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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2012年02月14日(火) 受容と承認 心理学や哲学は、人間の欲望を解明しようとしてきました。フロイトの性欲説、マズローの欲求段階説、アドラーの優越追求説、ロジャーズの自己実現と承認欲求の対立。いずれも、人間の欲求を構造化することで把握し理解しようとする試みです。
『12のステップの12の伝統』のステップ4では、人間の欲求を、共存本能・安全本能・性本能の3分野に分類するという独自の構造化が行われています。
共存本能の例としてあげられているのが「仲間作りの欲求(companionship)」です。これは人の集団に所属したい、仲間として受け入れられ、価値ある存在として認められたいという欲望です。マズローの欲求段階説で言えば、第3段階の所属と愛の欲求・第4段階の承認の欲求にあたるのでしょうか。
12ステップでは人間の本能(欲求)を「神から与えられた善いもの」として必要なものであり、どれが良いもので、どれが悪いという扱いはしていません。ただ、いずれかの本能(欲求)が暴走すると、自分の持つ他の欲求を抑圧したり、同じように欲求を抱えた他者との衝突を招きます。そうした偏りを招くのが、私たちの持っている欠点だとしています。
ついでに言うと、そうした欠点が首尾良く取り除かれれば、自分の中の様々な欲求を、同じような他者との関係を見極めつつ、バランス良く充足させて生きていくことが人にはできる・・という性善説というか、楽天性が12ステップにはあります。そうした楽天性は、親に存分に愛されて育った人が持っている楽天性に通じるものだと思います。ほら、そういう人って、心にぽっかり穴が開いた人間から見ると鼻持ちならないほどの自己効力感の持ち主だったりするじゃないですか。でもそうした楽天性を持っていたほうが、逆境に強く、自分の能力を発揮して生きていけるように思います。
で、所属と承認欲求の話に戻ります。普段この雑記にはスポンシーだとか僕の身近な人々のことは書きません。それは書いて欲しくないだろうと思うからです(どうせロクでもないことしか書かないし)。でも、たまには書いてしまいます(もちろん気を使いながら)。
ずいぶん前になりますが、AAスポンシーが「僕はホームグループのみんなに受け入れられているのでしょうか?」と尋ねてきたことがありました。「受け入れられているか?」という質問は、裏返せば「受け入れられていないように感じる」とか、「受け入れられていないような気がして不安だ」という意味でしょう。一緒にいてもなんとなく疎外感を味わっているとでも言いましょうか。集団の中の孤独感。
じゃあ、彼がこう言っているんだけど、とグループの他のメンバーに伝えたとしたら、みんなは首を横に激しくふるでしょう。受け入れてないなんてとんでもない! 存分に仲間扱いしているじゃないかと。もし彼がASD(具体的にはアスペルガー症候群)だということを皆が知っていなかったら、中には「言いがかり」だと言って怒り出す人もいるかもしれません。いないけど。
どうしてこのようなギャップが生じてしまうのか。きっとそれも発達障害の特性ゆえではないかと思います。
自閉の三要素は、想像力の障害・コミュニケーションの障害・社会性の障害です。社会性の障害は、前者二つの障害の結果だとされます。よく「空気が読めない」と表現されるのは、想像力の障害にカテゴライズされます。そして、先ほどの、十分に受け入れられているのに、受け入れられていないと感じるのは、このKY特性ゆえではないかと、僕は捉えています。
人間同士のコミュニケーションには、非言語的なメッセージもたくさん使われています。その中には、「あなたは私たちの仲間ですよ」「受け入れていますよ」というメッセージを、表情や身体的な所作で表現することも含まれています。(逆に邪魔だからとっとと出て行けという非言語的メッセージが発せられる場合ももちろんある)。
グループの仲間、あるいは職場の同僚や、家族。そうした自分を囲む人たちが、「私はあなたを受け入れています」というメッセージを発していたとしても、そのメッセージを受け取ることが苦手であれば、受け入れられていることが実感できず、疎外感すら感じてしまうでしょう。その苦手さに発達障害の特性が絡んでいるだろうという話です。
よく「自分の意見が否定されたとしても、自分という存在が否定されたわけじゃない」と言います。意見を否定されることと、所属と承認を拒否されることは違うということです。しかし、意見が言語的コミュニケーションで否定されつつ、同時に所属と承認が非言語的に伝えられるとしたら、自閉圏の人たちはどう受け取ってしまうでしょうか。意見を否定された以上、自分という存在はここでは望まれていないのだ、と捉えてしまうことが十分あり得るでしょう。
「仲間作りの欲求(companionship)」というのは、とても強いものです。しかし自閉圏の人は、その欲求を満たそうとする努力に見合っただけの成果を受け取れない(受け取っているのに感じられない)という困難を抱えているのではないか、というコンセプトです。
感度が鈍いんだったら、強く刺激すりゃいい、っていう考え方もあります。AAグループの中にも、大変真面目で、なおかつホモソーシャルな雰囲気のところもあります。妙に体育会系のノリだとか。そんな風に文化を単一化すれば、それに合わせることができる人は、所属と承認を十分に感じることで安心感を得られます。ある依存症施設では、「愛」や「仲間」という単語が使われ、ハグをして仲間意識を高めあっています。アイコン的単語を繰り返し、ハグというオーバーアクションの分かりやすい所作によって、疎外感を取り除く努力とでも言いましょうか。なるほど、そういうやり方もあるのか、と納得です。
じゃあ、ひいらぎ、お前はなぜそういう戦略を取らないのだ、と言われるかも知れません。
ホームグラウンドに戻ればいつでも仲間が分かりやすく受容してくれる、ってのは素晴らしいことに違いありません。けれど人はそこだけで生きているわけではなく、ふつーのメッセージが飛び交う世間の中で生きていかなければなりません。たとえ感じられる受容と承認のシグナルがか細くても、確かに自分は受け入れられているという確信を持って進んで欲しいと思うからです。その為には、人は誰でも基本的には信頼できる、という人間存在に対する根源的な信頼を身につけて欲しいし、その為に12ステップは有効だと思うからです。つまり環境を変えるばかりではなく、本人が変わって欲しいわけです。(ま、だいたいAAはハグの文化じゃなくて、握手の文化だしね)。
受容と承認のメッセージは、おそらく親から子に向けられて発せられるものが最も強いのだと思います。「私は親から愛されなかった」という人は、それがアダルト・チルドレンとしての自覚につながっていることがしばしばあるのですが、その「愛されなかった」というのは果たして本当だろうか、と僕は疑いを持ちます。客観的に見れば、存分に愛されていることもしばしばだからです。となると、親が発するシグナルの絶対量が不足していた可能性ばかりでなく、子どもの側が信号を受け取る能力が弱い可能性にも目を配らなければならなくなってきます。
いずれにせよ、受容と承認は人間にとって大事な欲求だということでありましょう。
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