夏季休暇があと1日残っていたのを申請しておいた日だったが、 明日の試験の印刷にだけ、朝出勤した。 とにかく、昨日まで数日間も、問題作りが難航したのだ。 きょうも、枚数も多いし、類型も違うパターンを編集して、 ちょっと予定より時間がかかってしまった。
帰宅途中の昼前に買いものに寄ったら、マックのポスターが目に入って、 クラブハウスマックが明日までの限定だと知って、 電話で家族の注文を聞いて買って帰り、ビール飲みながら昼食にした。 うん、これはたいへん旨いではないか。 よかった、去年食べ損ねた月見バーガーのような恨みを残さないで。。。
それから2時間ほど昼寝した。 ビール飲んで昼寝なんて、休日の醍醐味ではないか。
起きてから、他にやることがあるような気もしたけれど、 ミュージカル映画の「エビータ」を見た。 「ファントム」の作曲家ウェーバーのヒットミュージカルのひとつ、 ということ以外、予備知識はなし。 冒頭で、お金持ちの老人の葬式らしい場面と、 民衆の母と讃えられているらしいエビータの葬式の場面が続き、 たいへんわかりづらく、何をしているのかわからない。 どうやら、最初の葬式の場面は、老人の娘と認めてもらえない私生児のエバ を描いていたようだし、次の葬式の場面はエバの最期のようすらしい。 そして、エバの若いころからの物語に入った。
そこからはもうほとんど歌で物語が進行する。 対話も歌である。 さまざまなタイプの歌が続くとはいえ、基本的にアルゼンチンの情緒だから 聞きやすく魅力的な歌が多い。 「アルゼンチンよ、泣かないで」はサラちゃんのCDで何度も聞いた曲だ。 でも、それを初めて聞いたとき、すでに何度も耳にしたことがあるような 感じがしたので、いろいろなところで歌われているのかもしれない。
映画は、優雅な歌とは釣り合いがとれないほどの大事件の連続である。 郡部によるクーデターだの、ペロン大佐の逮捕だの、、、 内乱の砲火の間も、茶化すかのような説明役の皮肉な歌に紛れてしまう。 いったいこのエビータの物語というのは何だ? と、 途中でいったん映画を止めて、サイト検索をして調べなきゃならばくなった。 そのエバ・ペロンの生涯を下にコピペしておくが、 かなり忠実にできるかぎり細かいところまで、物語だけでなく、 歌詞のほんのちょっとしたところにも盛り込んでいるようだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ マリア・エバ・ドゥアルテはアルゼンチン、パンパス草原の貧しい村・ロス・トルドスで未婚のコック、フアナ・イバルグレン(1894年 - 1971年)と妻帯者である農場所有者フアン・ドアルテ(1872年 - 1926年)との間に生まれた5人の私生児のうちの一人として誕生。大都市ブエノスアイレスから離れた田舎町フニンで育つ。15歳で家出をしてブエノスアイレスに上京する。
ブエノスアイレスでは、さまざまな職業遍歴と男性遍歴を繰り返し、そこで出会った男たちを踏み台として出世。ラジオ・ドラマの声優、映画俳優として活躍しはじめ、B級メロドラマ映画やラジオドラマ「エル・ムンド」に出演していたころ、のちに大統領に就任することとなる軍事政権の副大統領兼国防大臣兼労働局長の肩書きを持つフアン・ドミンゴ・ペロン大佐に出会う。「エビータ」の愛称はラジオドラマのころから使われ始める。以後、ペロンの愛人として過ごし、その庇護の下で、自身のラジオ放送番組によってペロンの民衆向け政治宣伝を担い、貧富の差が大きかったアルゼンチンで貧しい労働者階級から大きな支持を得た。
1945年10月、米国の意向を受けたエドワルド・アバロス将軍によるクーデターが起き、ペロンは軍事裁判で有罪判決を受け(10月11日)刑務所に受刑、エバは国民に向かってペロンの釈放を呼びかける。1945年10月21日にアバロスが政権を放棄して釈放され、10月26日、ペロンと結婚。選挙母体であるアルゼンチン労働党の支援で選挙戦を戦ったフアン・ドミンゴ・ペロンは翌1946年3月28日にアルゼンチン大統領に就任。
ファーストレディとしての業績
夫のフアン・ドミンゴが大統領に選出された後、エバは政府における政治的な役割を果たした。ファーストレディ(大統領夫人)となったエバは国政に積極的に参加。慈善団体「エヴァ・ペロン財団」を設立し、労働者用の住宅、孤児院、養老院などの施設整備に務め、また、労働者による募金でミシン、毛布、食料などを配布、その一部は日本にも送られ、貧困層の不満を和らげた(逸らすととる見方もある)。正義党の婦人部門を組織するなど、ペロン政権の安定に大きな貢献をした。反面、財団を利用した蓄財や汚職の疑いも受けている。しかし、貧困者の優遇政策に務め、女性参政権を実現(1947年)したのも事実で、民衆・労働者階級から支持を受け、エビータと愛称で呼ばれるようになり、アルゼンチンで最も影響力のある人物だった。
このように、民衆から支持があったものの、アルゼンチンの白人富裕層からはひどく嫌われ、その経歴から「淫売」と批難を受け、女性として政治において活動的すぎる人物と見なす者も多かった。
1950年に「レインボー・ツアー」と呼ばれたヨーロッパ外遊を行い、スペインのフランシスコ・フランコなど、多数の国家元首と会見。これは第二次世界大戦後ファシストとして見なされたペロン政権をイメージアップする大規模な広報活動を目指すものであった。
エバは1951年、副大統領の地位を求めて政治的権力を得ようとしたが、この動きはエビータ自身と政府内における彼女の影響力の増大を嫌う軍部はこれに危機感を募らせたが、直後にエヴァが白血病と診断を受けたためもあってフアン・ドミンゴはそのポストを断念。
その死後
エバは33歳で子宮癌によって死去、その葬儀には数十万の市民が参列した。ペロン政権が軍事クーデターで1955年に倒れるまで、その遺体はミイラとして展示された。のち遺体はイタリアのミラノへ空輸され埋葬された。16年後の1971年に遺体は発掘されスペインに空輸された。国外に亡命していたフアン・ドミンゴはアルゼンチンに帰国し大統領に再び就任したが、1974年に死去した。エバの遺体はアルゼンチンに返還され、夫・フアンの遺体のそばに展示された。1976年の軍事クーデターによってフアン第3の妻でフアンの死後大統領職にあったイサベルが失脚すると、ブエノスアイレスのラ・レコレッタ墓地、ドアルテ家の墓に改葬された。
|