一昨日は打ち上げ後ホテルに戻ったのが9時半ごろで、後半の30分、 本浦千代吉が放火殺人をしているところから見た。 そこに至る過程がわからないまま見ていた。 坊ずに録画を頼んでおいたので、今それを見た。
放火殺人の引き金は、妻は村人によって殺されたという思いだった。 そして、そうなった経緯は、もともとあった本浦家への差別が、 ダム建設の賛否を問う投票での村の敗北の悔しさのはけ口として、 本浦家への徹底的な村八分扱いに増幅されたためである。 それは、3人家族に対する村人全員からの徹底的ないじめである。 とうとう過労で倒れた妻を、村の医者はまったく診ようとしてくれない。 隣村の医者のところに連れて行こうとする途中で息絶えてしまう。 積もり積もった怒りが爆発した千代吉は、村の顔役たちを斧で叩き殺し、 村中に火を放って焼いてしまう。 千代吉は、村人30人を惨殺した死刑囚ということになっている。
捜査会議でその経緯を報告する刑事は、鬼が鬼を生んだのだ、と言う。 これはまさに、現代のいじめ問題からテロ問題まで包含するテーマではないか! そうしてまた、ある刑事の、殺人鬼の子どもはやっぱり殺人鬼か、という 評に対し、「そういう安易な見方がこの悲劇を生んだのだ」とたしなめる。 そうだ、世間の誰もが、殺人を犯したのは父であって、子には何の罪もない と、必ず認めてくれるような世の中であれば、 和賀英良も自分の過去を抹消しひた隠しにする必要もなく、 三木謙一に抵抗して死に至らしめる必要もなかったのである。 どうにも逃れようのない偏見と差別の構造を、 ハンセン氏病に代わるこの新しい設定も、みごとに表現し得ているではないか、、!
ステージで披露されているピアノ協奏曲は、 ピアニストと指揮者を置いているので、自然に見ることができる。 映画での大きな失敗はここにあった。 主人公のピアノを弾く姿以上に、指揮姿があまりにも拙くて、 せっかく盛り上がりつつある感情が冷やされてしまうのである。 この点はよく反省が生かされていると言えよう。
ただ、父子の逃亡の旅にしては、見通しのいい場所を歩きすぎている。 これが実に残念である。 美しい風景を見せてくれるのは確かにありがたい。 けれども、指名手配中の殺人犯が、あんな優雅な旅をするだろうか?
|