heute
DiaryINDEXpastwill


2003年12月26日(金) 反省文を書く前に

後悔はせずとも、後に反省するだろうことは何故か自分でも気付いていた。どのように反省するのかははっきりしていなくても。やはり、その時一人では分かり得ないこと、後になってみないと気付かないことってある。

単に異文化理解の問題ではない。特に人間関係においては。そこで距離や立場はあまり関係ないと思う。他人との対話の中で、あるいは前提として、自分との対話が成り立っているからだ。他人や、異文化を完全に理解することは不可能だろう。可能なのは、最大限まで知ること。それは対話を通してしか知ることはできない。自分自身さえも理解するには他人との対話が必要なこともあり得る。おそらく自分の持っている認識のほとんどは、他人と向かい合うことで得られたものだろう。


2003年12月21日(日) クリスマス直前 ― so what?

日曜の始まりは最悪だったのである。解決したはずの問題が、また新たな形で姿を現す。それは常に、予想し得ないものである。もう、遅い。どんな慰めに似た言葉も、一見事実らしい言葉も、効かない。今現在の私の思考能力では、今回のことで、全ては確信をもって証明されたとしか言いようがない。良いのか悪いのか、まさに絶妙のタイミングだ。クリスマスには期待を抱いていたが。このまま平穏と人の優しさに満ちた生活を保てるという期待を。

何度も気付かされたことだが、最低限の敬意を失ったら、その人間関係は崩れてしまうと。その敬意はどこから来るのか。それは相手によりそれぞれだ。必ずしも具体的な根拠があるとは限らない。中には、無条件に尊敬できる人というのがあっていい。そんな形での敬意が失われたとき、そこに発生する不信は、相手に対してではなく自分に対してだ。根拠なく人を敬い、信じた自分自身に対する疑い、不信。またもう一ついえるのは、自分の中で、こんなにも容易に相手の人間像や価値観を含め全て否定され崩れ去るというのは、ある意味最初から偶像のようなものに敬意を抱いていたのかもしれないということ。最初から、相手を深く見ようとはせず、自分の中だけで他人の魂を理解したつもりになっていたにすぎないと。

I must be crazy now.さらに悪いことに、明らかに愚かであると分かっていながら、その行為を抑え切れなかった。未熟さは露呈された。

散々な一日の始まりだったが、押しかけていったにも関わらずこんな私を冷静に受け入れてくれたリアン(彼女のアドバイスを、必ず実行しなければならない)ご無沙汰だったが、今日というこんな日に、知ってか知らずか心温まるメールを送ってくれたハリウッドのNさん、名古屋のT氏、そして四季に来てくれたモリヒロ君たちには感謝します。


2003年12月17日(水) 街灯

アマゾンで注文した本が2冊届き、今日はひたすら読書。食欲は減退したまま。無理もない。まるで奇跡の結果とも言える旅がもう数週間先に控えている。多少なりとも神経質になるのは当然である。決して、悪いストレスではない。

本を受け取りに行った際、バスには乗らず、TalbotとRichmondを往復で歩いてみた。夕暮れ時。完全には暗くなっていないこの時間帯、街灯の灯された通りと、静かに振り続ける雪がなんとも美しい。気になっていた美容院にも寄る。パーマのことを聞くため。

自分の顔立ちには全くもって自信はないが、ただ全ての人に言えると思うのは、やはり外見的にも、内面的にも、美しくなりたいならば美しいものに触れるべきであると。何かしら美しいものを見ている時の目は、優しさに満ちているであろう。温かい言葉を発する時の口元は柔らかいものだろう。

つくづく、良い環境に居るんだなと思う。


2003年12月16日(火) Do I need this?

原因不明の発熱から1週間経ち、ようやく回復か。しかしこの調子だと、冬の間常に風をひいていそうだ。鍛えなおしだ。

完全夜型生活になっており、今日もやはり正午に起き、午後遅くに外出。ウォルマートに行った。今度は旅支度のため。といっても、結局買ったのは日用品とパジャマくらいで、今、旅に必要なのは物よりも情報であることを再確認。Bayでニワトリ型エッグクッカーを購入。京都のLoftで、このヒヨコタイプを買おうか買うまいか迷ったことを思い出す。結局、当時の経済状態では余裕がなく(ヒヨコ型エッグクッカーは\6,800だったと思う)諦めたのだった。必ずしも必要ではないが。どうしても目が離せないもの、強い印象を受けたもの、時間を置いてもまだ欲しいと思うものなら、買っても後悔はないだろうと判断。

