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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2011年03月07日(月) 死生観と終末期医療 なかなかニュースを見る時間もありません。朝のNHKニュースの冒頭部分と、新聞を少しめくるぐらい。あとは仕事中に時間があればニュースサイトを見ています。
ニュージーランド地震の行方不明者の捜索が終わりました。日本からも捜索隊が派遣されており、帰国した捜索隊員が、生存者を見つけられなかった無念を語っていました。
こうしたニュースに触れるために思うのですが、日本人は本当に「最後まで諦めずに」捜索を続けます。災害や遭難から何日も経過し、常識的に考えればもう生きている可能性はゼロに等しかろうとも「全力を尽くす」姿勢です。台湾や中国で起きた大地震の時には、他国(特に韓国)の捜索隊は、現場で生存者がいる見込みが少ないと分かるや、「我々は救助隊だ。遺体を掘り起こしに来たんじゃない」と別の現場に案内するように災害本部に迫ったのだそうです。一方日本の救助隊は、見込みがなくても作業を続け、見つかった遺体を丁重に扱っている様子がニュースで流され、なにかと日本に批判的な中国のネットニュースに一時さわやかな感動を吹き込んだこともありました。
国ごとのこうした違いは、文化の違い(死生観の違い)から来るのでしょう。
個人的な考えなのですが、「最後まで生きているものとして扱う」という日本人の価値観は、国学思想の影響が大きいのではないかと思います。日本人が日本古来の文化と信じていることの多くは、実は明治維新前後に人為的に導入されたものであることが多いのです。例えば皇室の行事も、これ以前は仏式だったものが、国家神道の導入とともに神式に変わって現在に続いています。神道では、死者は穢れであり、忌むべき対象です。だから、葬式の時には死者はまだ死んでいない病者として扱われます。
話を元に戻すと、日本人の価値観の中に「生を諦めず、最後まで全力を尽くす」という考えがしっかり根付いていることは確かです。
このことは終末期医療にまで及びます。実は先日いただいた精神科医の方からのメールには続きがあり、医療費削減が叫ばれている中で、医療費全体に占める終末期医療の割合の大きさに触れられていました。
65才以上の高齢者の医療費が、全体の半分以上を占めています。このすべてが終末期医療ということはないものの、いざ死期が近づくと家族の希望に従ってどこまでも延命治療が行われているのが現実です。人は人生の終わりに大量の医療資源を消費します。それに制限を加えるべきなのかどうか。
そこで医療費がかさめば、結果として子供の医療に十分なお金が回せず、精神科医療にも回ってこないわけです。終末期医療にどれほどのお金が費やされているのか調べてみたのですが、資料によって「多すぎる」と言っているものもあれば、適正だというものもあり、政治的意図の反映がうかがわれます。
老人医療の無料化を行ったのは田中角栄だと思っていたのですが、先日亡くなった美濃部元都知事は自民党の政策に先立って無料化を実現しました。高齢者へのばらまきは得票につながるのです。
結局この問題は、人生のどの時期にどれだけお金を使うか、という価値観にも結びついています。掲示板にいらしたシナさんがお住まいのフロリダ州には、リタイアした高齢者が移住した町がたくさんあります。そこでは、そこでは子供の教育にかける自治体の予算を削減しろという法案が通過してしまうこともあるのだとか(高齢者福祉の予算を確保するため)。民意(選挙結果)に任せておけばいい問題ではないのかも知れません。
処方乱用の問題から始まって、医療費の問題、日本人の死生観、人生における消費バランス、さらには民主主義の誤謬にまで話が転がってしまいました。
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