きょうは終業式で、それだけで1学期間を思って、あー疲れたー、を 噛みしめることになるのだが、おまけに夜には学年の飲み会があった。 1学期間の打ち上げという意味らしい。 はるばる名古屋まで呼びつけられて、さんざん歩かされて、 店にたどり着いたら、何と3階まで上れと言われて。。。 階段途中で討ち死にしている同僚がいるんじゃないかと思ったが、 (実際私はその3階まで直線で続いている階段を見上げて、クラクラしたし、 自宅から歩き続けの建ち続けだったので、その階段を昇るのは辛かった) 幸いみな無事にたどり着いているようだ。
こういう宴会の趣旨は、だいたい、慰労と親睦ということになっている。 しかし、慰労という点については、たいていは逆効果である。 慰労どころか、疲労の増幅である。 市吹の定演などのあとの打ち上げは、 疲労の増幅であっても、確かに慰労になっている。 それは、何十人もの仲間がひとつの目標を成し遂げた後の心地よい疲労を、 共有しあい、分かち合うひとときだからだ。 そこには、あっちとこっちでいちいち言葉を交わさなくても、 やったね! よかったね! 楽しかったね! という空気が漂っている。 こういう打ち上げはなしでは済まされないものだ。 だから、雨さえ降ってなければ、野球の優勝チームの監督のように、 解散前に店の前の広場で胴上げされて、 疲労と泥酔の果ての瀕死のダメージを与えられるのだが、許せてしまう。 けれども、職場の宴会にそういう空気はない。 学校祭の打ち上げをやっても、そういう雰囲気はない。 共有するものが希薄だからだ。
疲労を増すだけであっても、ま、いくらか意義があるとすれば、 日ごろそう話すことのない人と、 日ごろそう話せないようなことを話す機会ができることだろう。 これがなかったら、疲労に耐えてそんな場に出かける意味は殆どなくなる。 もっとも楽しい酒の飲み方は、2〜4人程度の気の合う仲間で飲む場合で、 こういうのは、話も弾み、こだわりもなく、疲れ知らずである。 しかし、職場の宴会となるとそういうわけにはいかない。 前後左右が疎遠な人物で固められることもあるし、 下手をすると、大っきらいなやつが隣に来る場合もある。 逆に、仲良しが隣にいても、2人だけで盛り上がってるわけにはいかない。 さまざまな制約と気遣いを強いられるのが、職場の宴会というものなのだ。
若かったころはそういう宴会も、大いに楽しんでいたものだが、 どうも近年は疲れを先に感じてしまっていけない。 宴会の知らせを聞くたびに、またひとつ仕事が増えた、と思ってしまう。 ま、歳のせいなのだろう。
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