一橋的雑記所
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終了の合図、それに続く礼、後片付け。 それらの喧騒から距離を置いて待っていた所へ、道着姿の綾ちゃんがゆっくりとやってくる。汗一つかいていないその手には、先ほど小さな後輩から渡されたタオルが一本。
「お疲れさんやったね」
笑って見上げた綾ちゃんはそうでもないです、と言いたそうに表情を緩めた後、振り返る。
「今日はもう、上がってもええのん?」 「みたいです。着替えて来ますから、外で」 「ん」
ほな行ってらっしゃい、とその背中をひと叩きして、また先輩方に捕まらない内にと道場を後にする。綾ちゃんは、後片付けに奮闘する後輩の群に向っていく。タオルを返しに行くのだろう。やれやれ、と何となく凝ってしまった肩を回しつつ道場を後に仕掛けて、背後で湧き上がった歓声に吃驚して振り返る。どうやらその歓声の中心には、後輩たちに囲まれた綾ちゃんが居るらしい。 珍しい、と思ったのは、後輩たちに取り囲まれた綾ちゃんが目に見えて困惑しているのが分かったからだ。いや多分、傍目にはいつもどおりのポーカーフェイスにしか見えないのだろうけれども、その泳いだ視線が此方を探し当てた瞬間、それが分かった。頑張りやー、と視線だけで笑って見せたら諦めたように溜息をついたのが少し、面白かった。
傾き掛けたお日さんの元、自転車を押す綾ちゃんと並んで下校の途につく。心なしか考え事でもしているように視線が落ち気味の背中に、笑いかける。
「さっきは何やったん? えらい大騒ぎしてたけど」 「……別に」
と、言い掛けて、言い淀むその姿が珍しくて、その背中を突く。
「別に、やないやん。えらい楽しそうやったで?」
楽しそう、の言葉に穏かな無表情に困惑の色が差す。
「や、綾ちゃんが、やなくて、皆が」 「そんなに、大した事じゃなかったんですけど……」
諦めたように呟くと、綾ちゃんは足を止め、片手を上げてくしゃり、と自分の前髪に指を通す。ありゃ、本気で困っているのかと、流石に少し、驚いた。
「何があったん?」
思わず真面目に問い掛けながらその目を見上げる。複雑な色の眼差しに複雑な表情。
「……明日」 「ん?」 「明日の早朝練習に、出てきてくれないかと」 「中等部さんの?」
頷いた綾ちゃんに、拍子抜けした気分で、溜息をつく。
「それであの騒ぎやったん? なーんや」
我が学園の剣道部は基本的に朝は自主練習に任されている。普段は直接綾ちゃんに助っ人をしてもらう事の無い中等部の皆が、勇気を奮って直にお願いをして了承を得た、というのが先の騒ぎの真相だったらしい。
「まあ、偶のことやし、ええやん。行ったり行ったり」 「……はい」
朝練習に付き合うとなれば、明日は別々に登校ということか。久々に自分で自転車を運転する事になりそうなのがちょっとアレだけれども、でも、綾ちゃんが決めたことなら良しとしよう。
「済みません」 「え? 何で謝るん?」
きょとん、と訊き返すと、綾ちゃんの視線がするり、と逃げた。夕映えの逆光の中、表情を掴ませない影の中にその横顔が逃げる。
「大丈夫やよ、私のことやったら。一人でも」
時々、ものすごく心配性になるその肩をぽんぽんと叩いてみせる。
「いつまでも、綾ちゃんに甘えてばっかりも居てられへんしなあ」
出来るだけ明るく冗談っぽく続けたけれども、黙り込んだ背中は振り返らない。
「なんやったら、私も付き合おか? 朝練」 「……いや、流石にそれは」 「まずいかー。連子先輩を調子付かせるだけやな」
むう、と眉根を寄せたあと、まあ、ええか、と肩をすくめた。
「取敢えず、明日の朝だけは綾ちゃんに付き合うわー。一人で自転車乗るのんにもそろそろ慣れんとアカンし。久々に、並んで行こ。な?」
真っ直ぐに前だけ見て自転車を押す綾ちゃんの視線に回り込むようにして、その顔を見上げる。夕陽を集めたその目の色は相変らず複雑で、金色にも真紅にも見えて、少し眩しかった。
引っ張りますが後先の事はあんまし考えてません(何々)。
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