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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2012年03月16日(金) 渇望という言葉 アル中(アルコール依存症)に対するありがちな誤解を一つ挙げます。
「なぜ、私たちは酒を我慢できるのに、この人は我慢できないのでしょう?」と家族の方から聞かれることがあります。
その時に僕は「あなたは特に酒を我慢していないでしょう」と申し上げることにしています。
僕は職場の忘年会や歓送迎会で酒席に出ることがあります。そこで(依存症でない)普通の人たちの酒の飲み方を観察すると、それは明らかに依存症の人の飲み方とは違っています。ビール瓶を持ってお酌に回ることもありますが、相手がすでにビールを2〜3杯飲んでいるときは、「もう要らない」と言われることもありますし、儀礼上お酌はしても相手は口を付けただけで、実際にはほとんど飲んでいないこともあります。
これはつまり、「もう満足したから、これ以上は要らない」ということです。もう十分満足しているので、それ以上は飲みたくないのです。つまりそこには何の我慢もありません。お腹一杯食べたから、もう食べられない、と言っているのと同じです。依存症でない人は、我慢しなくても、自然にコントロールできてしまいます。
<アルコール依存症でない人は、ちっとも酒を我慢なんかしていません>
では、アルコール依存症の人の場合はどうか。アル中は2〜3杯のビールでは満足できません。もっと「しっかりした酔い」を目指して杯を重ねていきます。そうして飲み過ぎてはトラブルを起こします。なぜそんなに飲むのか。酒に意地汚いのか、酒が大好きなのか?
シルクワース博士は、多くのアルコホーリクを観察した結果(彼は生涯に5万人のアルコホーリクを診たそうです)、アルコホーリクには次の酒を求めてやまない強い欲求が備わっていることを発見しました。その強い欲求は、アル中が酒を飲まないでいる間は存在せず、アルコールを体の中に入れることで発生します。博士はこれを「渇望現象」(the phenomenon of craving)と名付けました。
この博士の主張はアル中たちの実体験とよく重なっていたため、ビッグブックでは「かつての問題飲酒者には、この博士の説明は実にしっくりくる。それ以外には説明のしようがない多くのことが、この理論で説明される」(p.xxxiii(33))と賛同を示しています。
この「渇望」は非常に強い欲求であるため、それに逆らって酒の量をコントロールするのは大変な苦労です。しかし、まともな生活を送ろうと思ったら、なんとか酒の量を抑えなければなりません。なので、依存症者は渇望に逆らって、なんとか次の酒に手を付けないように、ものすごく「我慢」をしています。
<アルコール依存症の人は、普通の人とは比べものにならないぐらい、一生懸命「我慢」している>
しかし、渇望はとても強いので、ついには負けてしまい、飲んだくれてしまいます。「彼らは逃避するために飲んだのではなく、自分の精神ではコントロールできない渇望に屈して飲んだのである」(p.xxxvii(37))。
飲み出せば、いつか必ず渇望現象が高まり、そのために酒をコントロールできなくなり、トラブルを起こしてしまう。解決は「まったく飲まないこと」しかあり得なくなります。
依存症でない人は、我慢しなくても自然にコントロールできます。一方、依存症の人は一生懸命我慢しているのですが、どんなに我慢しても結局は酒をコントロールできません。
さて、ここで「渇望」という言葉にまつわる話をします。
「酒をやめてもう半年になるけれど、いまだに渇望がある」と言う人もいるかもしれません。しかし、その種の欲求は「渇望」ではありません。シルクワース博士の言う「渇望」は、あくまで最初の一杯に手を付けた後に沸き起こってくるものです。酒をやめて期間が過ぎていれば、渇望はもうなくなっているはずです。でもなお「飲みたい気持ち」があるのでしょうが、それについてはシルクワース博士は「強迫観念」という別の言葉で示しています。
ネットの掲示板やブログでは「飲酒欲求」という言葉を見かけます。その言葉は概ね「酒をやめた後もまだ残っている、酒が飲みたい気持ち」について述べられています。それは渇望とは違います。
酒を飲みたい気持ちは、酒をやめる前にもあるし(渇望)、酒をやめた後もあります(強迫観念)。それを一緒くたにせず、明確に分けたところにシルクワース博士の功績があります。
自分の過去の飲酒体験に照らし合わせて渇望をよく理解すると、「なぜ再飲酒を避けなければいけないのか」が分かります。そうなると、酒をやめ続けたいという動機が生まれます。たいていのアル中には「次は違った飲み方ができるかも知れない」という妄想を、多かれ少なかれ抱えています。(でなければ、なぜ再飲酒するのでしょう?)
