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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年12月15日(土) なんか今日は長い お酒の問題や依存症の治療について、いろいろと社会を変えようと努力している人たちがたくさんいるのは知っています。けれど、世の中はゆっくりとしか変わってくれません。行政が変わってくれればいいのでしょうが、集めた税金の使い方はそう簡単には変わらないものです。
でも「回復のための資源」は今すぐ必要で、誰かが用意してくれるのを待ってはいられません。これから来る人のための必要でもありますが、自分の安全を担保するためでもあります。今日の集まりを、「資源」を自分たちで用意するために、やむにやまれず自分たちで行動を開始した人たち、と表現した人がいました。会場の熱気は、そうした渇望が駆動していたものだと思います。
AAに限らず12ステップのグループは「メッセージを運ぶ」ことを目的にしています。ではそのメッセージとは何か。ステップ12には「このメッセージを伝え」と書いてありますが、その言葉の前には「これらのステップを経た結果、私たちは霊的に目覚め」とあります。
僕の考えでは、伝えるべきメッセージとは、霊的な目覚めと、その目覚めに至るための手段としてのステップです。アディクションからの回復とはその目覚めです。
では霊的目覚めとは何か? ここで今日の集会とは無関係に「心の痛みの三つの原因」というネタを引っ張ってきます。
1.自己肯定感の欠如。
2.他者との親密さの欠如。
3.神との親密さの欠如。
つまり、自己肯定感があり、他者とも神とも親密である状態が「霊的に目覚めた状態」=アディクションが再発しないでいられる安全な状態です。この三つが欠けていたから心が痛み、その痛みを例えばアルコールで解消しようとした挙げ句、依存症という病気になってしまいました。そこで酒をやめてみても、実は心が惨めな状態に戻るだけです。そりゃ酒がぶり返しもします。
ステップの中身を見ると、自己を点検すること、欠点を告白すること、償いをすること、祈りや黙想をすること、奉仕することなどなど、なんとなく人生修行みたいな印象を持ってしまいます。でもステップは人格を磨くのが「目的」ではないのです。霊的目覚めという解決を実現するための「手段」にすぎません。別に「いい人」にならなくたっていいんですよ、目覚めさえすればね。
世の中には、目的と手段がごっちゃになり、手段が目的になっている物事や仕組みがいっぱいあります(手段の目的化)。そうなると本来の目的は忘れられがちです。
ステップは依存症という「病気の治療の手段」。目的はソブラエティ(飲まない落ち着き)。
とはいえ、ステップは一日ではできません。でも、ステップができなくても、ともかく飲まない状態は続けてもらわないと、ステップはできません。飲みながらステップやっても回復しないですから。だからスポンサーは「セックスするな」など、つまんないアドバイスもしなければならないのですが、それはステップの提案とは別物であります。
自分の場合には、あまりにも早くセックスした(子供を作った)ので、特に上の子には可哀想なことをしたな、と思います。子供ができたりして、環境の変化があると、その変化に対応するのが精一杯でステップどころじゃないですから。親が回復してなくても、子供の成長は止まらないし。夫婦だと、できても仕方ないかっていう油断がありますからね。あの時に賭をしていたら、みんな「ひいらぎが飲んじゃう」ほうに賭けたと思いますよ。
そりゃあ子供は「もっと遅くに生まれたかった」とは言いませんが、子供を作ってといてからステップやるってのは、どうも順番が逆だな、と。
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