一橋的雑記所
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昨日付けのこっ恥ずかしいネタを引っ張ってみる(何)。
緩やかに傾斜する坂道を上りきった場所に、古くさい門構えの家がある。 それが、我が家だった。
「行って来ます!」
大きな声を奥へ飛ばして、きちんと紐を結び終えた靴の爪先をとん、と玄関の三和土(たたき)を打ち付ける。複数の声が返ってくるのを背中で受け止めて、鞄を持ち直す。
「行って来ます」
そんな声じゃ奥まで届かないのにな。それくらいのボリュームで、隣に佇む綾ちゃんがそれでも律儀に呟いて、先に引き戸を開く。それが、我が家の朝の風景。
「うわー……結構寒なってきたなあ……」
自転車の用意をしている綾ちゃんの背中に白い息を掛けながら、空を仰ぐ。寒さも暑さもてんで気にしない横顔が、ちょっとだけ恨めしい。
「早出すんの、いやな季節到来や……」 「コート、取って来ましょうか?」
家に来てから早や5年目になろうかと言うのに、相変らず堅苦しい口調で綾ちゃんが応対する。勿論、こちらもそれには馴れたもので。
「ええよ。今からそんな厚着してたら冬しんどいもん」
肩を竦めて答えた時、ふわりと首の周りに何かが触れた。
「文子さんが持たせてくれました」 「あー……」
墨染めっぽい色合いの、タオル生地のマフラーを当たり前のように巻きつけると綾ちゃんは、払暁頃には開け放たれていた勝手口を、その長身を屈めるようにして自転車を押して潜り抜ける。
「何で私に直接、持たせへんかなあ」
聴こえるようにわざと上げた声に振り返ったその顔は、ほんのちょっとだけ柔らかい色を湛えていた。「めんどうくさがって自分では使わないって分かっているからですよ」と言いたげなその表情が、何となく腹立たしい。
「綾ちゃんは? 巻かへんの?」 「まだ、良いです」 「……悪かったな、寒がりで」
憎まれ口を無言で受け流してサドルに跨った綾ちゃんの後ろに回り、その肩に載せた掌を支柱に、二人乗り用の足台に乗り込んだ。荷台には皮製の制鞄、サドルの横に特注で取り付けた金具には鞘袋に納めた竹刀が二人分。
「ほな、行こか」 「はい」
簡潔に答えた綾ちゃんが、掛かる負荷を感じさせない滑らかな動きでペダルを漕ぎ始める。 それはいつもの、二人の朝の光景だった。
だらだら続く坂道を降りた丁度そこには三叉路がある。左折してそのまま、車通りも人通りも少ない早朝の通りを、二人を乗せた自転車は疾走する。自転車通学圏ぎりぎりにある自宅から、学校までの所要時間は約20分。綾ちゃん相手に他愛も無い話題を振り撒いて、その時間はあっという間に過ぎ去る。 その日の通学路も、当然、そんな感じで終る予定だった。 バス通りを過ぎ、小さな駅前の商店街を抜け、最近になって整備された住宅街を横断する大通りを抜けた先、背の低い潅木に取り囲まれた公園脇の歩道を突っ切ろうとしていた自転車は、途中でいきなり速度を落とした。
「……綾ちゃん?」
気付いて声を掛けた時には、自転車の車輪はとうとうその回転を止めてしまっていた。覗き込んだ綾ちゃんの、少し癖のある前髪越しの目が、やや細められている事に気付いて、補助台から飛び降りる。
「どないしたん?」 「……声が」
言って、その目が少し先にある公園への入口に向けられる。言いたい事を何となく察して澄ました耳に、小さな悲鳴じみた声が届いて、息を呑む。
「綾ちゃん」 「はい」
