心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2011年08月18日(木) ACのステップについて(その2)

ところで、あるギャンブルの人が、GAを加害者の集まり、ギャマノンを被害者の集まりと呼びました。あまりそういう概念にとらわれて欲しくはありませんが、確かにそういう側面もあります。

アルコールについて言えば「酒害者」という言葉があります。酒の害を受けた人という意味です。その意味では、アルコホーリク本人も家族も被害者です。「あなたがこうなってしまった原因は何ですか?」と聞けば、酒のせいですと答える人は少なくないでしょう。もちろんそれは表面的な問題に過ぎないのですが、それでも、それをしっかりと正面から捉えることが必要です。

あるACの人に、「あなたがこうなってしまった原因は何ですか?」と尋ねたところ、親も悪いが自分にも原因がある・・・と口を濁していました。自分にも責任があるとか、ごにょごにょ言わなくていいのです。アル中にとって、酒が加害者であり悪であるように、ACにとっては親が加害者であり悪である、と明確に規定したって構わないのです。

しかし、被害者であることは「だから私は何もしなくて良い」という免責の理由にはなりません。回復というのは被害者の側が自分で行動しなくては得られないものなのです。

ところで、アルコホーリク本人は、酒の被害者であるとともに、家族にとっては加害者である点に注目して下さい。「被害者が加害者になる」という構図が成立しています。被害者だからと言って、他の人に害を与えることは正当化されません。本人は酒を飲んで周囲に迷惑をかけてきたことに対し、いつかは責任を取らねばなりません。しかし、AAでは(ということは似たような他のグループでも)、その事実に対してすぐに向き合えと言うのではなく、いったんそれは棚上げして、ともかく断酒を継続させ回復の下地を作ることに集中させる仕組みになっています。(そこが自己啓発セミナーなどと違うところです)。やがて、ステップ8・9で、自分が他者に与えた傷と直面することになります。(ここらへんは葛西賢太先生の『断酒か作り出す共同性』という本を参照)。

(話は逸れるけれど、最近の自助グループで12ステップの力が弱まっているのは、この一時的な免責をずっと保っていたいという意識の表れでしょうか。そういえば竹内先生は、断酒会が酒害者という言葉を使うことにクギをさしていらした。これも過度の免責を戒めるゆえでしょうか)。

アル中本人は、棚卸しをするまで、自分の生きづらさの本質が「自分が他者を傷つける傾向があるため」つまり言葉を変えれば加害者性にあるとは気づいていません。それどころか「自分は被害者だ」と主張するのに熱心である場合が多いのです。(仕事がうまくいかないのは上司が悪いし、子供がなつかないのは奥さんが子供に悪口を吹き込んだからである・・と言った具合)。

12ステップに加害者性という言葉は似合いませんが、説明のためにあえて書けば、回復とは自分の加害者性に aware であろうとする姿勢です。

アル中の周りの人はこう言いたいわけです。「君が被害者であることは分かったよ。大変だったね。でも、その話を続ける前に、君はいま僕の足を踏んでいるから、まずその足をどけてくれたまえ」

話をACに戻します。ACがACたる発端は、親のそうした振る舞いに被曝したからです。そういう意味では被害者です(アル中が酒の被害者であるのと同じ意味で)。しかしながら、大人となった現在の「生きづらさ」の本質は「自分が他者を傷つける傾向があるため」つまり加害者性にあります。「被害者が加害者になる」という構図がACの場合にも成立しています。被害者としての癒しを求めていたら回復はないし、12ステップは回復のためのものなのですから。

こうしてみると、ステップによってどんな成果が得られるか、ひと言で表すと、それは「社会性」という言葉に突き詰められるのかも知れません。ステップを11まで経験すると、スピリチュアルな目覚めを経験するとされています。あるアメリカの精神科医は、スピリチャリティを周囲の人々や社会、自然との一体感と呼びました。スピリチャリティと社会性には通じるところがありそうです。

次回は被害者性のケアについて

(続く)


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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