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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2006年09月29日(金) cod と liver 先週は5回AAミーティングに行けたとおもったら、今週はまだ一度も行っていません。明日土曜日も脱穀のために実家に泊まりがけで行くので、今週は一度もAAに参加せずに終わるのでしょう。
それは単に自分がミーティングに行けてないというだけでなく、自分以外のアル中さんと一度も会うことがなく、話すこともなく、一週間が過ぎていってしまうことを意味しています。
もちろん、コンピューターネットワークの向う側には、たくさんの人々がいることは分かるのですが、そういう人たちが僕に「自分自身を見つめることを強いる」ことは、あまり無いのであります。
ミーティングで「たら」「れば」を話しても仕方ないよ、とはスポンサーに言われたことです。もし、依存症になっていなかったら・・・あの時の仕事をまだ続けていたかも知れない、とか。もし、別の親の元に生まれていれば、とか。もっとストレスのかからない人生を選んでいれば、とか。
「もし〜だったら」にはまり込む気持ちは「後悔」でしょうか。
後悔だとすれば、そこには悔しい気持ちがあるのでしょう。その悔しさは貧乏くじを引いた悔しさと同じですね。世の中にはそのような不幸にぶち当たらずに、幸せに暮らしている人も多いだろうに、なぜか自分は不幸の割当量が多いように思われるわけです。
そのように、自分を哀れな運命の犠牲者と位置づけるのは、一種の「逃避」だと思うようになりました。「たら」「れば」を繰り返すのは、自分は現在の人生には絶対満足したくないと宣言するようなものであります。
別の自分にはなれないのですから、それは幸せになりたくないと言っているのと同じになります。自分以外の誰かが、自分を幸せにする義務がある・・・なんだけれど、その誰かはまだ現れないみたいなので、とりあえず現実からの逃避を繰り返すのが楽な道であります。
人が「たら」「れば」を話しているのを聞くのは、心地よいものではありません。でも、自分が同じ事をしているとはなかなか気付かないものです。
まあ、たらちりもレバニラも好きであります。
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