手早く自転車をその場に止めて、綾ちゃんがサドル脇から鞘袋を抜き取り、歩き出す。時期が時期だけに、それを振るわなくてはいけない事態がそこにない事を軽く祈りながら、その後に続く。 早朝の、出来て間もない住宅街内の公園は、ひと気が無いどころか閑散とし過ぎていて、普通なら誰も好き好んで足を踏み込みはしないだろう。そんな場所から、尋常ではない声が聴こえたとなると。
「厄介やなあ……」
知らずぼやいた言葉を見咎めるように振り返った綾ちゃんは、けれども次の瞬間には駆け出していた。慌ててその後を追う。
「……あちゃ……」
嫌な予感は的中していた。 見慣れた制服姿は、隣接する男子校のもの。上背のある三人ばかりのそれに取り囲まれているのは、更に見慣れた我が愛すべき母校のそれで。
「なんやなんや。大の男がよってたかって何してるんや」
思わず零した声に反応して、その大の男たちが一斉に振り返る。
「……峰倉」
中の一人が呟いた声に反応して、取り囲まれていた女子生徒三人が一斉にこちらを振り返る。泣き出しそうな……というか、既に半泣きのその顔に浮んだ安堵に、取敢えず、笑顔を返してみる。
「見ず知らずの人に、呼び捨てされるんは、かなんなあ」
鞘袋を片手に、静かに佇む綾ちゃんの横に並び立ちながら、自校(うち)の女の子たちにもう一度微笑み掛ける。
「まあ、ええわ。はよ行き」
強めに促すと、一瞬の躊躇の後、彼女たちがダッシュする。取り囲んだ男子生徒たちが身動きするよりも早く、綾ちゃんが両者の間に割って入る位置に移動する。
「……さて」
その横に更に移動して、どうしたもんかな、と暫し思案する。 あの子たちに何をするつもりだったのか、何が目的だったのか、をあれこれ想像してみたけれども、時期が時期だけに、そうあからさまにヤバイ理由ではなさそうだ、と思う事にする。居並ぶ顔に見覚えが無いことも、少しばかりではあるけれども、安心材料と言えた。
「見たとこ、体育会の人やあらへんみたいやけど」
軽くカマを掛けた瞬間、連中に見過ごせない動揺が走ったのが見て取れた。
「うちの子たちが、何か粗相でも?」
わざと笑顔で言い放つと流石に癇に障ったのか、剣呑な気配がその場に満ちる。それに反応した綾ちゃんが、鞘袋の紐を解き掛ける。
「あー、堪忍。からかうつもりやあらへんねんけど」
綾ちゃんの手に手を重ねるようにして抑え、一歩踏み出す。
「何か問題があったんやったら、謝らせて貰うから。今日の所は収めて貰われへんやろか」
もしもこれで収まらなければ、致し方ない。そんな気分を滲ませて、傍らの綾ちゃんの横顔を振り仰ぐと、その不思議な色彩を帯びた目が、和らいだ。意図するところが通じたのをそれで確認して、改めて、男子生徒を眺めやる。
「来々週から対抗戦も始まることやし、な?」
にっこりと笑って見せると、彼らの間に鼻白んだ気配が満ちる。
「ほな、そういう事で」
所在無げな彼らに微笑み付きでそう告げた後、綾ちゃんの右肩を軽く叩いた。
「行こか。遅れるわ」 「……はい」
分かりました、と言外に滲ませて、綾ちゃんが緊張を解いた。 その刹那だった。
「……この……!」
背中を向けた先、三人組の一人があからさまな敵意を共に踏み込んできた。やけにスローモーに見えたその動作を遮るように、綾ちゃんの背中が視界に割って入る。 振り返った視界一杯に、綾ちゃんの背中。その向こう、凍りついた様に動きを止めた男子学生の咽喉元に突きつけられた、鞘袋。青ざめたその顔を見上げた時には、同情する気持ちさえ覚えてしまっていた。
「……っと、綾ちゃん?」 「……はい」
微動だにしない背中の向こうで、鞘袋に収まった切っ先がゆっくりと下げられる。
「ほな、そういう事で」
