TENSEI塵語

2004年03月23日(火) 「砂の器」の大改訂

一昨日は打ち上げ後ホテルに戻ったのが9時半ごろで、後半の30分、
本浦千代吉が放火殺人をしているところから見た。
そこに至る過程がわからないまま見ていた。
坊ずに録画を頼んでおいたので、今それを見た。

放火殺人の引き金は、妻は村人によって殺されたという思いだった。
そして、そうなった経緯は、もともとあった本浦家への差別が、
ダム建設の賛否を問う投票での村の敗北の悔しさのはけ口として、
本浦家への徹底的な村八分扱いに増幅されたためである。
それは、3人家族に対する村人全員からの徹底的ないじめである。
とうとう過労で倒れた妻を、村の医者はまったく診ようとしてくれない。
隣村の医者のところに連れて行こうとする途中で息絶えてしまう。
積もり積もった怒りが爆発した千代吉は、村の顔役たちを斧で叩き殺し、
村中に火を放って焼いてしまう。
千代吉は、村人30人を惨殺した死刑囚ということになっている。

捜査会議でその経緯を報告する刑事は、鬼が鬼を生んだのだ、と言う。
これはまさに、現代のいじめ問題からテロ問題まで包含するテーマではないか!
そうしてまた、ある刑事の、殺人鬼の子どもはやっぱり殺人鬼か、という
評に対し、「そういう安易な見方がこの悲劇を生んだのだ」とたしなめる。
そうだ、世間の誰もが、殺人を犯したのは父であって、子には何の罪もない
と、必ず認めてくれるような世の中であれば、
和賀英良も自分の過去を抹消しひた隠しにする必要もなく、
三木謙一に抵抗して死に至らしめる必要もなかったのである。
どうにも逃れようのない偏見と差別の構造を、
ハンセン氏病に代わるこの新しい設定も、みごとに表現し得ているではないか、、!

ステージで披露されているピアノ協奏曲は、
ピアニストと指揮者を置いているので、自然に見ることができる。
映画での大きな失敗はここにあった。
主人公のピアノを弾く姿以上に、指揮姿があまりにも拙くて、
せっかく盛り上がりつつある感情が冷やされてしまうのである。
この点はよく反省が生かされていると言えよう。

ただ、父子の逃亡の旅にしては、見通しのいい場所を歩きすぎている。
これが実に残念である。
美しい風景を見せてくれるのは確かにありがたい。
けれども、指名手配中の殺人犯が、あんな優雅な旅をするだろうか?


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