心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2012年06月29日(金) 発達障害ネタ

スポンシーさんとステップワークをやっていました。彼が持ってきた紙束の中から、棚卸し表を取り出そうとするのですが、なかなか見つかりません。「あれ、どこ行っちゃったかな。忘れちゃったかな」と言いながら数分探し続けたのですが見つかりません。こちらも、表がなかったら今日はどうしようかなどと考えながら待っていると、そのうち「あ、ここだ」と脇に置いてあった棚卸し表の束が見つかりました。

鞄から他のものを取り出すのに邪魔だったので、棚卸し表を取りのけて脇に置いたのを、すっかり忘れてしまっていた、という話でした。

実は彼は発達障害の疑いで専門医を受診しているのですが、医師によれば、そのように「ついさっき物をどこかに置いたことを忘れて探し回る」というのは、ADHD(注意欠陥多動性障害)の典型的な症状なのだそうです。

・・・そんなんだったら、いくらでもある僕です。

実は先日の夜も、風呂上がりにドライヤーで髪を乾かし終え、メガネをかけようと周囲を探したのですが、メガネが見あたりません。普段だったら、ドライヤーをかける前にメガネを外してテーブルの上などに置くので、あちこち探したのですが見つかりません。埒があかないので家人にも手伝ってもらうのですが、それでも見つかりません。「風呂に置いてきたのではないか」「二階にあるのではないか」と言われ、自分の記憶はハッキリしてないのですが、普段どおりこの辺に置いたはずなので、風呂や二階という可能性はないはずでした(ええ、そうに違いありません)。

数分後、ふと気がついてお風呂を見に行ってみると、湯船の底にメガネが沈んでいました。メガネをタオルでぬぐいながら風呂から出てきたら、家人にはすっかり呆れられてしまいました。

こういうADHD的な僕が、アスペルガーとか自閉圏の多いIT業界で働いているので、結構気疲れするわけです(慣れますけどね)。

この雑記では以前、発達障害に関する連続記事を書いたことがありました。知的障害→自閉圏と話を進めて、次にADHD、最後に杉山先生が唱える「第四の発達障害」(虐待による発達障害)で締めくくる予定でしたが、ADHDの話の前で途切れてしまいました。

最近、雑談の中で聞いた話だったので、元ネタはどこか忘れましたが、発達障害と診断される人で、純粋なADHDの人はほとんどいない、という話でした。でも、実際にはADHDと診断される大人は結構いるわけです。それは、発達障害の診断に慣れていない医師が、心理検査の結果に頼りすぎて、目の前の患者の特性を見落としてしまった結果、ADHDという診断を下してしまうからではないか、という話がくっついていました。

国際的な診断基準では、ADHDと自閉圏の症状が重なっている場合には、自閉圏の診断を優先する決まりです。だから、アスペルガー症候群とか、高機能自閉症とか、PDDNOSとか、広汎性発達障害とかの診断名がつくはずのものが、ADHDという診断になってしまっている。実際にその人の社会適合を妨げているのは、ADHDの症状より自閉的な症状であるのに、それが無視される結果になっているわけです。

僕も、純粋なADHDの人で、発達障害の診断を受ける大人は珍しいのではないかと思っています。いるとすれば、余程症状の激しい人でしょう。以前テレビでADHDの女性の生活を放映していました。それは最初はキッチンで料理をしている場面で始まります。そこで宅急便が来て呼び鈴を鳴らすと、鍋を火にかけたままそれに応対しようと玄関に向かいます。戻ってくる途中で洗濯が終わっているのに気づき、洗濯機から取り出して干し始めます。そこへ電話がかかってきたので、話に夢中になり、やがて焦げ臭い匂いに気づき・・という流れでした。さすがにここまでの人は珍しいでしょう。

ADHDは子供の頃は顕著なものの、脳が成長する連れてバランスが取れて症状が治まっていき、成人する頃には目立たなくなるケースが多いわけです。(それが連続記事が途絶えた理由でもある)。むしろ自閉の社会性の障害のほうが、適応の障害になりがちです。

別の話ですが、病名のかっこよさ悪さってのはあると思います。

佐々木倫子の『おたんこナース』というマンガに、糖尿病という病気はかっこわるいという話が出てきます(病名に尿がついているから)。精神科の病名だと、統合失調症という病名は忌み嫌われるけれど、うつ病だったらオッケーという風潮があるように思います(昔だったら神経症とかはオッケーだった)。

発達障害というジャンルにも、似たような雰囲気があって、例えばアスペルガーっていうと「なんか頭がよさそうな感じ」とか(実際には自閉の症状がやや重度という意味)。自閉症よりADHDのほうがマシに感じられるとか・・・。

そういう雰囲気を背景に、自閉よりADHDのほうが本人も家族も受容しやすいというので、そちらを選んでしまう医師がいる・・・というのは雑談レベルの話なので、まともに取り合ってもらっちゃ困りますけどね。

ある場所で自分をADHDだと言っている人の話を聞いていたのですが、待ち合わせの予定に遅れるのがADHDの症状だと言っていました。確かに、待ち合わせの予定そのものを失念してしまうのは、ADHDの症状としてありがちなことです。でも、話の中身は、待ち合わせの予定から逆算して、何時に家を出れば間に合うか計画を立てる能力のことを言っていましたから、それは自閉の問題です。適切な支援策を受ければ、問題は緩和するはずなのですけどね。ADHDという診断がミスマッチを招いているわけです。

話はさらに飛んで、アメリカのAAはADHD的文化で、どんどん変えていくのを良しとし、日本のAAは自閉文化で、いつまでも変わらないことを良しとする、なんて言った人がいました。(日本人からすれば、そもそもアメリカという国全体がADHD的に感じますけど)。

日本のAAでは「先ゆく仲間からの述べ伝え」などと言って、先達から受け継いだやり方を変えないことが良いという雰囲気があります。たぶん始めたときにたまたまそうなっただけで、そうした意味は大してないのに、ともかく「変えてはいけない」という雰囲気が強いのです(自閉的こだわり)。

例えばバースディミーティングとかも、そのグループのやり方が「式次第」みたいに決まっていて、ちょっとでも変えると「違う!」とか指弾されちゃったりして。新しく司会進行役をする仲間が、オールドタイマーから何か言われやしないかと緊張しまくりとかね。(ADHD的な)僕に言わせれば、本質が保たれていればやり方なんてどうだって良いじゃねーかよ、と思うんですけどね。

えーと、何の話でしたっけ。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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