この映画の題材である1969年は、私は小学校2年生で、この時代の空気や体温、風俗みたいなのは、辛うじて覚えています。
前半はなかなか快調です。特にオープニング・タイトルは、影絵風アニメーションで69年という時代を再現し、BGMはエリック・クラプトンが在籍していたクリームの「ホワイト・ルーム」が流れ、「キャッチ・ミー・イフ・ユーー・キャン」のオープニングを彷彿とさせる秀逸な出来でした。
他にも全編において流れる数々の曲の選曲が良く、時代を感じさせる助けになっていました。

高校3年の男子たちの生態も、ちょっとおふざけが過ぎるきらいはありますが、平凡パンチ・11PM・クラスの気になるあの子・鉄拳教師などを上手にアイテムとして使いながら、性への好奇心や、アホだけど若いエネルギーが充満している様子を楽しく描いています。うちにも高校を卒業したばかりの息子たちがいて、「今だから話そう」的なアホ話を最近たくさん聞かされている私は、微笑ましく好感をもって観られました。

私が一番気にいったのは、口が立ち行動力もあるケン(妻夫木聡)、頭も顔も良いけど訛りがきつく、場を考えないでものを言ってしまうアダマ(安藤政信)とつるんでいて、いつも絶対コーヒー牛乳を飲む事が出来ないイワセ(金井勇太)のエピソード。コーヒー牛乳って特別な飲み物だったなぁと、しばし思い出にふけりました。今ほどいつでも飲めるものじゃなかったんです。アイスクリームも夏だけの物でした。アイスの入ったケースは、冬はお店の中にひっこんじゃったものです。

段々と私が笑っていられなくなったのは、ケンが言いだしっぺで、自分たちの学校をバリケードで封鎖してからです。折りしも学生運動盛んな時代、高校生でも本気で国を憂いて、その道に入った人もいたでしょう。それなら良いのですが、ケンがそうしたのは、気になっている学校のマドンナ・松井和子の気を引きたかったからです。あげくメンバーの一人に、校長先生の机の上に脱糞させます。試写会でこのシーンは沸いたそうですが、画面で見せるのにはあまりにも汚らしいのです。もちろんフェイクでしょうが、そのものズバリも映しています。ここまで描かれるとおふざけを過ぎて、立派な犯罪。彼らを可愛いと思う気持ちが失せてしまいました。

警察に捕まり、親共々学校に呼び出される事になったケンに対する両親の態度も疑問です。父親(柴田恭兵)は、のちのエピソードで教師だとわかるのですが、当時の長崎の佐世保で、教師の子供が起こした新聞沙汰になるような問題は、自分の進退問題にもかかわるはずなのに、父親は怒りを見せません。「自分が信念を持ってやったことなら、まっすぐ相手の目を見てこい」と、母親と送り出すのですが、信念てあんた、好きな子の気を引きたいだけのノリでやったことで、政治的な思想も何もないのがわかってんの?と、私にはこの父親が理解不能でした。

彼らはとても恵まれているのです。私の父はメッキ工場を経営しており、小さいながら寮もあったので、当時春になると、「金の卵」と呼ばれる中卒の少年達が働きに来て下さいました。四季折々に土地の名産品を我が家に送って下さった親御さんの気持ちは、ひとえに「息子をどうぞよろしく」だったと思います。そんな同世代が居たのにもかかわらず、「面白ければそれでいい」だけで全て事が運ばれる筋では、1969年という時代が見えてこないのです。風俗や衣装などをいくら真似ても、今の時代の高校生となんら変わらない。普遍性を描くと言うのとは、別の次元なのです。

教師の描き方も底が浅いです。鉄拳教師・嶋田久作は、問題ばかり起こす
ケンを目の敵にしますが、推測するに1930〜35年くらい生れの設定のはず。戦争を前後して、物の尺度や価値観が一変してしまい、その上戦後の復興に苦労した世代のはず。岸部一徳は、若い頃肺病の手術を何回もした、
とセリフに出てくるので、そのことから戦争には借り出されなかったはずです。友人が出征していく中、きっと後ろめたさや安堵、葛藤など色々あったと思うのです。その辺の描写がいっさいないため、ただの暴力教師や少々腑抜けだが物分りの良い教師としてしか写らず、映画に深みを加える絶好の人物だっただけに、残念です。

