| 2005年12月11日(日) |
小学校教師のむだな仕事 |
きょうはよく働いた、、というか、働きづめだった。 朝起きて、まず坊ず(体調不良)をスクーリングに送った。 帰ってから補習の準備と授業のプリント作り。 昼に買い物に出て、ついでに昼食マックも買い込んで帰る。 それからまた授業のプリント作りの続き。 それから妻の車のタイヤの交換に走ったが、 交換は3、4時間後になるというので、帰って原稿整理。 坊ずから電話が来て、やはり体調が悪いので迎えに来てほしいと言う。 こんなことは初めてだ。 もう1時間授業があるというので、その間にタイヤ屋に車を預けて、 10分ほど急ぎ足で家に戻って、自分の車で迎えに行った。 戻ってからまたタイヤ屋に歩いたら、もう交換が終わっていたので、 そのまま最近借りた賃貸倉庫に行ってとりあえず仕事はおしまい。 帰ると娘がカレーを作り終えていた。
こう書くと父子家庭みたいだが、妻はきょうは通知表書きに専念している。 足萎えになりそうなほど座りっぱなしである。 いつも思うのだが、あの所見書きはたいへんすぎる。 最近は総合学習の評価も所見書きになったから、仕事が倍になっている。 それを終業式の10日も前に教頭に提出して検閲を受けるのだ。 読む教頭もたいへんだろうと思うが、かなり細かいチェックを入れて返し、 修正させるのである。 私が大学生だったころから聞かされていた話であるが、 相変わらずそんな通知表書きが学期ごとに続けられて来たのである。
私に言わせれば、保護者懇談が終業式前にあるのに、 どうしてわざわざ所見を同時に書いて渡さなきゃいけないんだ? である。 我々が小学生だったころ、毎学期のこんな保護者懇談はなかった。 毎月授業参観日に懇談会はあったようだが、個人懇談ではなかった。 よほどの問題がない限り、個人懇談というのはなかったはずである。 そういう時代には、通信簿というのは、成績の数字だけでなく、 こんな様子でした、という担任からの通信は大切だったかもしれない。 しかし、今は懇談でしゃべってしまうのである。 しゃべり忘れたことをちょっと書くには便利かもしれないが、 ムリして、心身すり減らして書かなければならぬほどのものではない。
昨日妻が言うには、大阪からの転校生の通知表を見たら、 所見欄には「保護者会で済み」という趣旨のゴム印が捺してあったそうだ。 実にもっともで賢明な措置である。 しかし、こちらの市教委も校長・教頭も、 とてもそんな気の利いた裁量ができる雰囲気ではない。 とにかく、実質をいくら損なってでも形式を重んじる点ではピカ1だからだ。 それは、この通知表に限った話ではないのだ。 高校にもアホな制度がどんどん入り込んできて、 振り払おうにももう何ともしょうがなくなってきて困っているが、 20年以上妻の仕事を見てきて、ある時痛感したのは、 もしも私が小学校に勤めてたら、3月ももたずにやめただろうということだ。 空き時間がないことや、給食指導があることだけではない。 市教委の学校訪問に備えてのあきれるほどの周到な体裁整えもそうだし、 週ごとの進度表や、それに書く反省欄など、その最たる要素である。 ご丁寧に、小学生に書いてあげてるような校長・教頭のお返事が書かれる。 自分がそんなの書いてるところを想像すると、屈辱的でもある。 (尊敬できる校長でもいれば、それもいいかと思うけどね、、) 涙ぐましいほどのやりとりであるが、それで教育活動が高まるかというと、 クラスぐちゃぐちゃの教員はいくらでもいるし、 ひとつの学校にたいてい1〜3人の指導力なし教員がいるようだ。 そういうやりとりを怠らぬようにしていても、 実質的で適切な指導や支援ができるわけではないということだ。 つまり、そういう形式さえしっかり踏んでいれば満足してしまう体質なのだ。 現実の問題がたくさん起こっていようと、根本的な解決に乗り出そうとせず、 過去の遺物さえ大事に撫で回していれば安心していられるわけだ。
とにかく、小学校には職員が少なすぎるし、むだな仕事が多すぎる。 そのとばっちりはどこに来るかというと、家族に来るのである(`ε´)
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