♀つきなみ♀日記
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2005年04月29日(金) 今、思い出す「神の国発言」時のマスコミ、ちょっとだけ。

ってことで、長い方は10連休の初日、いいお天気に恵まれて、如何お過ごしでしょうか?行楽の予定も無くて、やっちゃわないといけない仕事を抱えて、どんよりのつきなみ♀です。って、先送りにしている自分が悪いんだけど。

やっと沈静化してきた、反日デモから始り、対立を煽りまくる報道が目立った、中国・韓国VS日本関連の報道なんだけど、いつからマスコミは「日本」って国と政府を同一視するようになったんだろうね。

今回の煽り報道に共通していたのは
「小泉首相は陳謝した」→「納得しない中国・韓国」→「村山談話でも責任を認め遡って陳謝していて、今回も再度陳謝している」→「行動が伴わない陳謝は意味が無いという中国・韓国」→「だったら、どないせいいうねん?お前らも、人権侵害したり、悪いことしとるやないか、ワレぇ?」

って感じなんだよね。

誤解があるといけないので、断っておくけど、今回の対立での中国・韓国の対応を良しとするものではないし、普段から日本という国を想い、歴史を見つめるところから意見を持つ方達に異議を唱えるものでは一切無い。

私が思い出すのは、森首相の「神の国発言」の時に、マスコミが取ったスタンスと、今回の問題の際のスタンスに、余りにも距離があって唖然としたんだよね。

私の日記の過去ログだと
2000年5月15日 森首相のしんきろう発言
2000年5月17日 神道概説
2000年5月20日 三社祭断固反対!/ガンバ/ジプシーキングス/エリート教育

辺りで言いたいことは書いているので繰り返さないけど、すごく大雑把に括ると、

「過去の植民地政策を初めとする国の誤りは、神道を基にする右翼思想者と政治家とのせいで、他の国からそれを批判されるのは当たり前田のクラッカーbyてなもんや三度傘@主演は藤田まこと(古)」(田以下後半は冗談です)

というものだった。

それがなんで、今回は180度違う視点からだけ報道するのか、まったく理解に苦しむんだよね。

ふぅ。

毎度なんだけど、「意見」や「推測」を「事実」のように、些少な傾向を、あたかも全体であるように、一人の個人に対するインタビューを、何かを代表するように報道するやり方って、ほんといい加減止めて欲しい。

さて、ブランチ食べて、仕事しようっと。って、カップヤキソバなんだけど。

では、皆様、良い休日をお過ごしください!






テキスト庵

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2005年04月21日(木) 今日は天一坊さまの命日ですね@歴史認識など

ってことで、連休に、なんの予定も無いつきなみ♀です。って草鞋の一足が重くて、せっかくの美しい足が太くなっちゃうよ<=前からです。

それはともかく、1729年(享保14年)の4月21日、将軍吉宗の御落胤(ざっぱに言えば隠し子みたいなもの)として、天一坊を名乗っていた人物が、偽者と断定されて、処刑されたんだよね。

と言っても、時代劇に興味の無いひとはピンと来ないかも知れないけど、

てんいちぼう〔テンイチバウ〕【天一坊】
[(?〜一七二九)]江戸中期の僧。通称、改行。源氏坊天一と名のり、徳川家の一族と称して世間を騒がせて処刑された。大岡政談と結びつき戯曲・講談などに脚色された。

Yahoo!辞書 大辞泉

講談・歌舞伎などの登場人物。徳川吉宗の落胤(らくいん)と偽って捕らえられ、獄門に処せられる。山伏、源氏坊天一の同様の事件を大岡政談に付会したもの。のち、歌舞伎「扇音々大岡政談(おおぎびようしおおおかせいだん)」などに脚色される。

Yahoo!辞書 大辞林

ってぐらいで、辞書にも載っていて(説明の正誤は別にして)、河竹黙阿弥の通し狂言「天一坊大岡政談」(明治8年新富座初演。 5代目菊五郎が天一坊を演じる)は、歌舞伎の演目としても名高い。

