TENSEI塵語

2005年07月20日(水) あー疲れたーー

きょうは終業式で、それだけで1学期間を思って、あー疲れたー、を
噛みしめることになるのだが、おまけに夜には学年の飲み会があった。
1学期間の打ち上げという意味らしい。
はるばる名古屋まで呼びつけられて、さんざん歩かされて、
店にたどり着いたら、何と3階まで上れと言われて。。。
階段途中で討ち死にしている同僚がいるんじゃないかと思ったが、
(実際私はその3階まで直線で続いている階段を見上げて、クラクラしたし、
 自宅から歩き続けの建ち続けだったので、その階段を昇るのは辛かった)
幸いみな無事にたどり着いているようだ。

こういう宴会の趣旨は、だいたい、慰労と親睦ということになっている。
しかし、慰労という点については、たいていは逆効果である。
慰労どころか、疲労の増幅である。
市吹の定演などのあとの打ち上げは、
疲労の増幅であっても、確かに慰労になっている。
それは、何十人もの仲間がひとつの目標を成し遂げた後の心地よい疲労を、
共有しあい、分かち合うひとときだからだ。
そこには、あっちとこっちでいちいち言葉を交わさなくても、
やったね! よかったね! 楽しかったね! という空気が漂っている。
こういう打ち上げはなしでは済まされないものだ。
だから、雨さえ降ってなければ、野球の優勝チームの監督のように、
解散前に店の前の広場で胴上げされて、
疲労と泥酔の果ての瀕死のダメージを与えられるのだが、許せてしまう。
けれども、職場の宴会にそういう空気はない。
学校祭の打ち上げをやっても、そういう雰囲気はない。
共有するものが希薄だからだ。

疲労を増すだけであっても、ま、いくらか意義があるとすれば、
日ごろそう話すことのない人と、
日ごろそう話せないようなことを話す機会ができることだろう。
これがなかったら、疲労に耐えてそんな場に出かける意味は殆どなくなる。
もっとも楽しい酒の飲み方は、2〜4人程度の気の合う仲間で飲む場合で、
こういうのは、話も弾み、こだわりもなく、疲れ知らずである。
しかし、職場の宴会となるとそういうわけにはいかない。
前後左右が疎遠な人物で固められることもあるし、
下手をすると、大っきらいなやつが隣に来る場合もある。
逆に、仲良しが隣にいても、2人だけで盛り上がってるわけにはいかない。
さまざまな制約と気遣いを強いられるのが、職場の宴会というものなのだ。

若かったころはそういう宴会も、大いに楽しんでいたものだが、
どうも近年は疲れを先に感じてしまっていけない。
宴会の知らせを聞くたびに、またひとつ仕事が増えた、と思ってしまう。
ま、歳のせいなのだろう。


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