心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年09月30日(木) 回復とは何か?

アルコール依存症に「治癒はないが、回復はある」と言います。
治癒とは治った状態、病気のない状態です。例えば風邪が治れば、風邪を引いていない健康体に戻るわけです。依存症の場合には、病気がない状態には戻れないのですが、回復はあるとされています。(少なくとも診断基準は満たさなくなる)。

ではその「回復」とは何なのでしょう。どうなれば「回復」なのでしょう。それがハッキリしなければ「回復しろ」と言われても、何を目指して良いのか分かりません。

以前アメリカの回復擁護運動の本を読みました。彼らが擁護(アドヴォケート)する「回復」とはいったい何でしょうか? 彼らは回復について様々な定義を試みたあげく、最後には回復を定義することを諦めています。人によって何を回復とするかは実に様々であり、それを包括できる定義は決めようがなかったのです。「その人が以前より良くなった、回復した」と思えるのならそれが回復、として回復の定義を一人一人に任せてしまっています。

12ステップでは何が回復かはハッキリしています。「霊的な目覚め」が実現された状態が回復した状態です。けれどステップをやる以前でも、ともあれ飲んでいた酒が止まっていれば、それはそれで回復と呼んでかまわないでしょう。

それぞれ勝手に回復を定義して良いということなら、僕は僕なりの回復の定義をしなくてはなりません。それはこんなものです。

飲んでいた頃の僕は「もし・・・だったら」という考えにとりつかれていました。例えば、僕は進学のために上京し、東京での一人暮らしに適応障害を起こして酒がひどくなりました。すると、それを振り返って「もし実家が東京の近くにあったら、自宅から学校に通えて楽だったろうに」と思ってしまうのです。

しかし、長野にある実家が東京近辺に移動することは現実にはあり得ないわけで、「実家が東京の近く」という幸せは、僕の人生のタイムラインの上には実現不能です。つまり幸せを別の人生の上に求めているわけです。実現不可能な幸せを追い求めてしまうのだから、これは不幸です。

この他にも、もし大学を辞めてなかったら、もし会社を辞めてなかったら、あそこで彼女と結婚していたら、結婚しなかったら、あの時大酒を飲んでトラブルを起こさなかったら・・という「たら」「れば」を考えてしまうわけです。それは、人生が過去に分岐していて、自分が選ばなかった分岐(選択肢)の先に幸せがあったはずだ、という思いです。そしてこれは、酒をやめた後も続きました。例えば「もし、アル中になっていなかったら」というやつです。

今はそうではありません。自分の追い求める理想は、自分の人生のタイムラインを未来に延長した先にあります。実際その幸せが実現できるかどうかはわかりません。けれど、この人生(道)の先にその可能性があり、それを目指して歩いていけばいいのだ、と分かっています。

新宿で雨に打たれ歩きながら考えました。自分は大学を中退し、仕事もたびたび辞めてキャリアを中断し、自殺未遂をし、精神病院に入院し、酒で10年分の人生経験を失って、そのツケはいまも払い続けています。けれど、僕の人生はこれで良かったのだ、と。

「自分の人生はこれで良かったのだ」、いまのこの人生は生きるに値する良い人生だ、そう思えるようになることが、僕の回復の定義です。そして、そのような変化をもたらすのに、人間一人の力では不十分だということも。

僕の回復の定義は、飲んでいない期間が長くなるにあわせて、その都度変化してきました。これからもソブラエティが続いていけば、また定義が変わっていくのかも知れません。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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