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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2005年10月12日(水) 10 years ago (5) 〜 手遅れだと言われても、口笛... 10 years ago (5) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃
社会保険事務所から妻宛に封書が届いていました。
メールで連絡したら、開封しても良いということでしたので、ミーティングが終わって帰宅した後で開封したら、障害年金の裁定の結果でした(どっちだったかは書けません)。
僕より後から申請したのにもかかわらず、先に結果が出たのは、やはり社会保険事務センターから問い合わせの有無(僕のは2回、妻のはなし)が影響しているのでしょう。
まあ結果はともかく、これで宙ぶらりんの状態のものがまた一つなくなったので、それだけでもありがたいのであります。
さて、10年前。
結納というのを結婚式のどれぐらい前にやったのか記憶は定かではありませんが、おそらく10月だったのではないかと思います。
結納とは本来双方に送り合うものだそうですが、まあだいたい嫁(や婿)をもらう方が、あげる方に金品を送るというのが現在のあり方でありましょうか。まあ、そういう堅い話のない結婚もありふれているのでしょうが、僕の場合にはお見合い→おつきあい→成婚という手順ですから、結納を省くわけにも行きません。
僕は婿入りなので、結納はあげる方ではなく、もらう方でした。
さて、この週末は結納という週に僕は連続飲酒に陥っていました。
母はまだ毎日勤めに出ていましたし、農夫である父は秋の忙しい時期を迎えていました。「うちには寝たきりが二人いる」と言われたもう一方の祖母は、この前の年に故人となっていましたので、僕は誰もいない古い家で昼間から飲んだくれていました。
18才まで過ごした部屋に、10年後に戻ってきて、そこでまた過ごした4年間。僕がその部屋のどこに酒を隠すか、母は完全に把握していました。わずか10メートル離れた便所まで行くのが面倒で、窓から小便をしていると、この10年の間に立派にコンクリート舗装された裏の道を、近所の少女が犬を散歩させて通り過ぎていったりしました。
(このままではまずい。なんとかしなくては)
そう思って酒を切ろうとするものの、どうにもなりません。
母は僕の部屋を覗くと「お前頼むから、今度の日曜だけはちゃんとしてくれよ」と懇願するのでありました。「だいじょうぶだ。ちゃんとする。きっとちゃんとするから」。
この縁談が破談になったら、さぞかしその話は人の口に上るでありましょう。人の噂を口にして生きている、そんな風に言われる田舎であります。今まで何があっても断り続けてきた見合い話を受けようと思ったのは、人生で一度ぐらい結婚しておきたいというまことに自分勝手な思いからでした。それにまだ30を過ぎたばかりの男ですから、いろいろと欲がないわけはありません。
しかしもしこの縁談が破談になったら、僕は笑いもので、きっと二度と縁談は来なくなってしまうでしょう。それが急に恐ろしいことのように思われました。
部屋は東京にアパート住まいしていた頃のように散らかっていました。寝たばこで火事をしないようにということがいつも頭から離れませんでした。
夜になり、ふと僕は妻(になる予定の女性)に電話をかけました。
「来てくれ。今から来てくれ」
彼女は慣れない夜の道を運転してやってきました。そして暗い顔をした母に案内されて、飲んだくれている僕がいる部屋までやってきました。枕元に座った妻に、僕は布団の中から起きあがって、「来てくれてありがとう」と言いました。
「これが本当のあなたの姿なのね」
部屋の惨状と、酷い顔をした僕を見て彼女はつぶやくように言いました。
「そうなんだ。だが、助けてくれ。俺を助けられるのは君しかいない」
(いや、僕を助けられる人間はどこにもいない)
「お願いだ。助けてくれ。きっと幸せにするから」
それ以上何を話したかは覚えていません。彼女は婚約者がアル中だということが判明しても、破談にするとも何とも言いませんでした。後で聞いたことですが、彼女はこのことを自分の両親には何も言わなかったそうであります。
結納の日の前日の土曜の晩にも、僕は彼女を呼び出しています。今度はあまりに僕の部屋がちらかっていたので、客間での対面でしたが、僕は飲んだくれて畳の上に横になったきりでした。
その晩も僕が言ったことはたった一つだけでした。
「助けてくれ」
それに対して彼女はこう答えました。
「わかったわ。私がんばるから。二人の未来のために努力するから」
(恐らく如何なる人間的力も、われわれのアルコール中毒に救いをもたらすことはできない)
こうして、ここに共依存のカップルが一つできあがったのでした。
翌日の結納の儀では、カメラを用意した人はいるものの、結局写真は一枚も撮影されませんでした。婿さまの状態があまりに悪く、彼はぶるぶる震えていて、ひげを半分しか剃っていなかったからで、そんな状態を写真に残すには忍びないと思われたからでした。
妻(になる女性)は、(そうは言ったものの、本当にこの人で大丈夫かしら)と心配になり、涙が止まらなかったそうであります。だが僕は禁断症状が酷くて、当日のことはぼんやりとしか覚えていません。
そうあの時、東京で自殺未遂をして帰ってきてから約4年。その間に3回の精神病院への入院。もう父も母も、アル中息子の世話を焼くことに疲れ切っていました。保健所の酒害者家族教室に通った母は、「夫婦だったら別れれば縁は切れる。でも親子はそうはいかない」というほかの家族の嘆きを聞き覚え、本当にそうだねぇと息子に言い聞かせていました。
縁談を理由に父母に体よく見捨てられたのだと言うことは、うっすらと理解できていました。それに文句を言えるような自分ではありませんでした。けれども、一人で生きていける自信など全くありませんでした。だから、同情から差し出された助けの手に、相手のことなんか考えずに、僕は必死でしがみついたのであります。
後になって酒をやめることができたのだからと言って、あの後に妻に与えた苦痛の埋め合わせができたわけではないでしょう。どんなに気に障ることがあったとしても、「あの時あの奥さんがいなかったら、あなたは死んでいたでしょう」とAAのスポンサーに言われた言葉を思い出せば、彼女こそ命の恩人であります。
ドクター・ボブの物語にあります。
「もし彼女がそうしなかったなら、自分はとうの昔に死んでいただろう。どういうわけか、私たちアルコホーリクは、世界で一番素晴らしい女性を妻に選ぶ恵みを与えられているようだ。なぜそんな彼女たちが、私たちがもたらす拷問に耐えなくてはいけないのかは、私にはわからない」
もちろん、妻にも持病があり、隠し事はその後いろいろ判明するのですが、文句を言えた義理ではありません。
酒をやめることができたのはAAのおかげでしょう。でも、僕がそのことに集中できるようにしてくれたのは、妻やそのほかのたくさんの人たちでした。
(この項、終わり)。
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