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2004年03月27日(土) 最後の週末

昼前に、お給料を受け取るため四季へ。1週間と過ぎていないにもかかわらず、店の中やキッチンの人たちの顔ぶれが懐かしい。すぐに帰るつもりだったけれど、けんじさんが何か作ってくれるというので、昼食を頂くことにした。鮭定食+私の好きなものばかりが豪華に出された。感激。アキコさんと久々に会話。帰る前にまり子さんがやってきた。連絡先を知らせる。夏に日本に来るそうだ。名残惜しさをあらわにしながらお礼と、お別れの言葉を告げる。きっとまた来るでしょう。

最後の週末。ルームメイトも、友人も、いつもの週末と同じように過ごしているようだ。私にとっては、今までにないほどに時間がゆったりと過ぎてゆく。特別な週末なのだ。ティムのコーヒーとドアをノックというひそかな夢も叶った。最後だからこそできる、という場合もあるようです。



2004年03月23日(火) 歩く

眠りに落ちないように、そう長い時間ではなかったが窓の外の木々を見つめ続けてていた。少し目を閉じても、風の音に耳を澄ませ、呼吸をも合わせるように。そろそろ行かねばと、音を立てないように階段を下り、軋むドアをゆっくりと開ける。慣れたはずの冬ではあっても、深夜の空気はあまりにも冷たい。顔に氷の破片が刺さるような痛みを覚えたほどだった。家まで歩くこと45分。

今日はその後も、とにかく歩いて歩き回る一日になった。家からバスターミナルまで、図書館からアデレードのショッパーズへ、そこから家へ。アデレード−リッチモンド間などは、普通は人間が歩く距離ではないなどと思い込んでいたが、さすがに1日で2往復もすると、意外と家までは近いことが分かる。どこかに立ち寄るたびに読むための本と辞書がなければ、さらに短い時間で移動できただろう。

家に帰りたくないという理由のほかに、運動不足解消と、今後に備えての訓練の目的もあった。明日も続くことになる。3日と続くことはないと分かっている。


2004年03月20日(土) (箇条書き)

早朝に実家に電話。ルディたちと広島に行くという。そこに私がいないのはやはり不自然極まりない。空が光で一杯になったところで就寝。正午前、ルームメイトついに帰宅。この一週間は、まるで誰もいない日曜の午後のひらパーのようであった。まだ少し眠い。早めに家を出る。混雑したモールで春物の服と靴をいつもより時間をかけて選ぶ。そのままバイトへ。やはり眠い。どう頑張ってもマイペースを崩せない。比較的お客さんが多く忙しかったのが救い。完全に静止してしまう瞬間は来なかったから。Lisaを迎えにきたJuneた連れていたのはチワワ。本物に手を触れるのはもしや初めてではないだろうか。無条件にかわいい。毛は短くて体温が高い。おなかの辺りはむしろ熱い。思いっきり撫でて触って終始ご満悦。Thanks.


2004年03月17日(水) Can I come with?

徹夜明け。早朝に母と長電話してから、そのままソファで寝る。なかなか覚めない長い夢を見る。夢の中ではこれが現実だとあれほどまでに確信したのは初めてだといえるほど、鮮明でかつ「現実味のある」夢だった。醒めてみるまで夢だと気付くはずがなかった。まして、夢から醒めた今過ごしているこの時間も、いつか醒める可能性がないと、どうして言い切れようか。

新しいスーツケースを求め、ホワイトオークスへ。いざ現物を見て、大きさでやはり迷い、購入はもう少し考えてからということに。ウォルマートでイースターのチョコレートを大量に買い(大半は日本の友人のために)、コートの重さに疲れてきたところでバスに乗り帰宅。

徹夜作業は今日も続きます。

居ても居なくても同じだと思っていたが、全然違う。


2004年03月16日(火) 訂正

ターニャに会うためトロントに行こうかどうか迷っていたが、外の吹雪を見て、即断念。風邪は昨日よりは幾分良くなっている。天候と体調によって、明日の朝もう一度考えよう。トロントも、そろそろ最後になるだろうから。

昨日のイクチオステガの話だが、引用元はデイル・ドーテン著「仕事は楽しいかね」だった。また、正確には最初に陸に上がった動物が長期的な「目標」をもっていたかどうかと書かれていた。また、著者の言いたいところは結局のところ「試すことに失敗はない」とかいう内容で、数年の間に他の著作や格言等とが自分の中で混乱が起きていたようだ。誤った引用と解釈をしてしまった。


2004年03月15日(月) 気構え

風邪がさらにひどくなる。食欲は減退。見た目にもすぐ体重が落ちたと分かるほどになった。半月以内に回復しなければならない。それどころか、今後に備えて体力を強化する必要があるというのに。

何かを手にしたいと願ってはいても、目先の利益だけにとらわれ、新しい領域に進むことをためらってはいないだろうか。どこで読んだのかは忘れたが、最初に陸に上がった生物が今後の長期的な利益を考えて行動を起こしただろうか?と。要は何事も初めの一歩からという内容だった。NHkで数年前に生命40億年なんとかいうシリーズを放送していたが、ついその中でイクチオステガが水中から上陸する再現映像を思い出した。あれには感動した。それが一種の説に過ぎないにしても、何を思ってイクチオステガが発達していない手足で陸に出たかは知らない。しかし、一歩を踏み出す勇気こそがその先の未来を無限のものにするということは学べるだろう。人間に備わった、それこそ無限の好奇心と力を信じていれば、自分の枠を越えることを恐れる必要はない。

