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■ ◆◇◆風の音 第2話◆◇◆
英生は歩き出した托雄の後を追った。
どうして托雄は僧をやめてしまったのだろう。確かに、明慧寺でのことは今でも鮮やかに思い出せるほど生々しく自らの記憶にも残っている。何より、自分は人を殺めようとしたのだ。きっと托雄よりも、後悔も、悔恨も、後ろ暗さも、自分の方がよほど持っているに違いない。しかし、それらを償うためにも、自分は禅で苦しむ人々を救い、死ぬまで修行を積まなければと考えたのだ。それなのに。それなのに、托雄はなぜ―――― 「英生」 「はい」 「敬語は止めてくれないか。こそばゆい」 「しかし…」 「もう、昔のことは忘れたい、か?」 「そんなわけではございません。あの事件があったからこそ、私はより一層禅への思いが強くなりました。禅は、苦しむ人々を救えます」 托雄は小さく笑った。決して、英生のその言葉を嘲笑うものではなく、どこかひどく淋しげなものに見えた。 「托雄さんはなぜ、なぜ僧衣をお脱ぎになったのですか?ともにあの山で修行に明け暮れた日々をお忘れになったのですか?それとも、あのことで禅への信念が失われたとでもおっしゃるのですか?」 またしても我を忘れそうになる自分に、英生は両手をぎゅっと握り合わせた。托雄はとくに肯定も否定もせず、夕暮れ迫った空を仰ぐように見上げる。そして、しばらく赤く染まった雲を見つめていたが、ふいにその視線を英生に戻した。凛とした強さが、あの頃と変わらずその瞳には浮かんでいる。あの頃、どんなに背徳的な行為に溺れても、その托雄の瞳があれば、なぜか自分は平気だった。若いだけの有り余る欲望の捌け口を互いの身体に見出したに過ぎなかった行為のはずが、いつのまにか情と呼ばれるものがそこに流れ込んでいた。いつも無意識に、視線が男らしくしなやかな背中を探すようになった。あの事件で自分達の関係が吐露しなければ、その後もずっと続いていたのだろうか。この瞳は変わらず、ずっと自分だけを見つめ続けてくれたのだろうか…。
「英生」 ふたたび名を呼ばれ、英生は驚いたように顔を上げる。 「おれがここに来たのは、気持ちに決着をつけるためなんだ」 「どういう…意味ですか?」 問われた托雄は、英生にむけて左手を差し出して見せた。薬指に指輪が嵌っている。それが妻帯を意味することを、英生は下界に降りて知った。 「結婚されたのですか?」 「ああ、4年も前だ。もう坊主じゃないから。お前は?」 「いいえ。生涯、するつもりはございません」 そうか、と呟くように言った托雄は差し出したままの左手で、英生の右手をそっと握った。英生は抵抗こそしなかったが、身を固くする。 「托雄…さん」 「ばか。何もしやしないよ」 再び、少しだけ淋しそうに笑った托雄は、掴んだ英生の手をすぐに離した。 「もう帰るな。悪かった。厭なことも思い出しただろう」 「そんなことは…」 「でも最後に」 最後に頼みがあると、托雄は英生を見つめて言った。
2001年09月29日(土)
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