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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年12月03日(月) 10 years ago (16) 〜 手遅れだと言われても、口笛... 10 years ago (16) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃
さて、新婚の僕と妻は、僕の実家で年を越すことになりました。
当然、妻にも、母にも、兄にも、僕は酒を止めたことになっていましたから、何らかの手段で酒を持ち込まなければ苦しいことになります。僕は酒のディスカウントストアの店内をしらみつぶしにあたった後で、ドイツ製のビールを一箱買い求め、それを「ノンアルコールビールだ」と言い張って、家族の前で飲むという作戦に出ました。
父が亡くなった後の家で、母を一人暮らしさせるわけにはいかない・・・それには兄一家がローンの残る家を売り払って実家に戻るしかない。けれど、江戸時代から建っている古い家屋敷に入るのは、義姉が納得するはずもありません。そこで、新しい家を建てねばならないのですが、兄にはそんな金もなし。先祖代々受け継いできた土地を売って家を建てる金を作ったとしても、「俺たちは反対しないから」と叔父たちが兄を説得したとか、しなかったとか。
そんな相談が行われている最中、僕は確実に酔っぱらっていきました。
年が明けると、今度は妻の姉夫婦の家に挨拶に行かねばなりませんでした。ところがもうその日の自分はピキピキの禁断症状の真っ最中で、見知らぬ家で笑顔らしきものを顔に貼り付けているのは半日が限界でした。
帰りの車の中で、妻に八つ当たりしていると、「やっぱりあなた飲んでいたのね」と逆に責められることになりました。
正月休みが終わって、仕事が始まっても、当然まるで仕事になりませんでした。職場の椅子に座りながら、「なぜここで席を立って、すぐそこの酒屋の自動販売機でビールを買って飲んではいけないのだろう」という考えが、繰り返し繰り返し浮かんできました。
この時期に、仕事で浜松へ出張に行っているはずです。一人で行かせるには不安だからと、同僚がお目付役に付いてきました。だが、僕は名古屋に着いたことと、そこから新幹線に乗ったことは憶えているものの、浜松のことはまるで思い出せません。夕刻、名古屋から特急しなのに乗って帰るとき、僕と同僚は喫煙車両と禁煙車両に別れました。僕はさっそく車内販売でウィスキーを買って一息つきました。そのことだけははっきり憶えています。
仕事を放り出して入院するしかないのは分かっていました。けれど、なかなかその道を選べませんでした。プロジェクトは逼迫し、簡単に逃げ出せる状態ではありませんでした。もう家庭から新婚の喜びは消えていましたが、それも入院してしまえば、良い雰囲気を取り戻すチャンスはもう二度とないでしょう。
だから、なんとか入院しないで、現状のままで良くなりたい・・・そう言いながら、飲んだり止めたりを繰り返して、日にちだけが経っていき、状況がずるすると悪くなっていきました。良くあるパターンであります。
あの時に、誰が何と言っても、僕は入院しなかったでしょう。けれど、アルコールは偉大な説得者でした。とは言え、僕が入院を決意するまでは、まだその先二ヶ月飲み続ける必要がありました。
(続く・・かなぁ)
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