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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年06月01日(金) 無力 いきなり明日葬式になって、ホームグループのミーティングに行けません。あいや、葬式はいつもいきなりか。だから今日のうちにスポンシーを誘ってミーティングに行ってきました。
年配の男性(おじさん・おじいさん)ばかりの会場で、ビッグ・ブックの第二章を輪読しました。日頃は据わりが悪いと感じているBBの文章も、年配の男性が大きな声で読むと、すごく馴染んでいることを発見しました。なるほどそういうことか、これを訳した人(の世代)にとっては、自然な言葉遣いだったのかと得心しました。
ひとつ前の訳はP神父の手によるものですが、神父と同じように戦前の教育を受けた人が「我々の世代にとっては、あれが親しみやすいんだ」と言っていたのを思い出します。
日本語は変わり続けていくし、BBは実用書であって文学作品ではないということを、あらためて思いました。
さて、
相手の望むことをしてあげるのが、相手のためにならないことがあります。
相手のために良かれと思ってすることも、実は相手のためになっていないこともしばしばあります。「良かれ」はしょせん自分の価値判断にすぎません。
世の中には、善意を動機として行動し、ダメな結果を出してしまう人で溢れています。自分にとって、相手にとって、何がよいことで、何が悪いことなのか、判断には必ず間違いが紛れ込みますから、それは仕方ないことです。
であるのに「自分のことはすべて自分で決める権利がある」という考えに固執する人がいます。僕もその傾向おおありです。人が荒野に一人で生きているなら、それも真理かも知れません。でも、人間関係のあるところでは単に迷惑な人になるだけです。
自分に関してさえ、何が良くて、何が悪いのか、知ることが出来ないこと。たとえ前進する力を持っていたとしても、また良くなりたいと善意があったとしても、どちらに進んでいいのか分からなければ、前進力を自分に役立てることが出来ません。
僕はアルコール依存症から良くなりたいと思っていましたが、どうやれば良くなって飲まないでいられて、どうやれば悪くなって飲んでしまうのか、「自分で判断して自分で決めればよい」と思っていたうちは、しらふで生きることができませんでした。
自分の判断を信用している限り、僕はアルコールに対して「無力」でした。
自分の判断を信用している限り、僕はアルコール以外のいろんなことにも「無力」であり続けます。
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