現在も版を重ねる本としては、柴田 錬三郎さんの「徳川太平記―吉宗と天一坊/集英社文庫 ISBN: 4087475999 )があるし、TVドラマだと大岡越前物のクライマックスとして必ずと言っていいほど登場する。

えがき方は色々なんだけど、徳川吉宗-大岡越前-天一坊は、大衆演劇では当たり前のように一対になっていて、ごく普通に暮らしている、時代劇ファンのお年寄りは、歴史の事実を基に作られた話しだと思っていて不思議はないんだよね。

じゃ、実体はどうかと言えば、少なくても天一坊の捌きをしたのは、大岡越前さんじゃなくて、勘定奉行時代(1723-1731在任)の、稲生正武(下野守)なんだよね。

じゃぁ大岡越前は当時何だったかと言えば、南町奉行(1717-1736在任)なんだけど、直接裁いたのは、稲生正武なんだよね。何故かといえば、天一坊が腰を据えていたのがは品川で、当時はこの場所を管轄していたのは、関東郡代所で、江戸町奉行じゃないんだよね。そして郡代の上級役が勘定奉行だ。

ちょっと話しは逸れるけど、勘定奉行っていうと時代劇では、なんか賄賂をもらってばかりいる悪人のポストで、「勘定」って語感から、今の経理部長って言うか、銭の元締めみたいな印象ばっかりなんだけど、江戸時代の「勘定奉行職」は幕領の貢租の徴収、訴訟の取扱、幕府財政の運営に当たっていた。

そして、1721(享保6)年の享保の改革からは、勝手方と公事方に分離され勘定所の職制が確立したわけで、正式に「奉行」となったのは享保8年、つまり稲生正武からなんだよね。ちなみに、これ以降勘定奉行は、勝手方・公事方各2名が月番で執務するから、常時4人の体制になって、そうそう越後屋に、「お前も悪じゃのぉ、ふっふっふ」なんて汚職してる訳にはいかない(奉行名は元禄説あり)<=おい!

天一坊の御落胤としての真贋はともかく、史実としては評定所で大岡越前が耳にした可能性はあっても、裁定は勘定奉行⇒関東郡代で、処刑された。

じゃぁ、なんで大岡政談になったかと言えば、演劇と講談で庶民に伝播したのは勿論だけど、明治29年に発行された「帝国文庫」に収録された16編の大岡政談に因る処が大きい。

有名なところでは、正直者同士が落として拾った一両の金を、どちらも譲って受け取らないので、越前さんが一両足して、二人に持たせ「三方一両損」とか、どちらも本当の母親だと言い張る二人に、子供の手を引っ張らして勝った方が母親だと言い渡し、痛がる子供に思わず手を離してしまった方に、軍配を上げる話しなんかがある。これは落語の「大岡政談」としても有名だ。

ただこの大岡政談の中で、史実や記録を追う限り、実際に大岡越前守さんが裁いたのは、「白子屋お熊」と題された一件だけというのは、ほぼ定説になっている。

大岡越前さんの場合は、いい話なのであんまり弊害は無いんだけど、捌きを取られたのが歴然としている、稲生正武の名前を知る人はあまりいない。

小説、大衆演劇、現在であれば映画やTVで繰り返し刷り込まれる、そして、それが別の話でも、背景が共通していれば、あたかもそれを事実や史実のように思い込んでしまうのは、過去から繰り返されてきた、誤りのような気がしてならない。

歴史は、一つの事実があっても、それをどのような視点で見るかで、一秒後には視点の数だけの捕らえ方が生まれる。

ましてや事実が確定できない場合には、立ち居地によって、数え切れない解釈と憶測に立脚する促らえ方が無限に増殖してしまう。

一つ一つを丹念に掘り起こし、事実は事実として、考えは考えとして積み重ねるところから、歴史認識は始まるのだと私は思っている。

なんちゃって<=おい!