craving という言葉に「渇望」という日本語を当てたのは、あまり良くなかったのかも知れません。辞書で「渇望」という言葉を引くと、「のどが渇いて水をほしがるように、しきりに望むこと」とあります。これだけ読めば、最初の一杯を飲みたい飲酒欲求と区別がつきません。
シルクワース博士の説明や、それを受け継いだAAのビッグブックや12ステップでは、「渇望」はあくまで最初の一杯を飲んだ後にやってくるもので、最初の一杯に手を付けたい願望とは違います。しかし、渇望という言葉は、アディクションにまつわる精神医学全般でも使われており、そちらでは、飲む前と飲んだ後の区別を付けることなく使われていることが多いように思います。
どちらの使い方が合っているとか、間違っているとかの話ではありません。あくまでビッグブックの12ステップではこう使っているのですよ、という話です。
実は、その使われ方の違いは、僕も最近になるまで知りませんでした。ギャンブルへの依存が、アルコールや薬物の依存と同じであることを説明するのに、この渇望現象の共通性が言われることがあります。けれど、そこで使われている「渇望」が、必ずしもビッグブックでの意味と同じとは限りません。
もし、ビッグブックどおりの渇望の意味をギャンブルに適用すると、こんなストーリーが展開できます。
ギャンブルに問題を抱える人物がいます。彼はもう半年パチンコを断っています。けれど、彼の心の中には「もう一度パチンコを楽しみたい」という欲求が大きくなったり小さくなったりしています(これは渇望ではない)。ある日、彼はその欲求に負けてパチンコ屋に入ります。この段階ではまだ渇望は起きていません。
彼は、今日は五千円だけ楽しもう、そうすれば小遣いの範囲内だ、と考えます。しかし、五千円を使い尽くしても、まだ彼は席を立つことができません。彼の中に渇望がわき上がり、もっとパチンコをという強い欲求に彼は支配されてしまったのです。彼は財布の中身を全部使い切っても足りず、近所のサラ金で何万円も借りてきてパチンコを続け、閉店時間が来て店の外に出されたときには、大変な後悔に襲われています。
普通の人であれば、2〜3杯のビールで満足し、それ以上欲しがりませんし、次の用事をキャンセルしてでもパチンコを打ち続けたいとは思いません。けれど依存症の人は続けて「次」が欲しくてたまらなくなります。その背景には強大な「渇望」が存在します。この渇望の有無が、依存症の人とそうでない人を明確に分けるものです。
(ギャンブルで問題を起こしていても、どうみても渇望を備えていそうにない人もいます。もしビッグブックの考え方をギャンブルにも適用するならば、その人はギャンブルのアディクションではないことになります)
渇望現象、それから(この雑記には取り上げませんが)強迫観念、この二つで構成されているのがビッグブックのアディクション概念です。そして、アルコール以外の(例えば薬物やギャンブルも)このアディクション概念に当てはまるから、対象は違っても同じアディクションである、という主張があります。ならば、それらのアディクションも明確な渇望を備えているはずなのですが・・・、あまりそのことは理解されていないように思います。
AAの中ですら、飲酒欲求と渇望の区別がついていないことが多いのですから、こんな雑記も「とてもマニアックな話題」なってしまうわけです。
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