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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2004年09月06日(月) すべては過ぎ去る そう、すべての事象は過去になってしまいます。どんなに自分で苦しんだことも、人を苦しめたことも、すべては「過去」という名でひとくくりにされてしまうのです。
過去に囚われて生きるのか、過去から自由になって生きるのか?
例えば進行したアルツハイマー病の患者のように、記憶という牢獄から自由になった人間であれば、「過去を忘れて、過去から自由になる」ということが可能なのかもしれません。
でも、過去から自由になるのに、過去を忘れるという手段は、必ずや失敗を伴います。例えば、とても恥ずかしい思いをしたことや、とんでもなく人を傷つけてしまったのに償いできていないことや、とんでもなく痛い思いをさせられたのに報復でいないでいること・・・。それらを忘れようとしたところで、神が人間に与えた「思い出す」という能力が、忘れることによる過去からの開放を許しません。
一人暮らしで飲んでいたころ、過去のちょっとした事象を思い出すと、たとえば悔しさだとか、無念さだとかも一緒に思い起こされ、感情がそれに支配されて一日が憂鬱になってしまいました。また、「あの時、これではなく、あれを選んでいたら、人生はもっと違っていたかもしれない」という後悔に付きまとわれていたこともあります。
そうした過去は、一刻も早く忘れて、永遠に思い出さずにいたいと思ったものでした。しかし、それは無理な話でした。
いまAAミーティングで時間を与えられると、僕はきょう以前の過去の話をします。「過去を探求しなさい」「なるべく正直になりなさい」「格好をつけないように」とアドバイスされました。そうやって、わざわざ思い出して話をするのは、過去に囚われることになるのではないかと思うかもしれません。しかし、人に話してしまうことによって、過去は客体化され、そして人は過去から自由になって生きていくことができるのです(たぶん)。
「思い出す」という能力が、過去の心の傷をえぐり出したとしても、もうその感情に支配されることはありません(だといいね)。
忘れようと努力することによって過去に囚われ、話そうと努力することによって、人は過去から自由になれるのでしょう。
僕は過去に母親が付けていた日記を読んで、その内容に戦慄しました。
僕はミーティングで正直な話をしようと努力していると自負していたのですが、自分の話より現実はもっと強烈でした。
アル中のぼやけた記憶が都合の悪いことを忘却させ、プライドが物語を装飾し、虚栄心が美化をし、目立ちたいという本能がドラマティックに仕立て上げます。だから、僕の話していることも(たぶん他のメンバーが話していることも)99%が虚構でしょう。
だけれども、僕の考えでは、正直さの絶対量なんか問題にする必要はないと思うのです。話したいという方向性、より正直にというベクトル、それが人を過去ではなく現在に生きさせる力になるのでしょう。
年月を経た人の話は、内容は悲惨であっても、どこか美しいドラマになっています(恨み節が含まれてなければね)。その人の中で過去が過去になった表れでしょうか。
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