天一坊さんの実体が残るのは、「享保14年酉四月二十五日御沙汰書」と言う幕府の公式記録で、傍証としては「徳川実記」や「享保日録」が上げられるが、それは幕府側からみた記録であって、今の私が断言できるのは、大岡越前守が裁いた事件ではないと言うことだけだ。

本当に稀代の詐欺師であれば、今でも名前が残るだけで満足しているかもしれないとは思うのだけれど。

ってことで、じゃ、またね。


テキスト庵

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2005年04月16日(土) 素晴らしき戦争・遠すぎた橋、そしてガンジー@私のアッテンボロー

私はアッテンボローが好きだ。と言っても、銀河英雄伝説のことではない<=おい!

って、実はそっちも好きなんだけど、そっちだとやはり疾風ウォルフこと、ミッターマイヤーさまの方が好きかなぁ。なんちゃって。

それはともかく、サー・リチャード・アッテンボローは私が紹介するまでもなく、イギリスの大俳優兼監督で、アカデミー賞は1982年「ガンジー」で監督賞と作品賞をはじめ8部門で受賞している。もちろんこの作品は制作も彼だ。

1969年の監督デビュー作である「素晴らしき戦争」は、反戦を掲げたミュージカルで、興業としては決して成功したとは言えない。それどころか、一部からは痛烈な批判を浴び、ほぼ固まりつつあった、名優としての評価さえ危うくする、実験的な作品でもあった。

第一次世界大戦を舞台としたこの作品で、彼は戦場の狂気と、戦争を遂行する国家の狂気を炙り出す。

当時のイギリスは志願兵制度を採っていて、戦争を遂行するためには、まず志願者を確保する必要があった。正義を語り、国全体を祝祭の色に染めてゆくプロパガンダは多少誇張されてはいるものの、国家が何かの目的のために、全力を挙げて世論を誘導し形成していく一つの典型をみることができる。

そして熱狂に巻かれ、それに応募し、戦場に向かう人々を、後世の安穏な位置から、愚かだと責めることは容易い。しかし、彼らは愚かだっただけなのか?

この映画の原題は「OH What a Lovely War」という。

「遠すぎた橋(1977年)」は、第二次ヨーロッパ戦線における連合軍逆上陸後の、ドイツ軍が勝利を収めた、あるいは収めかけた二つの大きな作戦の一つ、「マーケットガーデン作戦」を題材に採る。

もう一つは、大戦末期の最期のドイツ軍の反抗である「アルデンヌ反攻戦」で、こちらは「バルジ大作戦」の題名で、大型戦車の攻防戦として、ケン・アナキン監督によって、1965年に映画化され、興業的にも成功を収める。結果としては、この作戦はドイツ軍の敗北に終わるのであるし。

「遠すぎた橋」は、ノルマンディー上陸作戦の3ヵ月後、空挺師団を投入し、無謀な敵陣深攻作戦を採ったために、連合国側の惨敗に終わった、ある意味忘れたい戦闘でもあった。しかし、アッテンボローはこれを監督する。

日本でこの映画が公開された時のキャッチは「世界8大スター競演!本格戦争巨編。史上最大の作戦を凌ぐ、制作費と迫力!」であった。確かに当時売り出し中で、人気沸騰のハリウッドきっての若手俳優、ロバート・レッドフォード、そして、ライアンオニール。円熟期にかかった、ジーン・ハックマンとショーン・コネリー、そして英国の至宝、ローレンス・オリビエ、ドイツからはマクシミリアン・シェルと、名前だけで充分集客が可能な俳優が並ぶ。

作品としての評価は、置く。

原作の中から、アッテンボローは敢えて、戦争の矛盾の部分を抽出していく。

現場の現実を見ようともしない司令部。作戦の遂行だけを督促し、変化に対応しようとさえしない、本国の総司令部。

あまりの無謀に呆れ、後方にある総司令部の無能を斟酌し、現地の指揮官に対して戦闘の無意味を説いて、停戦を勧めるドイツ軍司令官。

不利が歴然としてきたときにさえ、保身を考え、いかに見せかけの戦果を残せるかに呻吟し、無駄で無意味な戦闘を督促する後方司令官。

作戦は、わずか9日間の内に、連合軍側の戦死、戦傷、行方不明者は1万7000名以上を数え、戦闘地域で生き残った殆どの将兵は捕虜となって幕を閉じる。

そして、総指揮官のモンゴメリー将軍からの訓電は「この作戦は90%成功した」であり、題名にもなった

「我々は、少し遠すぎた橋にいっただけだ」

に帰結する。

「ガンジー(1982年)」は私が引くこともなく知られた映画だ。彼は、“偉大なる魂"と呼ばれ、暴力を否定し、徹底した無抵抗主義でインド独立運動を指導し成功させた、マハトマ・ガンジーの波瀾に満ちた生涯という難しい題材に、制作・監督として正面から取り組み、成果を残す。

