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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2004年06月25日(金) じんかんいたるところせいざんあり 男児立志出郷関 男児、志を立て郷関を出ず
学若無成不復還 学、もし成るなくんば復還らず
埋骨何期墳墓地 骨を埋づむる何ぞ期せん、墳墓の地
人間到処有青山 人間到るところ青山あり
幕末の長州の僧、釈月性の漢詩「将東遊壁詩」です。
少なくとも高校二年の時までは、学で身を立てるつもりでいました。
その道は貧しいだろうけれど、自分には向いているであろうと。しかしそれは何か「あなたは学者になるのがよろしかろう」という植えつけられたものの様に感じて、僕は急速に勉学に対する意欲を失っていきます。
それでも惰性で東京の大学に受かって、上京する前に、この詩を固く心に刻みました。
学が成らねば、二度と故郷には帰らぬだろうと。しかし、その道はうつとアルコールによってあっという間に頓挫します。
東京は墓場の多い街です。というか墓場のすぐ周囲まで家が建って、町の中にぽつりぽつりと墓地がある印象です。学も成らない、財もならない自分は、故郷に帰るわけにも行きませんでした。泥酔の中で「死んだらどこに葬られるのだろうか」と考えました。
骨を埋めるのはどうして先祖代々の墓地のみに限ろうか、いや世間にはどこに行っても骨を埋める場所ぐらいある(だから大志を立てて大いに雄飛すべきである)。
子供の頃から見慣れたあの墓地に入るのは嫌でした。僕はなんとか、東京に青山を獲得したかったです。それはつまり生計を共にする家族を得ることを意味してもいました。しかし、それは叶わぬ夢でした。
今は僕は婿養子となり、つつがなく死ねば、この家の墓地に混ぜられることになるのでしょう。「それはそれでいいか」と思っています。つまるところ僕は、僕が滅した後も僕のことを憶えていてくれて、墳墓へ参ってくれる人を求めていただけの淋しがりやだっただけなのかもしれません。
僕が死ねば、この雑記やウェブサイトも契約期限が切れて存在をやめるでしょう。いつかは消え去るものに、なぜエネルギーを使っているのでしょうか? 生きる意味の自明さは、飲んでいた頃の僕には感じることができませんでした。意味のない生は、スピリチャル・ペイン(実存の苦しみ)そのものでした。
僕が伝えたいことは今となっては単純です。生きる意味は自明であるということです。
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