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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2014年06月03日(火) 打たれ弱さ 久しぶりの雑記更新です。「心の家路」のアクセス数は昨年の半分ぐらいに落ち込んでいますが、雑記を更新しないのがその原因でしょう。なかなか雑記を書く時間が取れない、というのがその理由であります。
僕は精神病院からAAに戻ってきて、ひと月も経たないうちにスポンサーから「新しいAAグループを作れ」と言われ、東奔西走して(といっても市内だけだけど)なんとか会場を確保してAAグループを始めました。その時、県内のAAグループ全部と、近隣の断酒会を回り「新入りが新しいグループを始めますよ」と挨拶に回りました。
それ以降、10年以上に渡って、AA以外のグループにはほとんど出席したことがありませんでした。いわばAA純粋培養のソブラエティだったわけです。ところがある時引き受けたスポンシーが、毎日ミーティングに通わねばいつスリップするか分からないほど不安定な状態でした。田舎では通える範囲で毎晩AAミーティングがあるとは限りません。そこで、スポンシーにはAAのない晩は断酒会に通ってもらうことにしました。まず二人で断酒例会に参加して、「これから毎週この人が例会に参加しますので面倒みてやってください」と頭を下げたわけです。
頼み事をしておいて、頼みっぱなしというわけにもいきません。そこで時々は僕も断酒会の例会に参加しました。そして、薬物のスポンシーができればNAに、ギャンブルのスポンシーができればGAに、といろいろなグループのミーティングに行く機会が増えました。
そうやってAA以外のグループに参加してみると、比較することで、AAの長所も短所も見えてきます。今回の雑記ははAAの短所の一つについてです。
断酒会は夫婦での参加が基本だとされています。旦那さんがアルコール依存症というペアが多いでしょうが、独身の人の場合には母親と息子というパターンも珍しくないようです。「断酒例会は体験談に終始する」とありますが、体験を分かち合うのは依存症本人だけでなく、家族の人も話をします。家族の人は、本人の行いによって、迷惑を被り、悩まされ、傷つけられてきたわけですから、家族の体験談は「傷つけられた、悩まされた」という話題が多くなります。
迷惑をかけ、悩まし、傷つけてきた依存症者本人にしてみれば、家族の話は被害者の糾弾の声のように聞こえますから、罪悪感や自責の念を呼び起こすことになります。もちろん家族は本人を苦しめようと話をしているわけではなく、家族は自分自身のために話をしているわけです。
それに、酒を止めているアルコホーリクは「落ち着きがなく、イライラが強く、不機嫌である」というのはAA、断酒会の別を問わない共通認識ですから、あまり本人の罪悪感を刺激して酒を飲まれてしまったら元も子もありません。だから、家族としても気を使いつつ抑制した話しかしてないわけです。
飲んでいた頃や、やめた後の言動について、例え批判的なことを言われたとしても、ぶち切れたり、椅子を蹴って出ていったりするわけにもいきますまい。断酒の初期からそうした環境に置かれた断酒会員の人は、批判を受け止める力もつくし、自己評価と他者からの評価が食い違うことにも慣れます。いわば「打たれ強い」回復をしていきます。
AAは本人だけの集まりです。オープンミーティングは本人だけとは限りませんが、多くのオープンミーティングは家族の参加はゼロであるか、いたとしてもわずかです。だから、AAではアルコホーリクの言動によって「傷つけられた、悩まされた」という話をする家族はほとんどいない、とみなしてかまいません。
本人だけの集まりになってしまうと、どうしても「傷の舐めあい」的要素が混じってくるのは避けられません。人間の自尊心(セルフ・エスティーム)はその人自身の行いと連動します。良い行いをする人の自尊心は高く保たれ、悪い行いばかりしている人の自尊心は低くなります。アルコホーリクが自分のことをどう感じていたとしても、その人は飲んでやってきたことが悪いことだったと自覚していますから、自尊感情は低くなっています。