それぞれの作品に、あたりまえだが様々な人々が登場する。

彼は、常に登場人物をステレオタイプ化することが無い。どんな、奇矯な偏狭な、敵役の人物にも背景があり、暮らしがあり、所属する場所がある。個人から描写することで、組織の意思が誤っていることや、尽くそうとするベストが誤っていることが、浮き彫りになっていく。そして、そのために翻弄されてしまう、同じ国に、同じ組織に属する多くの人々。

私は、「人」を集合名詞で語ることに疑問を感じることがある。ましてや、「○○人」国家としての「○○」を一括りにして、侮蔑や嘲笑を浴びせることに生理的な嫌悪感があるし、それをしてしまうと、本質からどんどん遠ざかってしまう気がしてならない。

そんな時、私はまたアッテンボローの映画を見る。

そこには、翻弄されながらも、自分であろうとし続ける、多くの人々がいるから。


テキスト庵

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2005年04月15日(金) 献血供給事業団とは何か?@輸血用血液、2度の到着遅れ

やっと初任研修も終わったけど、花見にも行けなかったつきなみ♀です。でも、花粉症が少し楽かなぁ、ぐらいが唯一の朗報っす。皆様、10日間のご無沙汰でした。

それはともかく

輸血用血液、2度の到着遅れ…献血供給事業団で先月
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050415-00000205-yom-soci
Yahoo newa(読売新聞) - 4月15日13時36分

って記事で、ざっぱにまとめると、病院から緊急に血液を送って欲しいって連絡があったのに、1件は搬送職員が居眠りをしてて、届かなくて、もう1件は、製剤を誤って運んだって間抜け以前の問題なんだけど、じゃ、献血供給事業団っていったいなんだんねんって事なんだよね。

「事業団」名前自体が、なんだか元々省庁の部局か、日本赤十字社の外郭団体かなんかが、独立法人にでもなったんじゃっないかって、誤解を与えるけど、これがまた、例によって、「公益法人」と呼ばれる財団法人さまなんだよね。

しかも、この「献血供給事業団」ってのは、筋金入りって言うか、設立時点からある意味日本の「公益法人」あるいは、政治権力がらみ法人の代表みたいなもんなんだよね。

前提として断っておくけど、職員さんたちは使命感に燃えて奉職されていらっしゃる方も多いと思うし、現在は東京大学との共同研究となっている、臍の緒っつか臍帯血研究に道を開いた研究者様達には敬意を払うことにやぶさかではない。研究費は正論だけじゃ、確保できないのは私も同じだし。

でも、やっぱへんてこりんなんだよね。

東京で暮らしていると、献血供給事業団の緊急車がサイレンを鳴らして走っているのを見かけたことのある人も多いと思う。早い話が、手術等に必要な血液や血液製剤を医療機関に届けるのが一番の仕事なんだけど、じゃ、他の都道府県はどうかと言えば、これは日本赤十字の血液センターがやっているんだよね、ほとんどは。

はぁ?って思われる方も多いと思うけど、献血供給事業団は配送を赤十字から受託している構造になっているんだよね。

じゃ、何時からかって言うと、私が生まれるずっと前の、

昭和42年財団法人献血供給事業団設立・専務理事・名誉理事長・理事長を経て平成2年7月会長就任

って某国会議員さまの経歴に、燦然と輝く記載ある、

じゃ、某さまはどなたかと言えば、自由民主党群馬県連合会会長にして、衆議院議員群馬二区を地盤にする、笹川尭(たかし)先生なんだよね。

じゃ、笹川尭さまって何者かって言えば、前のモーターボート連合会&日本船舶振興会(現・日本財団)の理事長にして、日本のドンと呼ばれた、笹川良一様の御子息様なんだよね。ちなみに、そのまた息子の笹川よしひろ氏は41回、42回の衆議院選挙で連続落選してる。って関係ないけど。

