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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2003年08月04日(月) 暑さ寒さもひがみのもと タイトルに意味はありません。
さて、こんなこと(ってどんなことだ)にならなければ、僕は今ごろ、長野AAの20年誌を各種インタビューなどによって書き進めていたはずです。長野のAAは、埼玉県のメンバーらによってメッセージが伝えられ、1983年に上田市でステップミーティングが開かれたのを始めとしています。83年12月には、長野グループが誕生し、次第にミーティング場を増やし、長野市を中心に月曜から土曜までの毎日のミーティングと、日曜日の病院メッセージを抱えるまでに成長します。しかし、これだけの陣容を維持する人数に欠け、ミーティングは週3日に、メッセージは病院側の受け入れ態勢の変化と共に形骸化します。
この頃、大学病院の医師であったS先生が、アルコール依存の治療には自助グループが必要という新年から、断酒会、AA、その他のグループの育成にあたりました。86年7月には小諸グループが、翌87年3月には佐久グループが誕生するのですが、比較的短期に形骸化します。背景には、この地方にAAを名乗り、ミーティングハンドブックも使うものの、他のグループと交流しないグループが(すくなくとも)二つ存在した影響があったと思われます。これらのグループの情報は、AAの記録に残っていません。小諸・佐久グループはAAの歴史から消え、合流して非公式に浅間グループとして存続します。
これらと前後して、88年4月には諏訪グループが誕生します。小諸・佐久グループが復活するには92年9月まで待たねばなりません。96年7月には松本グループが、98年3月には駒ヶ根グループ(後に南信州)が誕生します。
サービス活動については、月1回の長野グループのビジネスミーティング(上田)が、そのまま長野地区のビジネスミーティングとなり、後に地区集会と呼ばれるようになります。今から思えば、インターグループ集会でした。その後「代議員制度」と「委員会」などの形式が、他県と同じように整うのは98年度からです。
21世紀になって2002年5月らいでんグループが誕生、2003年4月安曇野グループが誕生します。この間に、ちのグループが誕生して消え、小諸グループは二度目の消滅を迎えています。
僕がつながった頃のメンバー数は10名と言ってもよかったでしょうが、現在では(数えてませんが)40人ぐらいいて、今は増加傾向にあると思います。もっともこれも、グループ数や会場数と同じで、長い目で見れば(人の回復と同じように)波があるのでしょうから、また減るときもあるでしょう。
80年代から活躍したメンバーたちは、すでに老境に入り、ほうっておけば真実は記録に残らずに消えていくでしょう。だから、彼らがまだ元気なうちにそうした過去をまとめておきたかったのです。「成年に達した」などとは言わなくても、昔話を聞いてみたい・・・。しかし、神は私に別の任務を与えました。おそらく、僕が思っているほど、過去の記録は重要ではないのでしょう。
手渡していくべきものは、先人の努力ではなく、AAの原理なのだから。
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