嘘から出た誠のように、アダマだけが思想的に変貌していく様子が伺えますが、それも浅く描くだけで、またもや「面白ければ良い」ケンの登場で、学生運動は全て口先ばかりで何も出来なかったの如くの幕引きの仕方。これはちょっとなぁ。結果論として日本の学生運動は、負の遺産が多いと思いますが、当時真剣に国を案じ愛するからの行動であった人もたくさんいらしたはずです。今は平穏に中年から初老を迎えている方々に、あまりにも冷たい描き方です。

主演の妻夫木聡と安藤政信は、今年24歳と29歳になる立派な青年で、いつまで高校生役をやらすのかとこれも疑問。彼らの演技自体には問題はなかったですが、共に数少ない一般的な娯楽映画でお客を呼べる人気俳優です。
もっと今の彼らにあった作品に使わないと、いつの間にか飽きられてしまうこともあるでしょう。製作側は、安易なキャスティングをしないでもらいたいです。

いっぱい苦言を書きましたが、どれもこれもほんの一ひねりすれば、作品の格とコクがグッと上がって、青春映画の名作になったのになぁと残念です。
多分私の疑問や悪しき感想は、村上龍の原作を読めば解消されるかと思いますが、映画はあくまで映画での出来が大切だと思います。付加価値を原作に求めるのは、私は好きではありません。1961年生れの私の感想はこんなもんですが、年代が違うと、又別の感想になると思います。他の年代の方の感想が聞いてみたい作品ではあります。




2004年07月10日(土) 「毒婦高橋お伝」(チャンネルNECO)

新東宝と言う映画会社の名前をお聞きになったことがおありでしょうか?
戦後の1950年前後に、東宝で契約やら何やで映画が作れなかった時、
何でも良いから映画が作りたい!という動機で作られた映画会社が、新東宝です。初期の頃は、溝口健二の「西鶴一代女」など、格調高い名作もありますが、カルト的人気を誇るのは、1962年の倒産までのラスト5年に作られたエログロ作品です。この「毒婦お伝」は、新東宝を代表する美人女優・
若杉嘉津子主演の作品で、格調高くもなくエログロでもありませんが、一人の悪女の深情けを描いて、世話物として魅力的な作品です。

明治の初頭、毒婦と称され今で言うところのマスコミの餌食となり、斬首刑された高橋お伝がモデルですが、殺人を犯した部分は本当ですが、筋は大幅に脚色しており、観客がお伝の心に感情移入し易く作られています。

放蕩者で身代を潰した前の夫に三行半をつきつけ、今のお伝は士族の出ながら肺病のせいで落ちぶれてしまった夫と、貧乏長屋で二人暮しです。前夫との間には、可愛い盛りの娘がおり、前夫の元に置いてきた娘がいつも気がかりです。今のお伝は、夫に内緒でスリや万引きの品を換金して生計を立てており、万引きを見つけられた巡査を色仕掛けでたらし込むは、万引きの尻尾を捕まれた宝石店の店主(丹波哲郎)には、警察へ引き渡す代わりに裏で人身売買をしている片棒を担がされ、美貌なため半ば強引に情婦にまでされてしまうはで、したたかに生き抜いています。

しかし鉄火な印象を受けても、彼女からあばずれだとか汚れた印象はあまり感じないのです。お伝は夫に男出入りを疑われ、髪の毛を引きずられても夫の体を心配し、献身的に看病し、決して邪険に扱うことはありません。前夫の放蕩には三行半を突きつけても、病気の今の夫が甲斐性がないことには、不満である素振りは見せません。そして置いてきた娘に心を馳せる表情は、身を切られる思い出あろうことがわかります。

これは筋立てもありますが、演じる若杉嘉津子の魅力に他なりません。とにかく美しいのです。付けまつげをした白塗りの芸者風のメイクが陶器のような肌に映え、当時では珍しいくっきりした目鼻立ちは憂いを帯びた表情を何度も見せ、バタ臭くささではなく堅気でない女の艶や仇っぽさを感じさせ、悪女の純情や深情けを演じるにうってつけでした。

