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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2011年10月13日(木) どこから手を付けるべきか(その3) 例外の話を続けます。
たいていどこの自治体でも、生活保護費の支給は月初めの5日あたりです。もらった保護費の全額をわずか2〜3日で酒に費やしてしまうアル中も珍しくないと聞きます。
僕は最初にこの話を聞いたときに、「それだけ酒が飲みたくてたまらんのだろう。同じ病気の人とはいえ、そこまで病気が進行すると大変だね」と、のほほんと考えていたのです。つまり、それはアルコール依存症という病気の現れ、と捉えたのです。
金が尽きたアル中さんは、福祉事務所に現れて金を無心します。そう言われたって福祉事務所の人も困るよね。そこで、現金を一括支給するのは止め、現物支給をします。お風呂券・お米券やタバコなどなど、これを一度にではなく小分けにして支給し、現金は必要最低限しか持たせないようにするわけです。仕事とはいえ、役所の人も大変です。
しかし多少なりともアディクションのことを学んでくると、この話は奇妙だと思うようになりました。
アクティブなアル中にとって、最も恐ろしいこと、最も嫌なことは何か。それは「酒が飲めなくなること」です。だから「飲む酒がなくならないように、次の酒をどうやって確保するか」を常に意識しています。次の酒が手に入らなくなるポピュラーな理由は、金がなくなることです。だから、手持ちの金でなるべく長い期間飲み続けようと、アル中は様々なことを考えます。
例えば今までは飲み屋で飲んでいたのを、酒屋で買って帰って家で飲むようになります(その方が安上がりだから)。やがて今まで飲んだことがなかったような、安酒に手を出し始めます。ホワイトリカーを水で薄めて飲むとか。
依存症も重度になってくると、渇望が強まり、我慢でそれにあらがうことが難しくなります。だから酒を手に入れるために、いい大人がコンビニで酒を万引きしたり、隣の家に侵入してその家の酒を飲んでつぶれたり、墓場の供え物のワンカップを飲んだ、という話がでてきます。
そんな事態は避けたいと思うからこそ、知恵を使い、少ない金で長く飲もうと工夫するわけです。
ところが、少なくとも数万円はある保護費を一気に使い切ってしまうからには、その人は安い酒を飲んでいるとは考えられません。飲む酒すら無くなるという決定的な戦略ミスを犯す原因は、おそらくは知的な障害です。アル中でないとは言いませんが、そういう生活に陥ってしまう原因はアルコール依存症だけではありません。なにかしら別の原因が潜んでいるものです。
知的障害というと、子供の頃に養護学校に通い、療育手帳を持っている人たちを想像するでしょう。実を言うとそういう人たちは「それなりに」恵まれています。なぜなら、国や自治体の様々な福祉施策の恩恵を受けることができるからです。
取り上げねばならないのは、障害を持っているのに知的障害と判定されなかった人たちや、それよりやや知的に高いために福祉施策の対象とされない人たちです。こういう人たちが、生活上の困難を抱えて、それを自力で解決できないなかで、アルコールを飲み続けた挙げ句に依存症になってしまうケースは少なくないと考えられます。
こういう人たちに生活保護費を与え、アルコール依存症の診断をし、二次障害としてのうつなどの服薬をさせ、AAに通わせている「だけ」では、なかなか断酒継続や社会復帰に結びついていきません。飲んではダメだと分かっていても、精神的に追いつめられると飲んでしまうのは、どのアル中にも共通のことですが、知的な問題を抱えた人たちは、生活上の障害からすぐに「精神的に追いつめられ」てしまいがちで、再飲酒を防ぐ力が弱いのです。だから、単なるアルコール依存症の援助だけでなく、生活の障害に焦点を当てた援助が必要になってきます。
彼らは知的に問題ない、と捉える人たちもいます。確かに養護学校ではなく普通学校に通った人であれば、新聞程度は(ところどころ漢字でつっかえても)読んでしまうし、まして毎日使っているAAのミーティングハンドブックはすらすら読めたりします。運転免許を持っているのも普通だし、過去にはきちんと就労していた実績を持ちます。
しかし、別種の障害があります。例えばお金の管理ができない。食料品や服の買い物ができない。ゴミの片づけができない。人に騙されやすい。困ったときに誰かに相談することができない・・などなど、「生活障害」に焦点をあてた支援がなければ、こういう人たちが社会的に自立して生活していくのは困難です。
障害者手帳や療育手帳を取って障害者枠での就労を目指すのが必ずしも正解とは限らないのでしょうが、そうでもしなければ受けられる福祉がないのが実情です。国は福祉予算を削減することばかり考えず、こうした人たちに適切な援助を提供して、就労自立に結びつけ、タックスペイヤーとしていくことも考えて欲しいものです。
(先日リカバリーパレードにも登場した)森川すいめい医師が調査したところ、ホームレスの3割に知的障害が認められたというレポートがありました。障害を抱えた人が社会の底辺に沈むのも「自己責任」なら、そこからはい上がるのも「自己責任」と社会が捉えていることがうかがえます。
先日、関東の某ドヤ街で訪問看護をやっている人たちのお話しをうかがいました。その人たちのやっていることは、前述の福祉事務所の話と同じです。お金を持たせておくと全部酒を飲んでしまう人たちからお金を預かり、毎日少しずつ渡したり、タバコを買って一箱ずつ渡したり。その話には「私たちのやっていることは、これでいいのか」という悩みも含まれていました。相手の人権を侵害している気持ちになってしまうのでしょう。
だから僕は、現実的にはそれしかないし、支持するというお話しをしました。もちろん、やっていることは問題の発生を防いでいるだけで、解決には至っていないし、それが訪問看護という枠組みの中でやるべきことだとは思えません。そこを問題として取り上げるよりも、仕事の枠組みの中で、できることをやっている姿勢に共感を表したかったのです。
気になったのは、アディクションを専門としているという人たちが、一緒に話を聞きながらも、知的障害という観点を持っていなさそうだったことです。
障害、とくに知能の問題はデリケートなものです。誰だって(これを読んでいるあなただって)知能検査を受けさせられて、挙げ句に「あなたは知能が低いですね」などと言われたくないでしょう。しかしながら、社会と個人の関係が変化するに連れて、どこまでを障害とするかの線引きも一緒に変動します。障害者というのは一種のレッテルであり、それを相手に張るのは「可哀想」と感じてしまうのは無理もありません。しかし、障害者という立場を手に入れることで、安定した就労に結びつき、その人らしく生きていけるようになった事例も紹介されています。
ことはアルコールに限りません。薬物依存でも、ギャンブル依存でも、はたまたアダルト・チルドレンの問題でも同じ事です。
アディクションに関わる人は、なかなかうまくいかない人が何らかの障害を抱えているのかも知れない、という観点を忘れずに持つようにしてほしいものです。その人の生活上の障害になっているのは何か。それがアディクションそのものなのか、別の問題が引き金となっているのか。そこを見極めることも大切です。
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