毎日通勤のために電車に乗っていると、 十代の男女とイヤでも乗り合わせるはめになる。 すると、想像を絶するような光景に出くわすことが日常茶飯事である。 むろん、くわえたばこや茶髪やピアス、歩きながらものを食べるぐらいでは、 こちらも驚かない。けれども、プラットホームのコンクリートの床に、 セーラー服姿の女子高生がじかに尻をついて座っている。 しかもあぐらをかいてである。下着をさらけだしている。 車内でも、あたりかまわずへたり込むように腰をおろす。 雨が降っていても頓着しない。 気持ち悪いとか汚いとか感じないのだろうか、と不思議で仕方がない。
こうした疑問は、書き出すときりがなくなってしまう。 夏にルーズソックスをはくのは、暑くないのだろうか。 足はむれたりしないのだろうか。 靴のかかとを踏みつぶして歩くのは、歩きづらくないのだろうか。 雨の日はソックスがびしょびしょになるだろうに。 電車内で化粧をするのは、出かける前に時間がないからなのだろうか。 家で鏡の前に座ってするのと同じように、 車内でも上手にできるものなのだろうか。 それに加えて、ケータイである。 電車の中で会話して、それを周囲に聞かれて気恥ずかしくないのだろうか。 そもそも何をそんなに話したり、メールしたりすることがあるのだろう。
特徴をこう列挙してみると、およそ異人種の習俗・行動だと改めて思う。 異人種というか、まるで珍種のサルを見ているような、、、
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上のは私の文章ではない。正高信男「ケータイを持ったサル」の序文である。 本屋で立ち読みして、まったく同じこと考えてるなぁ、と思ったのである。 さらに私だと、あのちんちくりんのスカートを何とかしてくれぇ、 と言いたいところである。 私服でコーディネートできているならまだ許せる、というか、 むしろ、それがスタイルとも合っていれば賞賛してあげてもいいのだが、 古式ゆかしいセーラー服の下のちんちくりんスカートはどう見ても奇妙だ。 しかも、どんな太さの脚でも見せびらかしたがるのが不思議だ。 30余年前にミニスカートがブームになったころは、 脚の細さに自信のない女性の多くが泣く泣くミニを諦めてくれたものである。 なぜ今の女子高生の感覚は、そういうことはおかまいなしなのだろうか? 恥ずかしくもなさそうだし、視覚的暴力だということにも気づいてない。 そしてそれだと冬は風除けが足りないもんだから、ハーフパンツをはく。 ますます奇妙な格好を得意げにしている。 スカートの下にはみ出るものがあったらイヤなはずなのになぁ、、と思う。 そういえば、男子もシャツがはみ出てないと心地よくなさそうである。 それでいて、私がうっかりシャツを出していると、 先生シャツ出てるよ、とご親切に教えてくれる。
高校生にはまだ少数派だけれど、口元のピアスというのも不思議だ。 子どものころ、口元に米粒つけてると「弁当つけてーどこ行くの〜」と からかわれたものだが、ご飯粒つけっぱなしでいるようにしか見えない。 鼻ピアスなんてのも、鼻くそつけてると思って欲しがってるとしか見えない。
とにかく、得体の知れない異人種の群れなのである。
正高氏はサル学者らしくて、序文を次のように結んでいる。
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結論を先取りして書くと、 現代日本人は年を追って、人間らしさを捨ててサル化しつつある。 もっとも、人間の「人間らしさ」の遺伝的資質が変容しているわけではない。 ただ、人間というのは、放っておいても「人間らしく」発達を 遂げるのではなく、生来の資質に加えて、 社会文化的になかば涙ぐましい努力を経て「人間らしく」なっていく、 サルの一種なのである。 いや、「そうであった」と書くべきかもしれない。というのも、 今や社会の中に「人間らしく」なっていくように仕向ける要因が 消滅しようとしているからである。
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というわけで、しばらくこの本を読んでみようと思ったのだった。
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