ウォルマートにドン・チェリー氏が来店。サイン会なるものを開いていた。サインをもらい、握手をするにはおそらく30分以上とみられる行列に並ぶ必要があったので、少し考えたが断念。使い捨てカメラで写真を1枚撮った。

家に帰り話したところ、ルームメイトもジェイミーもびっくり。また、ニワトリエッグクッカーには興味を示してくれた模様。


2003年12月07日(日) 無邪気な

それほど寒くない。午後は再度フリーウィリーを観てからバイトへ。それなりに忙しい。まさにbusiness is dyingという状況だった先週とは対照的。日本人の親子連れが来た。私の小さい頃とまるで同じ姿の女の子が。2つ目のオレンジジュースに和紙の傘をつけてあげたところ、「わー!すごーい!」という嬉しそうな声と、とびきりの笑顔を見せてくれた。喜んでもらえたようだ。私まで嬉しくなった。

ビクトリアパークでは屋外のアリーナがもう既にオープンしている。あさってあたりに行ってみよう。

帰り際に、少しキッチンとトラブルがあり、バスを逃してしまう。30分も同じ場所でとても待っていられないので、とりあえず歩く。雪に足跡をつけながら。かつて私を取り巻いてきた人々を思い出す。かつて傷つけた人々を思う。悔やむ。

自分がどう思われたいかより、結局自分がどう思いたいか。人と接する上で。


2003年12月03日(水) 訳しきれない

二日酔いで午後遅くまで頭痛が続く。バイトの関係で水曜はどうしても洗濯日となる。ついでに乾燥機でできるドライクリーニングとかもやっておいた。ルームメイトとほぼ入れ違いに外出。ウィリアムで遅い昼食。そのあとホワイトオークスへ、サイズ直しのため預けていたコートを取りに行く。

詩を英訳して友人に送ることを試みた。しかし自分の英語能力のせいか、言語の限界なのかは知らないが、簡単に訳しきれないことがわかり、しばし頭を抱えた。訳したい歌は、「背伸びしてもとおい月」。作者は分からない。添えられている絵は、動物の上に子供が立って向かって手を伸ばしている様子。絵の通り、背伸びしたところで、月に届くはずはない。しかしその直接的な意味以外に、頑張っても背伸びしてみても、手の届かない人や物事というのを想像せずにはいられない。そこに詩の伝えたいところがあるのだと私は解釈する。

それを訳そうとしたのだ。おそらく、日本語での背伸びが、必ずしも英語で2通りの意味を持つとは限らない。「背伸び」を直訳し、"stand on tiptoe " を使うと、本当につま先で立って背伸びしてみても月には届かない、当たり前だよ、と終わってしまう。また、"bite off more than one can chew" "try to do more than one is able to do" なんて言うと、背伸びという言葉が全く消えてしまい、本来隠れているはずの意味がむき出しになり、洗練からはほど遠くなる。込められた意味はそのままで、言語だけを変換することは容易ではないのだ。訳す作業というのを、学校でも独学でも真面目に取り組んだことがないため、なおさら。

結局、"the moon is above my reach, althoug I try to reach up." とか、手なのか足なのかを伸ばして(stretch)いる様子は辛うじて伝わる(と思いたい)単語を並べ、そこから月なのか人なのか想像が膨らめば、と読み手に完全に期待し、中途半端な訳を終えた。ちなみにメールに対する反応はない。へぼ詩と読み捨てられたか、やはり「届かない」人なのか。 


2003年12月02日(火) 転ぶ

12月に入ると、もう0度を越える日は少ないという。朝起きてすぐ窓に目を向けると、空中が真っ白で何も見えない。吹雪だ。午後にようやく落ち着いた頃外に出てみると、道路に積もっている雪は粉雪のように繊細で、わずかな光を反射して、いっそう純白の世界をいっそう輝かせる。普通の靴しかないので足元は凍えながらも、今度こそ冬だということを実感。油断していると、車で踏み固まった雪の上で転んだ。インサイドエッジ(スケートの走法)を思い出し少し筋肉を意識して歩く。

F氏とは連絡が取れず。というより珍しくメッセンジャーで時間が合わなかっただけ。どこに居るのだろうか。


川村 |MAIL