宝石店の番頭がお伝に横恋慕し、彼女の夫を殺害します。それを知った店主は番頭を殺害。お伝はとうとう人殺しにもかかわることとなります。万引きの一件以来、お互い本気で愛し合うようになった巡査にお伝は捕まりますが、「私のお腹にはあなたの子が・・・」と嘘をつき逃げた後、置いてきた娘を引き取り今度こそ堅気になろうと娘の所に駆けつけたお伝ですが、元夫が病気の娘をほったらかしにしたせいで、娘は死んでいました。

騙した恋しい巡査にお伝は置手紙を残すのですが、「私のことは早く忘れて、どうぞ御出世あそばされ。」で結ばれた手紙の内容のあまりの女心の切々とした哀しさに、私はしばし感動。古い邦画を観る時良く感じることなのですが、情緒を感じる響きや暖かい情感、日本語とはなんと素敵な美しさを持つ言葉なのだろうと、この手紙からも感じました。

横浜の異人街へ逃げたお伝は、今は宝石店店主から表は酒場、裏は人身売買の組織を束ねるようになった情夫と富と権力を握りますが、彼女に許しを乞いにきた元夫に情夫の殺害を依頼。相打ちのように死んでしまった二人に、
お伝は「やっと復讐出来たよ・・・」と亡くなった娘につぶやきます。
逃げようとした時、あの巡査が現れるのですが、彼に似つかわしい傍らの婚約者を見るや、心とは裏腹に「私が好きなのはお金だけさ、あんたなんか好いちゃいないよ!」と啖呵を切り、あげく警察に捕まります。

江戸時代の名残を残す町並みや家、中国風のモダンな屋敷、豪華な調度品など筋以外にも見所があり、モノクロ作品であるのが残念なくらいでした。
美術は黒澤治安で、同じ新東宝、監督も同じ中川信夫作、若杉のお岩さんの「東海道四谷怪談」も担当していた方で、「四谷怪談」はカラー作品で、絢爛たる様式美と色彩を魅せてくれていました。新東宝は低予算作品が多いと言われますが、その他の作品もセンスや工夫でとてもそうだとは感じさせません。お金がなきゃ人間工夫するものですね。たくさんお金がかかっても、大味な作品が多い今の作り手は、肝に銘じると良いのではないでしょうか。

恋心、母性、恵まれた美貌がもたらす悲劇など、女性特有の感覚と、それとは対極な殺しや犯罪をくっきり対比させながらも、生身の女の体臭と言うリアルさではなく、ひたすら情に訴える演出で、お伝に共感出来るように作られています。昔祖母と観た、大衆演劇を彷彿させるような作品です。
特筆すべきは、こんなに楽しませてくれてたったの74分!本当に無駄がないです。洋画と比べて邦画はダメだとお思いの方も多いと思いますが、騙されたと思って、一度好みの合いそうな古い名作邦画を観てください。きっと誰かに薦めたくなりますよ。


2004年07月05日(月) 「スイミング・プール」

7月1日の映画の日は、心斎橋シネマ・ドゥまで
フランソワ・オゾンの「スイミング・プール」を
観てきました。同じオゾン監督、シャーロット・ランプリング
主演の「まぼろし」は、世間の高い評価にもかかわらず私は大玉砕。長年連れ添った夫の死が受け入れられずにいる妻の心がテーマの作品でしたので、結婚生活の長い私は、とても期待していたのですが、主人公は見かけこそ同年代の女性より美しかったですが、頭の中はてんで小娘で、私のように仕事に家事に3人の息子たちの子育て、家計のやりくりにと息つく間もなかったどすこい主婦にはとても頼りなく感じ、夫を亡くした喪失感も、なんだか頭がお花畑の感じで、とても共感できず姑とのバトル場面は、あんたなんかお義母さんに口答えするのは百年早いわと思う始末。

それでも何故またオゾンに挑戦したかと言うと、ひとえにランプリングに会いたかったからです。
ランプリングと言えば、忘れられないのがリリアーナ・カバーニ作の「愛の嵐」です。その他の作品でも退廃的でミステリアスな魅力を振りまき、ジクリーン・ビセットと並んで思春期の私の憧れの人でした。
今作では「まぼろし」では感じられなかった、昔とは違った今の彼女の魅力が満喫出来ました。

