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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年02月27日(土) AAの無名性について 掲示板での暁さんやかんたさんの文章を読んで、AAのアノニミティ(無名性)がいかに誤解されているか分かりました。
ある種の誤解は放置しても構わないと思うのですが、あえて無名性について書こうと思ったのは、Slaying the Dragonに「AAに関する誤解の多くは、AAをよく知らない人たちがAAについて発信した情報が元になっている」という話が載っているからです。また、昨年終わり頃に掲示板で、そうした誤解に基づいた文章を放置することの危険性を指摘する投稿もありました。
だから、これは暁さんやかんたさんに向けての文章ではなく、より広く情報を発信する試みです。なお、誤解が起こったのはこの二方の責任ではないと僕は思っています。AAにとって無名性がそれほど重要ならば、それを積極的に広報すべきです。パンフレットを配っても良いし、ネットで情報を発信してもいい。日本のAAには無名性についてのパンフレットがありますが有料(200円)ですし、ネットで公開して配布コストを抑えているわけでもありません(NY GSOのやり方とは対照的です)。
それは、日本のAAは無名性が誤解されていることをそれほど気にしていない・・・わけではなく、AAの情報発信力が弱いだけの話です。
AAの無名性には二つの意味があります。
ひとつはプライバシーの保護です。ただ、プライバシーを守らねばならないのは、何もAAに限った話ではありません。昔ならいざ知らず、これだけプライバシーという権利への意識が発達した世の中にあって、そのことを強調する必要はありません。
つまり、プライバシーの保護は、いわば常識です。AAの伝統にもそのことは書かれていません。
ではその常識をなぜ強調しなければならないのか。それは飲んでいる人や、まだやめたばかりの人は、プライバシーを強く気にする傾向があり、傷つきやすいからです。AAにはそうした傷つきやすい人たちが集まる場所であり、例えれば「バスケットの中に生卵がたくさん入っている状態」です。強いショックを与えれば、卵がたくさん割れ、バスケット全体が台無しになりかねません。だからこそ、生卵を運ぶときのように衝撃を与えないよう気をつけねばなりません。
精神的な健康を取り戻すと同時に、そうした過剰な傷つきやすさも薄れていきます。人の集まりである以上、うわさ話や陰口がある程度あるのは仕方のないことです。人のやることに自分のコントロールは及ばない、それを「変えられないもの」として受容していくのも回復・成長です。
また、「私たちアルコホーリクは、自己規制力をあまり持たない」(p.126)とあるように、常識を逸脱するほど陰口にふけりやすい人たちだからこそ、あえて常識を強調しなければならない、というアル中特有のちょっと情けない側面もあります。
僕のホームグループはたった数人しかいませんが、僕は皆の本名、住所、電話番号、メールアドレス、およその年齢、出身校、家族構成、過去の出来事などなど知っています。そこには匿名性などというものはありません。ただ、余計なことは言わないとか、余計な詮索はしないという常識があるだけです。
こちらの意味について、僕はアノニミティ(無名性)という言葉は使わず、プライバシーという言葉を使うことにしています。プライバシー=アノニミティ、という誤解を防ぐためです。
では、もう一つの意味。本来の意味でのアノニミティとは。
ひらたく言うと、AAメンバーであることで有名にならない、ということです。だからこそ、anonymityの翻訳に「匿名」ではなく、有名の反対の「無名」が選ばれています。人の集まりにはリーダーがあり、リーダーがその集まりの代表者として対外的に活動し、全体を代弁します。また内部には文字通り指導的な立場となります。そうした立場の人は、時に名前が売れ、人から尊敬を集めることがあり、それを職業とすることもあります。
アル中のリーダーになったところで、世間的なうまみはないんじゃないか、と思うかも知れません。けれど、自助グループではないものの、ダルクの近藤代表を見れば、テレビや新聞雑誌への露出がとても多いことに気づかれるでしょう。本を書いて賞も得ています(サインもらいました)。もちろんダルクはAAでもNAでもないので、そのことに何の問題もありません。
けれど、AAはそういうことをしません。有名人を作り、その人にAAを代弁し情報発信してもらう戦略は採りません。なぜなら初期の頃に、それをやってさんざん失敗したからです。
つまり、AAを一生懸命やっても世間的な賞賛は手に入らない。無名性とは自己犠牲の精神であり、そこに回復や成長があります。それはまた、ハイヤーパワー(神)の前でのメンバーの平等を意味します。
であるからこそ、AAメンバーであることを明らかにして、インターネットというメディアを使って情報発信している僕には、AAの中で風当たりが強いことがあります。「彼はネットでのセレブリティ(有名人)である」という批判をもろに受けます。無名性や自己犠牲の精神に反しているというわけです。
もちろん、無名性について決められた原則、メディアでは本名や顔写真を出さない、に従っていますし、これを職業として金銭を得ているわけでもないので、多くのメンバーは好意的とまでは言わないまでも、無関心中立でいてくれてます。情報発信の少ないAAにとって貴重だと励ましてくれる人もいます。人が僕をどう評価するか、それも僕には力の及ばないことです。
AAに来たばかりの人は、恐れと不安で一杯であり、自分のことはなるべく知られたくないと思っています。人からマイナスの評価を受けることを過度に恐れており、うわさ話に敏感になっています。プライバシーの漏洩に敏感なのではなく、マイナスの評価への恐怖があるのです。
僕らがその人たちに「大丈夫、心配いらないよ」と言ってあげられるのは、AAにアノニミティ(無名性)があるから「ではなく」、僕ら自身がAAに来たときに同じように感じていたからこそ、その不安に共感し、思いやりを持つことができるからです。
そのような配慮を示せるほど余裕にある人ばかりがAAにいるわけではありません。回復途上の人たちもいます(ある意味メンバー全員が回復途上とも言えますが、それは別の話)。AAは回復したメンバーだけで構成されることは永遠にない、常に未完成であり続ける団体です。そうである以上、プライバシーのことで常に傷つく人が出てきてしまう。しかし回復した人たちばかりの集まりになったら、それはもうAAではありません。その逆説が「AAらしさ」でもあります。
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