そして、弟の陽平氏が現在の日本財団の理事長なんだよね。

献血供給事業団自体も、笹川尭先生の選挙がらみで、1995年には派遣していた政策秘書に支払っていた給与が、笹川事務所の経費に流用されて新聞沙汰になり、その際に、過去の選挙まで遡って、職員を選挙に派遣常駐させ、交通費やめし代まで、経費で支出していたことがばれて、大騒ぎになった。

ちょっと、今の感覚だと、そんなことがあった財団が、実質創立者の理事長様が交代することもなく存続していること自体が奇異なんだけど、それを言うなら、競艇の売上を文句も言わせず3%吸い上げている日本財団の理事長が、世襲だってとこで、何をかいわんやではあるんだよね。

ふぅ。

だったら、せめて、世間に頭を低くして、今回みたいな問題を起こさないように、せめて受託している業務をしっかりしておきゃ、以前のことまで思い出す奴はいないのに、これまた、今回が最初じゃ無くて、去年も遅配や誤配が頻発して問題になってるんだよね。

ハッキリ言えば、この財団の職員さんは2分してしまっている。使命感のある人達と、政治がらみの坊ちゃん嬢ちゃん採用者に。

成り立ちはともかくとしても、ここが大きな問題になってきていて、人命に関わる信じられない問題を頻発するようになっちゃてるんだよね、現実問題として。

う〜ん、この事ももう少し書きたいんだけど、今から懇親会なんで、次の機会に。

じゃ、またね!






テキスト庵

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2005年04月05日(火) ランドセルと黄色い帽子

何組かって、お知らせが来た日に
私はせがんで、すぐに名札に書いてもらった。

皮の香りがほのかにするランドセルにも
1年3組****の名前を入れてもらって
真新しい学習机の上には、
教科書や文房具やいろんな新しい物が並んでいて
まだ知らない、楽しそうなことが溢れていた。

幼稚園のときとは形の違う
黄色い通学帽子にも名前が入って
だめだよって言われていたのに
折れないように、皺が付かないように
セーターの背中に隠して、こっそりでかけた。

横丁の角を曲がって、後ろを振り返り
そっと取り出して、帽子をかぶってみる。

もう小学生なんだなって嬉しくて
スキップしながら、本通りへ向かう。

顔見知りの人に会わないかなぁ、
あったら、もう、小学生なんだなって
思ってもらえるかな、なんて
弾む気持ちで、本通りに出る。

ガーッて、大きな音がして、
目の前を大きなダンプカーが通り過ぎ
風に巻かれて、ゴムひもを顎にかけていなかった
大切な黄色い帽子は、飛んでいった。


しゃくりあげながら、汚れてしまった帽子を持ち
叱られるだろうって思いながら、玄関に立つ。

帽子を見て、私を見て、母は何も言わずに
抱きしめてくれた。



入学式の日、ランドセルを背負って
手を大きく振って、家を出る。
洗ってから糊をつけたので少しカパカパになって
色も薄い帽子を、私は、かぶっていた。

幼稚園児の私なら、みんなと何かが違っていたら
きっと恥ずかしくって嫌だったけど
その時、嫌じゃないのが、なんだか嬉しかったことを
思い出した。





テキスト庵

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2005年04月04日(月) 玉虫激怒!!ぬえ狂乱!!郵政民営化法案

ってことで、二足のワラジの一足の方が年度始めで、もう一足は新入◎員研修担当で、いつもはピチピチで元気ハツラツ〜なんだけど、さすがに疲れ気味のつきなみ♀です。

今日の夜のニュースは、TVもラジオも、郵政民営化法案の政府案を取り上げて「玉虫色」「鵺のような」って言葉のオンパレードなんだよね。

それはともかく、玉虫と言えば、教科書で多くの人が覚えている、法隆寺の「玉虫厨子」を思い浮かべるんじゃないだろうか。

須弥座は宣字形で、その上に単層入母屋造の宮殿が安置される厨子の、宮殿部の縁を飾る透彫金具の下に玉虫の羽が敷きつめられていて、現在は金銅菩薩立像が安置されているんだけど、作成時には釈迦三尊像だっと言われている、飛鳥時代から伝わる国宝だ。