中年のスランプ気味のイギリスのミステリー女流作家サラは、馴染みの出版社社長ジョンから、自分のフランスにある別荘に行ってバカンスを楽しんでこないかと誘われます。この二人、どうも以前は男女の関係があったようで、サラはまだ未練があるようですが、ジョンの方は、段々売れなくなってきたかつての流行作家を持て余し気味で、ビジネスの相手と割り切っているようです。

別荘に着き、のどかで新鮮な風景に触発され、進まなかったサラの筆が俄然運び始めた頃、ジョンの娘ジュリーが現れ、彼女も滞在すると言うのです。聞いていなかったサラは気分を害し、ジョンに連絡を取ろうとするのですが、何故かいつも取れません。奔放なジュリーは、毎晩のごとく違う男を引っ張りこみ、乱痴気騒ぎを繰り返し、サラの静かできちんとした生活をかき乱します。
しかしジュリーの奔放さに付き合っているうち、作家的好奇心に駆られた彼女は、ジュリーを題材にして小説を書くようになります。

前半のサラは、中年でなはく頑固で偏屈な老女のようです。自分は「マダム」と呼ばれるに相応な成熟した大人の女と、気取ってポーズを取っても、砂漠に何日もいるような、パサパサに乾燥した味気ない女性として映るのに、後半ジュリーの一挙一動も見逃さじとなる頃には、たとえ食事の仕方がモグモグ・ガシガシ、まるで怒りを料理にぶちまけているような様子で、醜悪そのものでも、何故かクスクス笑ってしまう愛嬌があるのです。
内に秘めていたであろう彼女の欲望・願望が、ジュリーに触発されて露になるにしたがって、そんじょそこらの小娘では太刀打ち出来ない、エレガントで芳しいヨーロッパ女性の理知的で官能的なセクシーさを振りまきます。

ジュリーに扮するのはリュディヴィーヌ・サニエ。
グラビア以外の彼女を観たのは始めてでしたが、小柄な体がスクリーンを突き破ってしまいそうなほど魅力的。キュートでセクシーなのですが、少しだけ病んだような、退廃的な雰囲気がさすがはフランス娘、スパイスのように効いています。全編納得出来るシーンも意味ないシーンも、脱いで脱いで脱ぎまくっていますが、幼さの残る顔とアンバランスな豊満な肢体で、とても美しいです。とっかえひっかえ男をくわえこむふしだら娘なのですが、汚れた感じより、寂しさを男性の体で紛らわしているように観客には観えるのは、ひとえに彼女の愛らしさと品の良さでしょう。声がハスキーなのに甘く、私は昔懐かしのダニエル・ビダルの歌声を思い出しました。

今作ではランプリングも、今年59歳とは信じられないフルヌードを披露しています。肌の肌理も細かく、シミ一つ無い肌は20歳以上若く見えるのですが、サニエのヌードに小さい傷やほくろが見えたのに、あれだけ何もないとさすがに不自然な気がします。CG処理したのでしょうか?生のままなら素晴らしいし、たとえCG処理したのにしろ、40前のナオミ・ワッツが「21グラム」で、夫と子供を亡くしたばかりのジャンキー女性の内面を的確に表現するのに、シミのある肌をさらすのとは訳が違い、それは中年女性に対しての敬意ではないかと思われます。この年代の女性が、内面も外面も全て露出するのは、どうしても醜悪な印象を与えます。隠すところ、誤魔化すところの肝を押さえるのも、美しく老いる条件ではないかと思います。

ラストで、あぁー!そうだったのか・・・と悟らせるような仕掛けがあるのですが、容姿に恵まれたと言い難い「ジュリア」を見たサラの、
少し勝ち誇ったような微笑は、彼女の後ろにいる母親への優越感と見えたのですが、深読みかな?

スイミングプールは、女性二人の心身をさらけ出し、ストーリーの芯の部分に常に絡んでくる場所で、同じ泳ぐのでも海でなくプールと言うのが、観たあとなるほどーと、にんまり納得。お洒落でミステリアスな女性映画でした。それにしても、女としてのスランプも、書く事によって脱出するなんて、作家の業とはすごいもんだと思います。





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