TENSEI塵語

2004年12月24日(金) セカチューを読んだ

当面の仕事が午前中に終わったので、午後図書館で少しだけ読み始めていた
「世界の中心で、愛をさけぶ」を読み終えた。
帯のコピーが邪魔だ。
「泣きながら一気に読みました」???
私も涙もろい方だとは思うけれど、ぜーんぜん泣けなかった。
泣けるだけの要素はあると思うのだけれど、泣けるという感じからは遠い。
つまらないわけではなく、興味深く読み進めるのだけれど、泣けない。

その理由をあれこれ考えてみるに、
朔と亜紀の存在感が今ひとつ薄い感じがするせいかもしれない。
これは作家の表現力の問題なのか、読む側の好みの問題なのか、
例えば最近読んでいた「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」や
「ノルウェイの森」など、私には、現実にはそうお目にかかれないような
女性たちが、やけに現実的に、触れられそうな近くに現れているように
思われるのである。
しかし、朔と亜紀については、ヴェールの向こうの舞台で、
類型的な演技をしているような感じを受け続けていた。
亜紀は朔に恋しているらしいが、その割にはさりげなさ過ぎる、
そのさりげなさは一種の魅力であると同時に、
愛しつつ死に別れなければならない運命をもさりげないものにしていないか?
まず、このヒロインの亜紀が、映像的にも心情的にも存在が希薄である。
では、最初から最後まで「ぼく」として語り続けている朔はどうか。。。

もうひとつの理由として、読みながら強く思ったのは、
情に訴えて泣かせるには、朔が理屈っぽ過ぎるということであった。
この作者は、悲しい物語で人々を泣かせようとは思っていないのではないか。
むしろ、この人は、愛するものの死をめぐる思い、というものを
書きたかったのではないだろうか。。。
それは、祖父の昔の恋人の骨を2人で墓から盗み出したころから、
祖父との死についての問答をする中で深められているようだ。
泣くことは期待せず、泣くために読むのでなく、
そういう観点でこの作品を読んだ方がおもしろそうだ。
だから、この帯の言葉は邪魔だ。
ついでに言うと、長ったらしいタイトルも何かしっくり来ない感じである。


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