一橋的雑記所
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2006年03月25日(土) |
もしかしなくても、『月下』の続き(えー)。※ホントは、081208. |
バックアップを兼ねて(何)。
開け放した扉の向こうから、冴えた月明かりと夜の気配。 何故だか眠れないまま、臥室に身を起こしてさわさわと寄せ返す雲海のざわめきを聴くともなく聴いていた。 もう、何日になるだろう。 下手をすれば溢れそうな感情を制して、職分を全うする事だけに専念する毎日。 もの問いたげな主の表情に気づかぬ振りをするのは、時折顔を合わせる百官の長の何もかも心得た風な穏やかな笑顔に激昂しそうになるのを抑えるよりも、正直な所、辛かった。 でも、それ以上に辛いのは。 日増しに胸の中に降り積もる、失望にも似た悔しさ。自分は一体、何を思い上がっていたのだろう。信頼を勝ち得るだけの何ものをも為しては居なかった。そんな己を棚に上げて、どうして主を……彼女を責められるのか。
「情けない、かな……」
結局の所、自分はまだ何一つ、変われてはいない。偏狭な価値観に捕らわれ守られ、自分の正しさに疑問すら抱かなかったあの頃から。 だから、遠ざけられたのだ。あの場から。 あの時、もし自分がその場に居たとしても、彼女は、自らの命を暗殺者の刃に晒した事だろう。自分が真にしなくてはいけなかったのは恐らく、身を挺して彼女を庇う事でも、王の身で凶刃にその命を晒そうとした行為を責める事でも無い。 あの、怜悧過ぎる程怜悧な男の掌に乗せられて初めて気づいた事が、ひたすらに悔しかった。何より、誰より、自ら気付けなければいけない事だったのに。
かき合わせた夜着の隙間に忍び寄る冷気すら生ぬるく感じられる程、悔しさに熱を帯びる胸をそっと抑える。 今は遠い故国の玉座を文字通り身を以て守るあの人を思う。 この国を……この国の主を守ると決めた時にやっと知ることの出来た、あの人の思い。けれど結局それは、知り得ただけでしか無かったのだと思い知らされたようだった。
「……ほんと、情けないったら」
唇を噛み締め、身を折り、堪える。 これ以上、みっとも無い真似はしたくない。でも。 食いしばった歯列の間を縫ってともすればこぼれ落ちそうな呻きを、何とか堪えようとした、その矢先だった。
「祥瓊……?」
今、一番聴きたくて、でも聴きたくなかった声が、潮騒にかき消される事無く、真っ直ぐに耳朶を打った。
「ごめん、もう寝んでるかな」
年頃を思えばそっけない程に低く、なのに、良く透る声は、主の特徴の一つだった。知らぬ人が聴けばぶっきらぼうを通り越して平坦に感じる程、感情を伺わせない声音はけれども、不器用で嘘のない人柄の故。本当にどうでも良い事を話したり、隠したい事がある時程、人は、際限なく愛想の良い声を出せるものだ。良い悪い、では無く。
「良かったら、少し話したかったんだけど……こんな時間になってしまって……」
独り言めいた声と言葉に、酷く胸が痛む。答えたかった。自分はちゃんとこうして起きていて、あなたの言葉に確かに耳を傾けている、と。 けどでも、口を開けば、言葉よりも先に気持ちが溢れてしまいそうで、いっそう強く唇を噛み締める。
「祥瓊が、ここ暫く、私と話してくれなくなった事、その訳も、分かっているから。分かっているのに、ごめん、私は……」
主の声が、穏かなまま途切れる。不器用で、その癖、酷く潔くて。自分が正しいと信じたことの為には何もかも飲み込んで突き進むだけの信念を持ちながら、けれども、王として相応しくない自分の事は、いつ投げ出しても構わないと本気で思っている。その生き方そのままの声音に、熱を帯びた胸の奥底が苦しいまでに痛んだ。 無私が虚無にどれ程近いものかをまだ知らない、若い王の声。 その側近くに寄り添い、その治世を見届ける事でかつての己の罪を償おうと考えている自分に、出来る事などたかが知れている、けれども。
「……分かっているなら、良いのよ」
小さな溜息の後、深夜の冷気を胸深く吸い込んだ後、声を励まし答える。
「祥瓊? 起きてたんだ」 「起きてるわよ」
臥室の帳を掻き分けて、ひやり底冷えのする床へと足を落とす。
「陽子こそ。政務でも無い夜更かしは感心しませんわよ、主上?」 「……眠れなかったから」
冗談交じりの言葉にまともに答えながら躊躇う素振りを見せる彼女に、肩を竦めて見せた。
「そんな所に長居してたら身体に毒よ? 幾ら神仙の身でも」
手招くと、大人しく従ってやってきた。 こんな刻限になってもまだ起きて何かしていたのか、いつもの簡素な官服にも軽く結い上げた髪にも少しの乱れもなく、かといって、疲れた様子も伺えない横顔は、いつもどおりの穏やかな無表情だった。似たもの主従、とは言うけれども、主が従えるこの国の麒麟の文字通りの無表情とは随分と異なる印象を与えるものだと、どうでも良い考えが脳裏を横切った。もしかしたら、見とれていたのかもしれない。
「来る途中、浩瀚に逢った」
だから、唐突に零された主の言葉の意味を一瞬、取り損ねた。
