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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2009年11月19日(木) mil 禁酒法とAAと霊性(その1) アメリカの禁酒法は1920年に施行され、1933年に廃止されるまでの間、酒の醸造、移動、販売が禁止されました。所持したり消費するのは禁止されていなかったので、今の日本で麻薬や覚醒剤が禁止されているほど厳しくはなかったわけですが、法律を作った動機は似たようなものでした。
例えばイスラム教が飲酒を禁じているように、どんな飲み方であれ飲酒そのものを悪と捉える道徳観念が当時のアメリカにあり、それが禁酒運動や禁酒法を作っていった、と僕は思っていましたし、僕以外にもそう思っている人が意外に多いこともわかりました。
たしかにそういう側面も確かにありました。しかし、禁酒運動が当時社会的問題になっていたアルコール乱用への対策として誕生したことも見過ごせません。アメリカは建国以来ずっとアルコール禍に苦しんでおり、19世紀後半には酒のせいで治安が悪化するほどになっていました。今の日本が麻薬や覚醒剤を禁止するのと同じ動機で、(清国がアヘンを禁じたように)アメリカはアルコールを禁止したわけです。
それはまるで「親戚のアル中おじさんが酒をやめられないので、親戚一同で禁酒した」という感じで、問題なく酒を飲んでいた人々には迷惑この上ないわけですが、それもやむなしと思わせるだけの社会情勢だったのです。
「禁酒法を作ってもアル中はなくならない」と言う人もいます。実際ゼロにはならなかったのですが、相当減ったことは確かです。物理的に酒から隔離すれば断酒が継続できる人は結構いるのですね。それに新規にアル中になる人を減らすだけで十分効果があったのかもしれません。
禁酒法が何をもたらしたか? それは依存症治療施設の衰退です。禁酒法以前はアル中さんが多く社会でトラブルも多かったので、彼らを「何とかする」ための病院や収容所や治療産業が存在しました。効率的な治療をしていたとは限らないものの、困った人たちが頼るあてがあったわけです。しかし、禁酒法によってアル中さんが減ると、そうした施設もほとんどなくなってしまいました(社会資源の消失)。
酒の移動が禁止される中で、活躍したのはアル・カポネに代表される密売人でした。その商売は当然非課税で、そのぶん儲けも大きかったのです。1929年の世界大恐慌から始まった不景気からアメリカはなかなか抜け出せず、景気対策のためにすこしでも税収を必要としていました。税金は「取れるところから取る」のが基本ですから、贅沢品である酒の販売に課税するのは当然でした。こうして禁酒法は、たいした理念もなく段階的に廃止されました。
(と言っても、廃止されたのは連邦レベルの話で、今でもアメリカには「ドライ・カウンティー」と呼ばれる酒の販売が禁止されている地域がたくさんあります。また公衆酩酊(屋外で酒を飲むこと)は相変わらず禁止されています)。
アル中さんたちが「好きなだけ飲める」時代が戻ってきたわけですが、今度は彼らが困っても頼れる病院も当事者組織もほとんどなくなっていました。残っていたのは、一握りの金持ちだけを入院させる離脱治療の病院と、得体の知れない治療薬の通信販売、それと環境劣悪で治療などろくにない州立の精神病院だけでした。
誰も頼りにできない状況の中で、自分たちで何とかするために始まったのがAAです。つまり、禁酒法という社会的圧力があったからこそAAが生まれたと言えます。
しかし、アル中の当事者団体としてAAは初めての存在ではありません。建国以来アルコールの問題に悩んできたアメリカには、様々な団体が生まれては消えていきました。AAはそうした先駆者たちの経験の上に成り立っています。その中にはAAが大事にしている「霊性」ということも含まれています。
AAの霊性については、一般的には宗教の影響だと思われています。少し詳しい人はブックマン運動(オックスフォード・グループ)だと言うでしょう。しかし、AAが霊性を獲得するのは、もうすこし複雑な経緯が存在します。というわけで、この話は続きます。
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