Onry Me
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2001年07月15日(日) 幸せの見つけ方

最近、仕事場や飲みの席、友人との会話などで
不満や愚痴を良く耳にすることがあります。

「何で俺の人生はこんなにもついてないんだよ?」

「俺の人生こんなはずじゃなかったのになぁ・・・」

「幸せな奴らを見ていると腹がたつよなぁ・・・」

「何で俺だけがこんなにも不幸なんだよ!」

「あぁ〜俺も幸せになりたいなぁ〜」

「女の子に全然モテね〜よ!!(若干名(笑))」

とにかく私の周囲では最近、愚痴というか世の中に
対する不平不満、自分自身の境遇に対する不平不満
を口にする人が結構います。

特に酒が入っていたりすると、最終的には
自分がいかに不幸な星の元に生まれたかを
話し合う自慢大会が始まる始末・・。

彼らのこのマイナス思考は・・・
一体、なんなんでしょう?

私はいつも彼らの愚痴を愛想笑いを浮かべて
聞いているのですが、心の中では、いつも
「・・・それってそんなに不幸かなぁ?」
って思ったりしてしまうのです。

確かに彼らの言っている不平不満について、理解出来る
部分はありますし、私自身も普段の生活の中で多少なり
とも腹の立つ事や納得のいかない事がある時もあります。

でも、私にとってはそれらの事が不幸とは
とても思えないのです。

まぁ彼らの話を聞いていてもそうなのですが
確かに普段の生活の中では幸せな出来事よりも
不幸せな出来事の方が目につく機会は圧倒的に
多いようです。

私は父を亡くして以来、自分にとっての幸せって一体
何なんだろうって考えるようになりました。

そして、いろいろと考えてみた結果、私が思うに
幸せとは「日常の何気ない出来事」のことなんじゃ
ないかって結論に達しました。

例えば、仕事が忙しいことで不満を持っていたとします。
でも、それは裏を返せば、忙しほど仕事が出来る環境が
ある事やバリバリと仕事をこなす事が出来る自分の健康
な体に対する幸せを感じる事が出来るのではないでしょうか?

それに、暇な日にビールを飲んだりお風呂に入るより仕事で
くたくたに疲れた状態でビールを飲んだりお風呂に入った方
がより一層幸せだなぁっていう感情が湧くはずです。

家族がいる幸せ、仕事を出来る幸せ、好きな人がいる幸せ、
美味しいものを食べた時の幸せ友達がいる幸せ、健康でい
られる幸せ、etc・・・。

幸せっていうのは、そういった日常の中のちょっとした所に
潜んでいる何気ないことなんだと私は思うのです。

しかし、幸せは当たり前に身の回りにありすぎて普段は生活
の中で意識をしていないとなかなか感じる事が出来ないようです。

幸せと不幸せの感じ方って不思議なもので、どうやら幸せは目に
見えにくく不幸せは目につきやすいという性質があるみたいです。

でも私は考え方を変えることにより、不幸はいくらでも幸せに変える
事が出来るような気がします。

だから私は父を亡くした時は、なんで自分の家族がこんな辛い目
に会わなければいけないんだと思い、正直この頃は町中でおじい
さんやおばあさんを見ると、何であんな年寄りが健康で長生き
していてまだ若い自分の父親が死ななきゃいけないんだと、
ムショウに腹がたった時期もありました。
でも今思うと、いっときとはいえ、何って恥ずかしいことを考えて
しまったんだろうと反省しきりです。

正直私にとって、父を亡くした事は間違えなく不幸な事ですが、
その悲しい体験をした事によって、改めて自分の身の回りの幸
せに気付く事が出来ました。

それは、家族に対する思いやりが昔よりも大きくなった
自分自身に気づいたことだったり・・・、
昔よりも他人に優しく接する事が出来るようになったことだったり・・・、
人の痛みがわかるようになったことだったり・・・、
前向きな人生に対する考え方を出来るようになったり・・・、
将来に対する目標を見出すことが出来るようになったり・・・、
生きがいをもって生きることの大切さに気づかされたり・・・、
そして何より、今こうして生きている事自体の素晴らしさを父の
死によって気づく事が出来ました。

私は父の死を体験してさまざまなことに気づく事が出来ました。

だから・・・、
それらのことに気づくことができた私は間違えなく幸せだと思うのです。


正直父が今もまだ、生きていたら、これらの気持ちは
間違えなく生まれなかったでしょう。
そして、今も父が生きていたのなら私はその父の存在に
甘えてしまい、相変わらず適当な人生を歩んでいた事でしょう。
私にとって、父の死とは真の意味で親から自立する為の
試練だったのかもしれません。

私は父の死によって人間的に一回り大きくなったような気がします。



以前、「五体不満足」の著者である乙武氏がテレビで
自分は決して不幸ではなく幸せなんだと言ってたのを
聞いた事があります。
健常者の多くは両手足が不自由な彼を見て、なんって
かわいそう(不幸)なんだと同情するでしょうが、
彼自身は全然そんな事など思っていないそうです。

私は彼の前向きな生き方に非常に共感を覚えました。

今の彼という存在があるのは間違えなく両手足が
なかったからだと思います。
もし彼が何の障害も無く普通の健常者として生ま
れていたら、果たしてあそこまでイキイキとした
人生を歩んでいただろうかと私は疑問に思うのです。

もしかしたら、その辺の合コンなどをしまくって
遊びほうけている馬鹿な大学生みたいになっていて、
何の夢も希望もない極々普通の人生を歩んでいた
かもしれません。

そう考えると、障害を持って生まれた彼の人生は
他人が見れば不幸に写るかも知れませんが私は彼
が置かれた状況は決して不幸せなものでは無いと
思います。

両手足が不自由というハンデが消し飛ぶくらいの
幸せを彼は手に入れているような気がします。
いつも、テレビでイキイキと仕事をしている彼の
姿を見ると、そのことが良く解ります。


もしかしたら、究極の幸せっていうのは今、
こうしてこの世の中に生きている事なのかも知れません。

楽しい事も、辛い事も、苦しい事も、悲しい事も、
生きていてこそ味わえることであり、生きていなければ
味わう事が出来ないわけですから・・・。


自分の身の回りの不幸に目を向けるよりも
自分の身の回りのちょっとした幸せに目を
向けてみると実に多くの幸せが転がってい
る事に気づかされます。

そして、その幸せに気がつくとそれだけで、
毎日の生活が楽しくなるのです。

だから今の私はとても幸せなんだと思います。



パンチョ |MAIL

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