「……冢宰に?」 「うん。眠れなくて走廊伝いにぼんやり歩いていたら、途中で彼の居拠に行き当たったらしくて。王宮って何処でもこんな造りになっているのかな」
遥か雲上に存在する王宮の、所謂内宮は、王とその側近の住まいとして特別な呪法が施されている。生まれ着いての王族どころか、異世界に生まれ育った主には、その意味や理由を学ぶ機会が無かったのも道理、と溜息を零した。
「王宮の主には、全てを掌握する権利と義務があるものだから」 「ああ、うん、そうだね」
飲み込みの早い主は、あっさりと頷いた。
「だから、夜幾らほっつき歩いても誰も咎めないし、後を付けて行こうにも、王と同じ道を行けるのは台輔だけだけど、程ほどにね」 「うん、気をつける」
生真面目に頷いてから、もう一度、ごめん、と頭を下げられた。そういう意味では無かったのだけれども、と思いはしても、口にはしなかった。気付けば、いつもと代わらない会話がそこにあって、主は、特に思い詰めた風でも無い。その事に安心している自分が、辛い。
「……祥瓊」 「ん」 「すまなかった」 「もう良いわよ」
真っ直ぐな、曇りの無い、強い輝きを内に秘めた翠の瞳を見つめ返す。
「浩瀚からも、すまなかったと伝えてくれ、と。……わたしには、良く分からなかったんだけれども」 「……そうね、私にも良く分からないけど、」
明らかな嘘を吐きながら、目を逸らさず微笑んで見せた。
「あの冢宰に貸しを作れる機会は滅多になさそうだから、受け取っておくわ」 「違いない」
主は、屈託の無い透明な笑みを浮かべた後、視線を落とした。
「……今回の事、多分、色んな人を怒らせたし失望させたと思う。本当にこの国の事を思うなら、簡単に、命を投げ出すような真似はしてはならないって、本当はそう思う。けどでも、わたしは……」 「陽子」
訥々と話し始めた主を、強く遮る。驚いたように顔を上げた彼女を制して、自分のものよりも少し低いところにある肩に手を置くと、力を込めてとん、と押しやった。完全に虚を突かれたのか、見た目以上に軽いその身体は、軽い帳を押しやって、臥室の中に倒れ込んだ。
「……祥瓊?」 「ねえ、陽子。私は、私たちは、何の為にここに居るの?」 「……え?」 「王は、玉座に居ないといけないものなの。人の暮らしを安寧なものに保つ為に。それは分かっているでしょ?」
柔らかな寝具に仰向けに倒れたまま、主の瞳は真っ直ぐこちらに注がれている。一見すれば、年頃の娘たちよりも明らかに華奢で小柄なその身体には、天命に選ばれた王の血が流れていて、そこには、この国とその大地に安寧を齎す約束が秘められている。
「先ずはそれを全うして。この国の民に、飢えずに済むだけの実りを齎す時間を与えてあげて。あなたがそれすら出来ないような王だっていうのなら、」
主の、曇りの無い真っ直ぐな瞳を、真っ向から見返しながら、身を屈める。その肩にそっと手を添えた後、ゆっくりとその咽喉元へと手を伸ばし、酷く痛む胸には気付かないように、強く、微笑んだ。
「私が、倒してあげる。今直ぐにでも」
瞬間、大きく見開かれた主の……彼女の目が、ゆっくりと細められ、それから、逸らされた。
「……すまなかった。わたしは、随分と、甘ったれていたんだな」
違う、と即座に否定してあげたい気持ちを必死で押さえ込んで、緩く首を左右に振った。
「甘ったれている訳じゃないとは思うけど……でも、うん、これは、陽子一人の話じゃなくて、」
月渓、あなたはどんな風に、王を……父を見ていたのだろう。 共に理想を抱いて、憧れて、信じたくて、庇いたくて。 その想いだけでは、何もかもが全う出来なくて。 失いたくないものを、どうすれば守れただろう。 何度、そう自らに問いかけて、迷い続けた最後に。 残されたその道を、選んだのだろう。
「私は、陽子が王だから友だちになった訳じゃないけど、でも、陽子は王だから。王である陽子とずっと一緒に居たいから、」
不意に、今更こみ上げてきた何かに、思わず言葉が詰まる。こんな所で、と悔しさが押し寄せても、自分ではどうにも出来ないと分かって、情けなさがいや増した。 こんな事では、本当に伝えたかったのは、分かって欲しかったのは何だったのか、結局、自分の気持ちだけのようで、悔しかった。
「祥瓊……」
倒れ込んだまま、彼女はその手を差し伸べる。頬に触れた指が、そのまま目尻へと動いていく。
「有難う、祥瓊」
微笑むように、何かを堪えるように、彼女の眉が下がり、眼差しが細められる。ゆっくりと伸ばされたもう一方の手が、首の後ろへと回り、引き寄せられる。 有難う、と何度も繰り返すその声が酷く静かで。 ああ、主は……彼女は多分、何もかも分かっているのかもしれない、分かっている自分に気付けないだけなのかもしれない、そう思った。 気付けば、潮騒はすっかりと止み、開け放たれた扉の向こうから、遠く西へと傾いた月の光が、臥室の帳を照らし出す場所にまで届いていた。
― 了 ―
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