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2012年03月13日(火) AAミーティングはナラティブセラピーなのか?

ナラティブセラピーとは、自分自身の物語を語り直すことによる治療法とでも言いましょうか。先ほどちょっとググってみたら、主にトラウマ治療の現場で使われているようでした。

ナラティブという言葉は聴きなれないかもしれません。ナレーション(語ること)という言葉がありますが、ナラティブとは物語を語ることです。

ナラティブセラピーと社会構造主義は密接な関係にあります。社会構造主義とは社会学の言葉で、現実やその意味は、すべて人の頭の中で作られたものであり、意識を離れては存在しないという考え方です。

客観的事実がどうかではなく、それを体験した自分が経験をどう解釈するか。その解釈こそが現実であり真実であるということです。だとすれば、過去の体験の解釈を自分が変更すれば、体験の真実もその意味も変わってくるはずです。

精神的にお加減の悪い人はだいたいが過去の出来事に圧倒されており、その支配から脱することができない無力感を持っています。それはつまり「体験の解釈を変えることができずにいる」と言い換えられます。そこで、自分が生きてきた物語を語ることを試みます。それは最初は辛いことかもしれません(不都合な真実だから)。しかし何度も語りなおすことにより、今までの自分の解釈とは違った解釈が成り立ってきます。そうしれば自分にとっての過去の体験の意味も変わってきます。

ナラティブセラピーでは治療者と被治療者の間に上下関係はありません。社会構造主義の立場からすれば、「正しい解釈」も「間違った解釈」も存在しないわけですから、治療者が望ましい方向に導くというわけにはいきません。治療者と被治療者は平等な立場で新しい物語を作っていくことになります。「答えはその人が知っている」とか「あなたが問題なのじゃない、問題が問題なのだ」みたいなキーワードが散りばめられるのがナラティブセラピーの特徴です。

12ステップでは表を使って、その人の中にある問題を外在化させます。べてる式当事者研究ではホワイトボードを使います。ナラティブセラピーでは「物語」という外在化の手法を使っていると考えればいいのじゃないでしょうか。

ナラティブセラピーが日本に紹介されたのがいつなのか知りませんが、関連書の出版年を見ると20年ぐらい前であることがわかります。ちょうどそれは、日本で様々なジャンルの自助グループが誕生し、拡大しつつあった時期でした。

治療者・被治療者の上下関係を否定しているところ、語ることを重視する点など、自助グループの文化とナラティブセラピーの文化は近いものがありました。だから、自助グループがナラティブセラピーのピア版(当事者版)であると誤解されてしまったのではないか・・・。僕はそう思っているのです。その結果、自助グループ文化がナラティブ文化に誘導されてしまい、12ステップから離れていってしまったのではないか、・・・そんな風に考えています。

例えば、「他では言えないこと(恥ずかしいことや辛いこと)をグループの中で話せるようになることが大事だ」だとか、「自分の飲んで酷かったころの話ができると回復する」なんて言われたことはありませんか? こんな考え方にはナラティブ文化の影響を感じるんですけど、気のせいでしょうか?

(ミーティングで酷かったころの自分の話ができないと「正直になれないと回復しないぞ!」とか非難されちゃうんだうよなぁ。うまく話ができる人ばかりじゃないんだけど)

また、ライフストーリー形式の棚卸しなんて、まさにナラティブセラピーのピア版そのものじゃないかと思えてきます。話すほうはノートに書き溜めた自分の物語をひたすら話す。聞くほうはただ聞く・・・。30年ぐらい前の棚卸しの経験を聞くと、スポンサーはただ聞いているだけじゃなかったそうですが、いつの間に「ただ聞くだけ」になってしまったのでしょうか?

ビッグブックの12ステップをやってみて気づいたのは、12ステップでは物語を語ることは重視されていないことです。そして棚卸表を書くときは自分で自身を分析し、ステップ5で相手をするスポンサーは、スポンシーが正しい解釈へとたどり着くように手助けします。「正しさ」「望ましさ」の追求は12ステップ全体を貫く原理です。

こう考えると、12ステップとナラティブセラピーは対極的なアプローチです。だから、12ステップグループにナラティブ文化が及んできたとき、12ステップの力が弱まり、導き手たるスポンサーを求める人は減っていったのではないか・・・。ま、今となっては確かめようがない昔の話ですが。

ジョー・マキューは、他の治療法の影響によって、AAの12ステップが「薄まった」結果、AAの有効性が徐々に失われたと主張しています。同じことは北米だけでなく日本でも起きたんじゃないでしょうか。

もう少し、AAなどの12ステップグループはは本来語り重視じゃない、という話を続けます。

日本のAAでは、新しくやってきた人にも、なるべく早くミーティングで話をするように薦められます。もちろん話をせずに「パス」して、ただ聞くことに徹することもできますが、「話すことが回復につながる」という考え方があります。ところがアメリカのAAメンバーに聞くと、あちらでは新しく来た人に対しては、半年か1年ぐらいはミーティングで話をせず、他の人の話をだまって聞くように提案されるのだそうです。新しい人というのは身勝手な自己主張をすることが多く(いるよね、日本でもそういう人)、それが自省や回復の妨げになる、というのがその理由だそうです。

また drunkalogue(ドランカローグ)という言葉があります。drunk は飲んだくれ、logueは「語り」という接尾語です。いわば「飲酒譚」。酒を飲んでトラブルを起こし、社会的に次第に落ちぶれていくストーリーは、時に切なく、時には笑が取れる話で、聞いていて楽しいものです。しかし、あちらのミーティングではドランカローグをとうとうと語る人は好まれないのだそうです。

その理由のひとつが「酷かったころの自分の話」は、しばしば自慢話に過ぎなくなってしまうからです。人はポジティブなことばかりでなく、ネガティブなことも自慢します。もうひとつは、ドランカローグの内容は人によって違います。そのせいでAAの序文にもある「共通する問題」がぼやけてしまうからです。

AAミーティングは、人によって違う問題、違う解決法を分かち合う場所じゃありません。共通する問題、共通の解決方法を分かち合う場所です。ドランカローグは耳目を集めますが、メッセージを運ぶ手段としては良くないのでしょう。

日本のAAは人数がなかなか増えてくれません。けれど、AAミーティングには新しい人は結構やってきます。しかし、続けて出る人は多くありません。一番問題視されているのは、2〜3年するとAAを去っていってしまう人たちの存在です。メンバーシップ・サーヴェイを見ると、この年数あたりでメンバー数のグラフがどんどん縮んでいます。なぜ人がAAを離れていくのか。それはもうAAに魅力を感じなくなったからでしょう。その人たちも、自分自身の問題や自分なりの解決を見つけたからこそ、AAに留まっていたのでしょう。たぶんナラティブな効果によって。しかし、その間にメンバー皆に「共通する問題」や「共通の解決方法(12ステップ)」に触れることができなかったからこそ、もう自分にはAAは必要ないと結論付けて去ってしまったのではないでしょうか。

去っていった人たちが悪いのではなく、「共通する問題」「共通の解決」を提供できないでいる日本のAAに問題があるのだと思います。僕が「AAのメンバーを増やす最善の方法は、いまAAにいるメンバー一人一人が12ステップをやることです」と言うのはそのことです。

ナラティブセラピーは、その専門家に任せておけばいいじゃないですか。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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