一橋的雑記所
目次&月別まとめ読み|過去|未来
伸ばした手が空を切る。 遠ざかる背中が見える。 一つ、二つ、三つ……。 仄暗い闇の底に佇んで、広げた両の掌をそっと見下ろす。 いつか何処かで、確かに、誰かに繋がっていた。 その温もりさえもが、生暖かい風に弄られ、不確かなものになっていく。
今更、何を、思えば、良い? 全ては、自分が望んだ結果だと。 口の端に上った、冷えた笑みがそれを思い知らせてくれた。
―繋いだその手が離れる時―
目が覚めた瞬間の気分は、流石に最悪だった。 無理矢理にこじ開けた瞼の隙間から矢鱈と狭い視界一杯に見えたのは、僅かに色褪せた畳表に走る細かい無数の線で。 それすら、奇妙に歪んで見えるのだから、これは相当に危うい状態としか言い様がない。 うっかりと覚醒してしまった意識が、全身を覆う思い空気に微妙に入り混じる甘ったるい匂いを感知した途端、その歪みがまるで波打つように踊り出し、思わず唇からくぐもった呻き声を零したその時。
「生きてる?」
至極そっけない声が何処からともなく零れ落ちてきた。
「生きてるなら取敢えず、これ飲んで」
言葉の意味を理解する前に、ぐらぐらに揺れ続けている視野の真ん中に何やら丸いものがぬっと差し出された。 ああ、ストローの吸い口か、と視覚情報を無意味に言語化しながら素直に唇を開いてそれをくわえ込むと、思いの外冷たい液体が舌の上を、そして咽喉を通過して行く。
「……ゆっくり飲まないと、また吐くわよ?」
感情の色を交えない声音を有難く聞き流しながら、知らない内に乾き切っていた胃の腑に無味無色な液体をそろりそろりと流し込む。
「……さんきゅ。助かりました……」
思ったよりも確りとした声が咽喉から零れて、ほっと一息吐く。ようやく感触の戻ってきた気がする頬に、ざらりとしたどこか懐かしい掛け布団シーツの感触が心地良い。
「良いのよ。もう、佐藤さんとは飲まないし」 「え?」 「お世話するのもこれが最後かと思うと気が楽ね」 「ちょ、ちょっとちょっと……」
慌てた素振りと苦笑いを振り撒きながら半身を起こすと、黒縁眼鏡の向こうから、常と変わらぬ平静な眼差しで此方を見下ろす彼女の顔が以外に近くにあって、思わず仰け反る。
「……お酒臭い」 「……海より深く反省します」
深々とそのまま平伏してみせた頭の上に、羽よりも軽そうなため息が一つ。
「それは良いから、いい加減、コンパ以外で飲む時の自分の限界量ぐらい把握してほしいかも」
静かな朝の空気を乱さない位穏やかな動作で立ち上がった彼女の真白い靴下裏を視界の上辺りに捉えながら、口元に張り付いた苦笑いを更に深くしてみる。 言いたい放題に言ってくれているようでいて、核心には決して触れないぎりぎりの言葉を無造作に選ぶ。彼女はそんな友人だ。
「善処します。つーか、もう泡盛は持ち込みません」 「一晩で飲み尽くさないで居られるなら何持ち込んでくれても私は気にしないわよ」
カラになったペットボトルを洗う音が、いつも以上に頭蓋骨に響く。けれども決してそれは、彼女の感情を反映するものではない。 寧ろ、自分の頭の中に充満したアルコールが脳味噌に入った巣を更に押し広げた結果齎されたものと言える。軽やかな水音が頑丈さだけが取り得の骨を打って回って、益体もなくぐるぐる回る言葉の渦を掻き乱してくれる。平衡感覚を失った心地悪さと打撃による鈍痛との相乗効果で、昨夜までの記憶を適当にシャッフルされる有難さに甘えて、再び、そのまま布団の上に身を投げ出す。
「私は、ちょっと出掛けてくるけど」 「うー」 「もし帰るのなら、鍵は母屋に預けてくれていいから」
慣れた調子で言葉と鍵を布団脇に出したままの卓袱台の上に置いて、彼女は出て行った。
夢を見ていたのだと、不意に思い出した。 何処までが素面で何処からが酔っ払いだったのか判然と付かないまま、グラスを重ね、呆れた顔で付き合ってくれた友人の声も遠ざかり、意識を手離してから暫く。
気が付いたら肩を抱いていた。 柔らかな髪が時折、近づけた自分の頬に触れていた。 明らかに、同席していた友人のものでは無い感触を、不思議とも思わなかった。 こんな風に抱きしめるのは、卒業を目前にしたあの時が最後だった。 それで最後にした筈だった。 あの時の自分は、まだ、あの子の姉で。 そのまま、姉であり続けるには、それで最後にするべきだと何となく思っていたから。
抱きしめていた少女の体が不意に、固くなる。 次の瞬間には、固い、というよりも頑固な強さを思わせる力が込められたそれが、妹のものとは違うことに気付いた。
―誰ですか?
見えない筈のその眼差しが、何処までも黒く深く、自分の胸を抉るのをただ、当たり前のように受け止めていた。
―あなた、誰ですか?
誰なんだろうなあ…。
夢の中で呟いた言葉を、もう一度唇の端からシーツの上に零してみた。 あの頃、あの場所ではあんなに確かな輪郭を持っていた自分という存在が、そこを離れた途端に随分とあやふやになってしまって。 何かに急かされるように、日常に、学生生活に向かって駆け出していた。 そうして辿り付いた場所があって。 置き去りにしてきたものがあって。 手離してしまったものが、あって。
今の自分がある。
まだ鈍い痛みを訴え続けている頭を勢いをつけて振り上げ。 いつもの倍は重く感じる腕で体を押し上げるようにして布団の上に半身を起こす。
続く……のか?(マテ)
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