砂漠の図書室
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木々が裸になって、本来のフォルムの美しさに気づかされる季節となった。 この本はアニメーション化されたものを書店で見かけたことがあったけれど、原作をきちんと読むのはこれが初めて。 先日、友人のサイトで書評を見てからとても読みたくなって、図書館で借りてきたのだった。
物語は、主人公の「わたし」が、ある荒れた不毛の土地を訪れるところから始まる。 そこは「冬も夏も気候はきびしく、家々はきゅうくつそうに軒を接して、人びとはいがみあい、角つきあわせて暮らしていた。かれらの願いはただ一つ、なんとかしてその地をぬけだすことだった」。
そして、一人の羊飼いと出会う。 「三年まえからこの荒れ地に、かれは木を植えつづけているのだという」 「名をエルゼアール・ブフィエといって、かつては平地に農場を持って、家族といっしょに暮らしていた。ところがとつぜん、一人息子を失い、まもなく奥さんもあとを追った。そこで世間から身をひいて、まったくの孤独な世界にこもり、羊と犬とを伴侶にしながら、ゆっくり歩む人生にささやかな喜びを見いだした。でも、ただのんびりとすごすより、なにかためになる仕事をしたい。木のない土地は死んだも同然。せめてよき伴侶を持たせなければ、と思いたったのが、不毛の土地に生命の息吹をよみがえらせること」
翌日「わたし」はこの地を去り、やがて第一次世界大戦が始まって戦場に行く。 一方、羊飼いは世の中が戦争のさなかにあっても、この地でただ黙々と木を植えつづける。 二度の世界大戦が終わって、「わたし」が再びこの地を訪れて目にしたのは、広大な森と、とうとうと流れる小川、牧草の緑、だれもが住みたくなるような美しい村の風景だった・・・。
この本を読んで思い出した言葉がひとつ。 「世界が今日も滅びないのは、砂漠で一人の修道者が祈っているから」というもの。
木を植えるということと、砂漠で祈るということ、このふたつはよく似ていると思う。 どちらも世間から身をひいて、孤独のうちに、淡々と自分のすべきことをしつづける・・・。それは一見、あまりにも非力で、世界と何のかかわりも持たない思い込みだけの行為のように映る。 けれどもほんとうの目で見てみれば、きっとどちらも深い深いレベルで世界とかかわり、辛抱づよくはたらきかけ、変革していく行為。
木を植えるとは、言ってみれば、祈ることと言えるかもしれない。 祈りとは、木を植えることなのかもしれない−−目には見えない木を。
どちらも、荒れはてた世界にいのちの水をそそぎ、うるおしていく行為であり、 それは、人間がこの地上でなしえることの中で、もっとも美しいものであるにちがいない。 「行為」であるとともにひとつの「姿勢」でもある。 すなわち、「to do」でもあり、「to be」でもある。
木を植える人になりたいと思う。
私はこの世界に対して、直接的にできる事があまりにも少ない人間で、時々そのことに気落ちしてしまうけれども、そんな自分にも残されているつながり方がそこにあるようだから。
いつか、目に見えない祈りの樹が広大な森となって、世界中を覆いつくす・・・そんな光景を目の当たりにする日を私は夢見る。
木を植えた男 / ジャン・ジオノ作 ; フレデリック・バック画 ; 寺岡襄訳 あすなろ書房 1992.11
2002.5.10 記
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