「映像の世紀」を第2集から見続けている。 昨夜は、9時50分ごろから2集分の放映だったので、少し遅れたけれど、 市吹の練習から帰るなりビールを手にして見始めた。
過去の様々な問題のひとつを、時間をかけて掘り下げた番組もある。 そういう番組を見て深い感銘を受け、放送局に感謝するときもある。 先日も、アウシュヴィッツに関する番組を見て、ここに書いたばかりである。 「映像の世紀」は、そういうのと違って、駆け足でたどって行く。 それは皮相な描写に終わるのかもしれないが、 見ているうちに、何とも言えぬ哀しみに支配されてしまう。
ひとつの事柄について扱う時間は短いけれども、 目に入ってくるのは、生々しい実写であり、 耳に聞こえてくるのは、的確なナレーションと、要所での哀しいテーマ音楽。 時間的にも地理的にも東奔西走する映像が我々にもたらすのは、 何でいつまでも性懲りもなく同じ悲劇を繰り返してるんだぃ、という思いである。
先日、第二次世界大戦の部について、そんな思いを書いたのだが、 第二次大戦が終わっても、もちろん平和が訪れたわけではなかった。 朝鮮戦争やベトナム戦争のような目立った戦争ばかりでなく、 そこら中で内乱があり、多くの罪のない庶民が死ななければならなかった。 そしてきょうは、核兵器の脅威に抑止された東西冷戦の模様である。 日本は、新憲法によって戦火から遠ざかることができたのだけれど、 世界はそうではなかったし、日本だって、戦火は避けたものの、 明瞭には見えない形でさまざまな戦争に協力してきたのは確かだ。
・・・いや、、日本が、ではない、そうしてきたのは日本の為政者たちだ。 各国だって、特定の国を敵視したり占領しようとしたりしてきたのは、 詰まるところ、その国の為政者たちとその取り巻きであって、 大多数の庶民は、平穏に仲良く暮らすことを願ってきたはずなのだ。 その願いを一時的に歪め、鼓舞し、好戦的にさせたのも為政者たちだ。 彼らはなぜ、国のため、と言って、人々を悲惨へと駆り立てるのか? なぜ、世界を守るため、地球を守るため、人間の幸福のためと言わないのか?
番組を見ながら何とも言えぬ悲哀に包まれてしまうのは、 当代きっての各国の教養人であるはずの為政者たちが、 今もって、そういう広い視野で世界を動かすことを願いもせず、 国家的エゴや、民族・宗教の対立等にかかずらって、 あちらこちらに不幸な民を増産しているという根本的な認識のためである。
そうして、番組とはまったく関わりなく、こんなことも思うわけだ。 この終戦後の60年近い間、憲法の平和主義を貫くために 日本の与党がどんな努力をしてきたと言うのだろう、、? 彼らは、踏みにじるためのさまざまな努力をしてきて、 そうして今になって、現実に合わない憲法を改めるべき、と言い出したのだ。 自らの憲法違反の歴史を、憲法自体に責任転嫁しているわけだ。
|