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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2013年02月03日(日) 解決したいと思えるようになりたい段階 知り合いのAAメンバーがmixiでこんなエントリを紹介していたので、高速バスで移動中に読んでいました。
うつ病 「心」と「現実」の混同は誤り
拠りどころ喪失が大きな要因に
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/2550
加藤諦三という人が正統派?の心理学者なのかどうかは知りません。この人のすごいところは、ずっとラジオの人生相談を続けてきたことです。
僕は「量はやがて質になる」ということを信じています。理屈ばっかり言っていても役に立ちません。場数を踏むことが大切で、たくさん経験を積めば、その中から何らかの法則性を見いだすこともできるだろう、という考えです。(もちろん量を質に変えるにはそれなりのセンスも必要でしょうけど)。
4ページ目、「ラジオで人生相談をしていますが、悩んでいる人たちは解決を求めているのではなく、苦しんでいる姿を伝えるために電話をかけて来ることが多い」という話が一番頷けました。
私は悩んでいる、苦しんでいると言う人はたくさんいます。(実はそれが言えずにいる人も多く、言えるだけでもたいしたものなのですが、それは別の話で)。悩んでいると言うからには、その悩みが解決した方が良いと考えているのでしょう。
それに対して「このような解決方法がありますよ」と言っても、「じゃあ、さっそくそれをやってみます」という人ばかりではありません。むしろ、何もせずに今までどおりのことを続け、ふたたび同じ相談を持ち込んでくる人のほうがずっと多いのです。
なぜその人たちは、解決方法を拒むのか。それは、その解決方法が、自分の側に何らかの労力が必要だったり、自分を変える努力が必要だったりするからなのだと思います。
文中にうつの例が挙げられています。うつ病の本質は憎しみの表れ、というのはよくある話です。
憎しみは12ステップの用語では恨みです。憎しみを持っている人は、だいたいこう考えています。「自分にはたいした落ち度はない。悪いのは相手であって、相手が態度を改めれば問題は解決する」と。相手を変えることに成功することもありますが、現実にはそれが難しいことも多い。そうなると、その人の中で問題は解決不能になってしまいます。なぜなら、その人は労力を割いたり、自分を変えるつもりがないからです。
例えば僕が駐車場に戻ってみたら、駐めて置いた車の窓ガラスが何者かにたたき割られ、中の金品が盗まれていたとします。その時に「僕には何も落ち度はない。悪いのは犯人なのだから、犯人が金品を返し、車を修理して僕に帰してくれるべきだ。それまで僕は何もしないぞ!」と言っていても何も解決しません。僕がしなければならないことは、警察に届け、保険会社に連絡し、車を修理工場に預けることなどなどです。
そうした被害に遭うことは理不尽なことだし、そのおかげで余計な手間もかかります。でも、理不尽なことが起きない人生なんてありません。理不尽な目に遭うたびに、誰かを憎んで、うつになったり酒を飲んでいたりしても、自分が余計損をするだけです。
うつ病で環境調整するのだって、職場を変えることも本人にとっては余計な手間で、その手間を拒めば解決は遠のくわけです。
人は悩みや苦しみを打ち明けて、話を聞いてもらうだけで楽になることもあります。身近に話を聞いてくれる人がいるのは大きな幸せだと思います。人はそうやって、話を聞いてもらって楽になる、ということを学習してしまうのかもしれません。
そして、ふたたび苦しみが募ると、同じように話をして楽になろうとします。仮に誰かが解決策を示してくれたとしても、それを拒んで同じことを繰り返している。苦しんでいるのですが、解決策は求めていない。
自力で酒をやめようとして、何年かおきに飲酒を繰り返すアル中の姿にどこか似ている気がします。ビッグブックに "He wants to want to stop" という言葉があります。自分は「酒をやめたい」と思っているつもりでも、実はまだその段階に至っておらず実情は「酒をやめたいと思えるようになりたい」という段階です(そういう人でも、口では酒をやめたいと言います)。
同じように、自分では「悩みや苦しみの解決を求めている」というつもりでも、まだその前段階という人も少なくありません。
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