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2012年06月18日(月) 12の伝統の解釈自由度

AAの12ステップは個人の自由な解釈の余地を大きく残しています。
だから、ある人のステップのやり方を「間違っている」と断ずることはなかなかできるものではありません。

ただやはり、12のステップには「本質」とでも言うべき事柄はあるように思います。それは二つ。一つは「棚卸し」(ステップ4・5)です。これは自分のどこが間違っていて、どこが悪かったのか、書き出して、他者から指摘を受けるステップです。もう一つは「埋め合わせ」(ステップ8・9)です。こちらは、自分の過去の過ちを相手に謝罪しに行くステップです。ステップ10はこの二つの繰り返しです。

だから、「棚卸し」と「埋め合わせ」の両方がそれなりにできていれば、ステップとして効果が出てくるだろう・・というのが僕の考えです。この二つが欠けてしまうと、いくら12ステップを自由に解釈して良いとは言え、効果が期待できなくなるんじゃないかと思います。

棚卸しのステップ5は「神に対し、自分に対し、そしてもう一人の人に対して、自分の過ちの本質をありのままに認めた」となっています。「もう一人の人」は自分以外の人です。誰だって自分の間違いを他の人に認めることはしたくありません。まして、その相手がもっと鋭いツッコミをしてくる可能性があれば、なおさら嫌です。だから、このステップ5を避けて通ろうとする人は少なくありません。

最近こんなことを聞き及びました。某所で、「この<もう一人の人>は、自分の中の<もう一人の人>ではいけないのでしょうか?」と聞かれた精神科医が、「それで良い」と答えてしまったという話です。たぶん、その先生は12ステップには詳しくなかったのでしょう(普通医者は12ステップには詳しくない)。

自分の中の<もう一人の人>というのは、例えば自分の良心などを指した言葉でしょう。それを<もう一人の人>にするわけにはいかないでしょうね。他者に評価してもらうのがステップ5の肝心なところです。先生は善意でアドバイスしてくださったのでしょうが、真に受けたメンバーがいたとしたらご愁傷様です。

さて、12のステップが個人の回復に関わるもので、12の伝統はAAグループに対する指針です。
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/aa-jso/ftradit.htm
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/aa-jso/ftradit2.htm

12の伝統も、12のステップと同じように、どのように解釈するかは各グループに大きな自由度を許しているのでしょう。であるのに、「伝統」が「ルール」であるかのように思い込んでしまう人もいます。

自分の12ステップの解釈を人に押しつけようとするメンバーは嫌われがちです。同じように、12の伝統の自分の解釈を人に押しつけようとすれば嫌われるでしょう。

伝統の11番には、AAの広報活動は「宣伝よりもひきつける魅力」に基づくべきだとあります。promotion ではなく attraction であるべき、という話です。日本のAAメンバーは、これはAAの宣伝をしてはいけないという意味だと解釈する人が多いようです。

しかし、海外ではテレビやラジオでAAのコマーシャルが流れており、YouTubeで探して見ることもできます。WSM報告書には、オーストラリアで駅にAAの広告を出したところ、ホームページのヒット数が激増したという報告が載っています。

海外のやり方が間違っているとも、日本の伝統の解釈が間違っているとも言いづらいものです。12の伝統の解釈がそれぞれに違っていて構わないということでしょう。例えば、国内で、あるAAグループはローカル新聞に広告をだして存在を世間に知らせ、別のグループはそうしたことはしない・・というのもありでしょう。

伝統の6番は、AAの外部に対してAAの名前を使うべきではない、とあります。AAメンバーが個人としてどんな活動に参加しようと自由だけれど、AAが団体として別の団体の傘下に入るのは良くないという趣旨です。

ウィリアム・ホワイト先生が音頭を取っている Faces and Voices of Recovery という団体のサイトからたどっていろいろ見ていると、アメリカでは結構いろんな集まりに、AAが「団体として」参加していることに気づかされます。日本のAAメンバーのなかには、それは伝統違反なのではと疑問を唱える人もいることでしょう。向こうでは、他の団体の傘下に入らなければ、参加団体として名を連ねることは禁忌とはされていないわけですね。

これも伝統の解釈の違いなのでしょう。12のステップ同様に、12の伝統も解釈に幅があって良いものです。日本の中でも場所場所で解釈が違っても構いません。

でも、先ほど12のステップでも例を挙げましたが、自由な解釈が許されるとしても、当然「明らかな逸脱」はダメなわけで、12の伝統についても「明らかな逸脱」を許していては、伝統の存在意味がなくなってしまいます。当然そういう場合には、決然とした態度が必要にもなるでしょう。

評議会や理事会は12の伝統の「最終的な守り手」であるとされています。だから、評議会や理事会あてに「この件は12の伝統に照らしてどうなのか」という判断を求める声が出てきます。その声には、(本来自由な解釈が許されるものに対して)全国一律の解釈基準を作って欲しいという意図が含まれているような気がすることもあります。

評議会や理事会が「最終的な守り手」とされているのは、そうした基準を提供する立場にあるというわけではなく、「明らかな逸脱」がAA全体に広まらないような番人たれ、ということです。決して、12の伝統の解釈について権威的な機関があるというわけではありません。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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