我ながら無理矢理な台詞を吐いて、綾ちゃんを促してその場を立ち去る事にする。背中に感じる彼らの気配には、戦意らしきものは全く感じられなくて、流石にやれやれと、肩を竦めるしかなかった。
始業前の生徒会室は、それなりに慌しかった。
「対抗戦前だからね」
と、幼馴染にして生徒会長の透先輩はのほほんとのたまって見せる。
「それにしても、物騒な話だなあ」
剣道部の部室に行く前に立ち寄り報告した内容を何かの台帳に書き記しながら、にっこりと微笑む。
「まあ、人物は特定出来そうだから、それとなく注意を促しておくよ」 「お願いするわ」
大きく息を吐いて、生徒会室用にしては大仰な革張りのソファに沈み込む。
「何がしたかったんかは分からへんのやけど、掴まったんが剣道部の女子やったし、あいつらも、うちらの事は分かってたみたいやし」 「そりゃ、連中にしたら君らのこと知らないなんて有り得ないだろうから」
愉快そうに返ってきた言葉にげんなりする。 「峰倉さんちの似てない双子」に纏わる噂は、ご近所さまの間でこそちょっとした話題提供でしかない小ネタに過ぎなかったけれども、我が清陵学園と、隣接するライヴァル校開星学院の間で流布しているヴァージョンともなると、笑っては済まされない内容に発展しつつある。
「まあまああ。元女子校相手に大人気ない真似仕掛けてきたあっちとしては、君たちの存在は寧ろ却って有難かったともいえるわけだし」 「……嬉しくない」
憮然、と更にソファに沈み込んだ傍ら、綾ちゃんの表情が若干固くなる。
「……気にせんでええよ」
思わず溜息混じりの苦笑を零して、その肩を軽く叩いた。
「うちらを叩けば、地域一番の有力校の地位安泰、なんて浅はかな事考えた連中がアホやねんから」 「相変らず、辛辣だなあ」 「事実やろ?」
アホらしい、と両断して、さて、と立ち上がる。
「兎も角、ちょっと気ぃつけたってな。あちらの生徒会自体はそう分からん相手でもないんやし」 「確かに。あちらさんもそれなりに手を焼いてるみたいだからね」
手にしたファイルをヒラヒラさせて、透先輩は微笑んだ。
「で、君たちは結局、対抗戦に出てくれるのかな?」 「それとこれとは話は別」
そもそもの事の発端である去年の対抗戦を思い出すと、そう簡単には意を翻す気にはなれない。
「私と綾ちゃんが顔出す事で去年以上の騒ぎが起こる事も考えられるやろ」 「そりゃまあ、そうなんだけど」
ぱたん、と台帳を生徒会長席に閉じ置いて、透先輩は真顔を見せる。
「今の所、五分な感じなんでね。出来ればこちら側に星を引き寄せて貰いたいのが正直な処なんだけど」 「却下」
言い放って、綾ちゃんを促して踵を返す。
「困ってるんなら手助けもするけど、透先輩の意図通りに動く気はないし」 「手厳しいなあ」
少しも困った風も無く呟いた先輩に、思いっきりのアカンベーを送って、生徒会室を後にする。 思ったよりも時間を食ったお陰で、剣道部の朝練には間に合いそうに無い。
「連子先輩、怒ってはるやろうなあ……」 「……大丈夫じゃないですか」 「……なんで?」 「今朝の事はちゃんと伝わっていると思いますから」
表情の起伏に乏しい、けれども、穏かと表現して良い綾ちゃんの横顔を見上げていると、根拠無くその言葉を信じられる気がするのは何故だろう。
「……ま、綾ちゃんがそう言うのなら」
正直にそんな言葉を返して見せたら、逆に綾ちゃんが吃驚したような目で此方を見てきたから。 何だか、酷く可笑しかった。
みたいなお話を書いていたんですよ、若かりし頃の己(えー)。
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