定期考査が終わり、答案を返して、成績の集計結果が出るまで、 生徒の関心がここに集中しているわけではないことはもちろんだが、 この定期考査に関する関心は、赤点(不合格)を免れたか、 クラス、あるいは学年で何番だったか、というあたりに終始する。 肝心なのは、どれだけ理解できたが、という1点だけであるはずなのに、 そんなことは眼中にない。 これは多分に学校教育の姿勢の罪であると言えるだろう。 そんな評価基準しか持たせないように、し向けてしまっているのだ。
ま、本来、定期考査というものは、8割は正答すべきものであろう。 それだけ正答できなければ、「ほぼ理解できた」とは言えないはずである。 しかし、そこをちょっと譲歩して、すべての生徒がすべての教科について 8割以上というのは少々酷かな? と情状酌量しても、 習ったことの半分を超える内容は理解してもらわないと、 次のステップに進めないではないか、と考えるのが当然である。 だから、私が大学入学時に聞いた評価基準は至極妥当なものだったと思う。 80点以上・・・・A 70点以上・・・・B 60点以上・・・・C 60点未満・・・・不可
実際、私の体験では、この通りに評価されていたとは思われない面もあるが、 (つまり、しどろもどろのひどい答案を書いたのに、Aがついたという) この基準だけは、なかなか妥当な線だと思うのである。
ところが、なぜか高校では「不可」にあたるのは、平均点の1/2である。 何を根拠に導き出したルールかさっぱりわからないが、こうである。 それでいて、平均点が50〜60点になるように試験問題を作れ、と言う。 上記の評価基準から考えると、半数以上が落第するように作れ、 ということになるから、これだけでも不思議な話だが、それは置いて、 2割をちょっと超える正答をもって、合格だ、おめでとう、というのが、 なんともやりきれないばかばかしい話だと思うのである。 定期テストのおける2割ばかしの正答なんてのは、はっきり言えば、 ほとんど何も理解できてないに等しい。 教科によっては、平均点が20点前後、合格点が10点前後ということも あるようだ。もうめちゃくちゃである。 そんなのが、究極の評価基準になっており、多くの生徒の目標となっている。 だから、勉強しないで賭博師に徹する生徒を量産する。 教育するよりは、落第する生徒を少なくしたいということを重視する、 うわべ主義の教育が育ててきた、歪んだ風潮のひとつである。
合格点が仮に25点だとして、25点の生徒は、よかったね、となり、 24点の生徒はぼろくそに叱られたりする。 親まで呼び出されて厳重注意となったりする。 「ほとんど理解できていない」という点では同じなのに、天地の差がある。
しかし、きょう書こうとした1番の問題はこういうことではなかった。 こういう点数化される部分に関心が向けられすぎて、 また、うわべ主義の服装・頭髪指導に関心が向けられすぎて、 清掃活動などを中心とする、平等・協力教育がかなりおろそかになっている、 本当はこういうことが書きたかったのだった。 それは、教科の学習内容を理解すること以上に大切なことである。 清掃に関していえば、「以前の状態よりもきれいにする」という 作業の本質を理解しているかという問題を含んでいるのだが、 残念ながら、そういう理解に達しないまま小・中学校9年間を過ごしてきた 生徒が少なくないようである。 それは、教科の学習内容を理解すること以上に大切なこと、というより、 物事の本質を理解してそのように自ら行動するということは、 何事にも共通する大切なことなのだ。
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