そういう新しい人をグループ受け止めるには「傷の舐めあい」的要素も実は結構役に立ちます。自尊感情が低くなっている人は、自分が非難される場所に通いたいとは思いません。非難されないことで、AAがその人にとって「安全な場所」と受け止められるのでしょう。
AAは自省を大事にします。「自分に正直になれ」と言われますし、ミーティングでは正直な話をしろと言われます。それは他者から指摘されるのではなく、自分で自分の欠点を見つけていくことを大事にしているからです。しかし、自分で自分を評価するのは、他者に評価されるのに比べて、甘い評価になるものです。人間誰しもそうで、アル中も例外ではありません。
わざわざ自分に罪悪感や自責の念を強く呼び起こすような考えを持とうとする人はいません。だから、過去のトラブルについて、自分のやったことは責任を軽く、相手が自分にしたことは責任を重く評価してしまうものです。そもそも悪いことは思い出さないでおくにこしたことはない、という戦略も使います。
そのままだと、多責的で、批判に弱く、自分と違った意見を許容できない、という飲んでいた頃そのままの性格が残ってしまいます。だからこそAAはスポンサーシップを大切にします。「スポンサーが厳しい」と言う人が多いのですが、それはスポンサーはその人の欠点を指摘する役割だからです。ステップ4・5の棚卸しを通じて、過去の行動がどのように他者を傷つけ、悩ませてきたか指摘する役割をスポンサーが担っています。12ステップを経験することで、バランスの取れた自己評価と、批判や自分と違った意見を受け止める力を身につけていけます。
AAメンバーの約半数はスポンサーを持っていませんし、持っていたとしても「悩んだときの相談役」ぐらいにしか捉えておらずスポンサーを活用していない人もいます。だから「打たれ弱い」回復をする人も少なくありません。打たれ弱いとは、批判を受けると強く落ち込んだり、批判を回避しようと大事なことを放棄してしまう傾向があるということです。AA内でサービスの役割に就いたり、何かのイベントの実行委員長に就いたとき、成功の基準が「批判や非難を受けないこと」だったりするわけです。価値基準が歪んでますよね。
AAのミーティングは「言いっぱなし、聞きっぱなし」とされ、対話やクロストークを排除しています。このことは分かちあいが非難の応報になるのを避ける点では都合がよく、参加者に「この場所が安全だ」と感じさせる利点があります。しかしながら世間は「言いっぱなし、聞きっぱなし」ではありません。休職が終わって復職したり、あらたに就職したりして、責任を負うようになると、注意や警告を受けたり、些細な失敗を指摘されることは避けられません。そのたびに激しく落ち込んでしまったり、興奮してしまうようでは、社会の中で生きていくのは大変です。
AAでミーティング中心で回復している人の中には、何年たっても「AAミーティングだけが安全な場所」だと感じている人もいます。その人にとっては職場も(ひょっとしたら家庭も)危険な場所なのでしょうか。人間には確かに安全な場所が必要です。それは荒海を航海する船にとっての港のようなものです。朝、家庭という港から出港し、職場という港に着く。夕方になればその港を出て、AAミーティングという港に行き、そしてそこを出て家庭という港に戻る。このように、港から港へと航行する人生は充実して幸せでしょう。しかし、AAミーティングという港しか持たない人にとっては、家庭や職場は批判という嵐が荒れ狂う海なのでしょうか。そうなってしまったのは、環境のせいではなく、自分を変えてこなかったからなんですけどね。
こんな感じで、本人だけの集まりであるAAでは、打たれ弱い回復になってしまいがちです。それを避けるためには厳しく回復をサポートしてくれるスポンサーの存在が欠かせないでしょう。
もちろん、AAでもオープンミーティングに家族がたくさん参加しているグループでは断酒会みたいな力関係が働きますし、断酒会でも本人中心の会だとAAみたいな感じになっちゃったりするでしょうから、AAでは、断酒会では、と単純化できるものではないですね。
ともあれ、AAというのはミーティングとスポンサーシップの組み合わせが必須のものだと思いますし、本人だけで「言いっぱなし、聞きっぱなし」のミーティングをやっているだけでは、足腰の強い回復を生み出すことは難しいのじゃないかと思うわけです。
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