かつ、慎重さを忘れずに。


2004年03月14日(日) 小雨

窓の外に目を遣ると灰色の厚い雲が広がっている。家に誰も居ないことに気付く。ひどく鬱な気分になった。食欲は相変わらず減退したままで、読書も勉強も、映画も何をするにしても気分が乗らない。かなり早いが荷造りを始めた。

霧のような雨の降る中バス停へ向かう。目の前でバスを逃した。次のバスだとバイトの時間にはぎりぎりになるなと諦めながらダウンタウンまで歩く。ギャレリアの中で、バスを待とうと椅子に座りかけたとき、向うから誰かがやってくる。「えっと」誰だかわからない。続いて一緒にやって来たのはモリヒロ君だった。おそらくフェアウェルの時、バーで初めて会った彼女だろう。近況や今後の予定など含め、20分ほど話していた。久し振りのことだった。私がカナダを出る前にまた会う約束をし、バスへと向かう。バイトには余裕で間に合った。乗るはずだったバスは逃して良かったと少し思った。

昨日と同じように、静かに過ぎていった一日だった。


2004年03月10日(水) 郊外へ

早朝に目が覚める。半地下の窓から見える空はまだ暗かった。そのまま出かける用意。早く起きすぎたので当然時間が余る。家に電話する。今月中には帰ってくると思っていたらしい。実際のところいつ帰るのか、自分でもわからないのだ。旅路はまだまだ続く。

晴天。トロントへ。時間がないため珍しく地下鉄を利用。Highparkという、ブロアストリートをずっと西へ行ったところで降りる。地上に出るとすぐにHighparkという公園が見えた。葉を落とした木々が、あの日のセントラルパークを思わせる。住所の記憶違いから、逆方向に数ブロック歩いてしまい、緩やかな坂道だったせいか、その時点で予想外に体力を消耗してしまっていた。帰りに公園に寄ることは断念。目的とする某旅行会社でとりあえず手続きを済ませる。2ブロック東に、壁面にロシア語が書かれたコンビニのようなものを発見したがその文字だけを見た瞬間に拒否反応が起きる。動悸がした。読めない、わからない、いかに致命的なことであるか。

イートンセンターへ。買い物の目的は特にないので、いつもの通りマクドナルドで昼食を取り、Yves Rocherで友人へのお土産になりそうなものを適当に選ぶ。ブロアでの歩き疲れと、コートの重さで次第に疲労感が増してきたところでSEARS側から表のストリートに出てバスターミナルに向かった。散歩にはちょうど良い天気だった。地下鉄内にいた時間は長かったけれど。


2004年03月04日(木) 力抜け

フィルムを現像したが、ろくな写真が撮れていなかった。辛うじてアルバムに貼れそうなのはビクトリアパークのスケートの写真くらいで、それ以外はセンターがずれている、人物が小さすぎる、逆光、そして顔が気に入らない等の理由で、もう見る気がしない写真としてフィルムと共に封印されるところだが、他の写真とは違う思いが巡るのも事実。ピントがずれていても、笑顔がこわばっていても、その目に映っているのは確かな記憶。写真には写っていない、写真を撮った側の風景が浮かぶ。自分にしか見えない記憶として。

あいかわらず気分は沈んだままだ。いつもなら単純に感動していた春を思わせる風や、いつもと違う通りを歩いたときに聞こえる鳥の声にさえ、心を向ける余裕もない。いつもなら、心の中に大きなため息をつかせていた、ルームメイトの冷たい返事にも、反応する余裕はない。

「だから何だというのだ」。気抜け状態である。一過性のものであることはもちろん知っている。体調が思わしくないというのも原因の一つである。




2004年03月01日(月) give me some advice

昼を過ぎた頃に曇り空から雨に変わる。空気は生温かい。ここ数日は天気が変わりやすい。いっそ、空模様だけを書き連ねる日記にしようかと一瞬だが本気で考えた。冬は本当にもう戻ってこないのだろうか。

恋愛をしたことがなくても、恋愛小説は書けるというが、人にアドバイスする点でも、ある程度までは似ているのではないかと思った。根本的に人間関係における信心だとか慈悲が存在するゆえに、問題は恋愛に限ったことではないからだ。体験談というのはほとんど当てにならない。普遍的な恋愛論というのが存在しないように一つのパターンが誰にでも適用されるはずはないからだ。恋愛は生身の人間が複数関わってくるゆえにそのパターンはさらに複雑化・多様化する。小説は、基盤とする人間関係の上にあくまで自由な想像に徹すればいい、それだけの違いである。

他人の、まして私なんかの意見を聞きたがる、恋する人間達が未だに理解不能である。美しい恋愛小説のような物語を現実に求めているのだとしたら、その時点で自分は現実世界に生きている人間で、他人に作られた主人公でもないことに気付くべきだと言いたい。たいていは理想と現実のギャップに苦しんでいるだけだ。その理想とは何だ。自分は神でもなければ他人を操ることなど不可能である。要は、「愛している」のか「愛されたいだけ」なのか一度でも自分に問いただしたことがあるかどうかだ。あまりに単純すぎる結論である。


川村 |MAIL