地上懐想
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2002年02月01日(金) |
修道院滞在 1998年クリスマス |
「祈りのなかでは、下界の、人間の沈黙の領域が、天上の神の沈黙と結合するに至る。
かくて下界の沈黙は、天上の沈黙のなかで憩う。
祈りのなかでは、言葉は−−したがって人間は−−この二つの沈黙の領域のあいだに置かれた中心点である。 祈りのなかで、人間はこの二つの領域によって支えられる。」
『沈黙の世界』(マックス・ピカート著 みすず書房 1964)より
12月24日〜26日まで、ある修道院に滞在しました。上記の本はそこの図書コーナーにあったものです。 この修道院は以前にも訪れたことがありますが、おもしろいと思ったのは、同じ本棚の前に来ても、時を経ると手にとりたいと思う本の傾向が違っているということでした。 今回出会う本、今わたしに必要な本というのがこの『沈黙の世界』だったようです。
さて、今回は友人と行ったのですが、鈍行列車をのりつぎ、なかなか来ないタクシーを待ち続けてようやく修道院に着いたころ、静かに粉雪が舞いはじめました。 ホワイト・クリスマスになるのではと、わたしたちは柄にもなくはしゃいでしまいました。
部屋に荷物をおいたあと、それぞれ散歩に出かけました。 外は強い風が吹いていて吹雪の時のように雪がたたきつけられてきます。 でも天気は晴れ、上を見れば冬の太陽があり、青空がひろがっているのです。 じつに不思議です。 杉林が風にごうごうと鳴って、あたりには人ひとり見えず、人的な音は何もない。半分この世ではないような風景でした。美しいという意味において。
修道院はほんとうに美しく、それはまわりの自然とか木々のたたずまいとか、時を経てきた典礼や聖堂が美しいだけではなく、美しいということが簡素であることと深く結びついている・・・そしてそこに、沈黙、静けさというものがさらに分かちがたく結びついている...言葉では言い尽くせないそうした世界です。
0時の「夜半のミサ」が始まる頃には、近隣に住む方々もたくさんおいでになり、祭壇脇にある外部者用の席はいっぱいになりました。 町なかの教会ではたいてい、24日の夜7時くらいからこの「夜半のミサ」が行われますが、ここの修道院ではクリスマスの日の午前0時に行われるのです。 2000年前のベツレヘムの夜へと、そのまま時空がつながっていくようなミサでした。
ミサが終わると、聖堂わきの小部屋で簡単な立食パーティがありました。 もてなして下さるシスター方はさすがに受付係の3人の方と神父様のみでしたが、このシスター方というのが実に気さくで、わたしの思っていた「観想修道者」のイメージとはちがっていてちょっとびっくりです。
話は前後しますが、到着した日の夕食後、受付のシスターに「ちょっとこちらへ...」と小部屋へ手招きされました。そして一通の封筒を手渡されました。 それは、前回の滞在時にお世話になったあるシスターへと、わたしが出しておいたクリスマスカードでした。 「ご存じありませんでしたか...」と言われ、わたしは初めてそのシスターが帰天されていたことを知りました。
一昨年の夏に滞在した時に、わたしが典礼用の楽譜のコピーをお願いしたことがきっかけで、そのシスターとは2、3度お手紙をかわしていました。 そのお手紙の中の「クリスマスのお祈りはとても美しいので、ぜひいらっしゃい」という言葉にずっとひかれていて、今回の修道院滞在を決めたともいえます。
話を伺ってみると、発病されたのはわたしが滞在した年の12月とのこと。 そして翌年の5月31日、聖霊降臨の日、わたしが堅信を受けた日に天に召されたということでした。
「いつかまた一緒にお祈りできる日を楽しみにしています」と書かれたシスターの手紙を読むたびに、もうこの世では一緒にお祈りできなくなってしまったとしみじみ思います。 これ以上ないという沈黙、最大の沈黙に入られてしまったのですから。 でも考えてみれば、その沈黙は神の沈黙へとよりいっそう近づいたもの、希望とさえいえる世界なのです。
そしておそらくはこの世においては祈りによって、つながることができる世界なのでしょう。 地上で一緒にお祈りすることはできなくなったとしても、祈りの中でつながっていることはできると...
そうしていつかわたしがこの世界での役割を果たし終えた時、今度はほんとうに一緒にお祈りすることができるでしょう。
1999.1 記
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