昭和20-30年代生まれだと、異色の童話作家、平塚武二さんの「見たことがありますか、玉虫の厨子の物語」を国語か、道徳で読んで憶えている方も多いかもしれない。

玉虫は甲虫目タマムシ科に属する昆虫なんだけど、上翅(じょうし:かたくなった前翅(まえばね)で、翅鞘(ししょう)ともいう)が、光の当たる角度によって、色を変える。

緑色から赤交じりの紫色までに変わるその羽を、厨子に張りめ、作成当時の美しさは想像のしようも無いほどであったと思われるんだよね。

実際に玉虫を見たことの無い人も、あるいは国語や道徳で習わなかった世代は、中学日本史の教科書の過半には、飛鳥芸術の真髄として、この「玉虫厨子」を知り、「玉虫色」の感覚を憶える。

じゃぁ、「ぬえ」は漢字だと「鵺」って書くんだけど、こりゃなんじゃろって言えば、ちょうど、NHKの「義経」で、丹波哲郎さんが渋い演技を見せ、登場中の山場を迎えている、源三位頼政が退治したとされる、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎、声はトラツグミに似るという妖力をもった怪獣なんだよね。

って、今でもこんなへんてこな名前が、普通に知られているのは、世阿弥さんが作った謡曲に、この話が登場してるからと、最近では、角川映画のご存知、横溝正史さん原作の「悪霊島 (1981) 」の宣伝キャッチコピーで「鵺の鳴く夜は恐ろしい……」てのが使われたので、’70代生まれの私もぼんやり記憶にあったりするんだよね。この金田一耕助さんは、料理の鉄人の鹿賀丈史さんだ。石坂浩二さんは東宝版なんだよね、って関係ないけど。

この二つの言葉は、(すべて大辞林@この辺の書き方は好き)

「玉虫色」
解釈のしようによって、どちらとも取れるあいまいな表現。

「鵺」
つかみどころがなくて、正体のはっきりしない人物・物事。

ってことで、笑っちゃうのは用例として「政界の鵺」 「玉虫色の改革案」って書いてあるんだよね。

でも、今回の郵政民営化法案は、きっと今までは苦笑しながらも、表現を許していた玉虫は激怒し、鵺も狂乱する程、欺瞞に満ちていて、最終的に政府、そして自民党、そして今、権力や財力を握る人達が、この国をどう導こうとしているのかが、ハッキリ出てきているのを、ごまかしと、先送りにすることで、自分達のブロックの利益を守ろうとするものだと言うことがハッキリしてきている。

詳細については、あまりにも多岐に渡るので、一つずつ書いていくことにするね。

って事で、25時過ぎたんで、今日は長い前振りってことで<=おいっ!

じゃ、またね。





テキスト庵

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2005年04月01日(金) 木蓮

木蓮が咲いている。

乳白色の花が
ちょうど西へ沈む下弦の月のうてなに乗って
久しぶりに冷え込む空に
浮き立っている。

生まれ育った家の近所の庭にあった木蓮も
やはり白い花を咲かせていて
私は長いあいだ
木蓮と言えば、純白で清純な印象を強く持っていた。

ちょうど20才の春に
玉川園から少し川沿いに入った
瀟洒な一戸建てのレストランで
食事をする機会があった。

私はまだよく男を知らなくて
そして女にはなっていなかった。

パウダールームで鏡に写る私は
耳触りの良い言葉と少し飲んだお酒で
頬が少し上気していた。

化粧を直して席に戻る時
右手の一枚ガラスの向こうの中庭に
闇に溶け込む紫暗色の花があった。

それは見慣れた形なのだけれど
月明かりの中で例えようも無いほど妖艶に見えた。

木蓮という名の花が、
白い花だけではない事が
何故かとても恐ろしかった記憶が
未だに残っていたりもする。



テキスト庵

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