たりたの日記
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腹水の張り、下痢、熱、食欲不振とあまり体調は好ましくない。午前中ベッドの中で過ごし、午後も昼食の後、音楽を聴きながら、うつらうつらとしていた。
誰かがベッド脇の椅子に座る気配がして目を開くと、なんと懐かしいSさんの顔がそこにあった! 電話がなかなか繋がらないので、会えるかどうか分からないものの、一席だけ残っていた航空券を手に入れ、大分から日帰りで来て下さったのだという。 なんとも、なんとも、申し訳ない。
何年振りだろう。15年振りくらいだろうか。でも少しも変わらないお元気そうな笑顔、とても今年70歳とは思えない。
わたしも起き上がる元気が出てきて、しばらく談話室でお話しする。 彼女との出会いは、日本基督教団の大分地区の高校生会や青年会。青年会の集まりの度に、バナナケーキや人参ケーキを腹ペコの若者達に振舞ってくれた。高校生会のキャンプなどで、彼女のリードするゲームなどがとても楽しく今でも印象深い。 わたし達の結婚式の時にはご夫妻で、証人になってくださった。
わたし達が埼玉に住むようになっても、都内に出てきた時など何度かお訪ね下さり、毎朝のご夫妻の祈りの時間に欠かさずわたし達の事をお祈りして下さっていることも知っていた。そしてSさんの様々な活動のことや、忙しさも。
Sさん忙しさは尋常ではない。平和を創り出す人、地の塩の働きとしての忙しさ。わたしのように歌、ダンス、山、ヨガ、リコーダーといった具合に、ほぼ3年ごとに熱中しては次へと目まぐるしく自分事に忙しくしてきたのとは訳が違う。そんなSさんを誇りに思う反面、思うだけで何も行動してこなかった自分を不甲斐なく思う。
3.11の福島原発の事故の後から、今日まで毎日、朝1時間、夕方1時間、大分市の九州電力の前で、原発に反対する抗議として立ち続けていると聞き、驚いた。
今日は、わたしの代わりにS(お連れ合いのファースト ネーム)が立つ事になっているのよといつものニコニコ顔でさらりと言う。
2時間近く、談話室で一緒に過ごし、そのまま羽田空港に向かわれた。
彼女と別れた後、様々な思いが行き交った。 ネットで、大分九州電力前の抗議行動を調べてみると、Sさんが、10人くらいの方々の中心になって、プラカードを持って立ち、毎日、九電社長宛ての通抗議文を出し続けているという昨年1月の2000回目の日の、写真入りの記事があった。 彼女の生き方を前に言葉がない。
この夜は腹水による圧迫が強く、これまででも一番苦しい夜だったが、Sさんが雨の日も風の日も立ち続ける姿や、何度と行ってきたハンガーストライキの様子を思い浮かべながら、夜の長さに耐え、明け方近く、ようやく眠りに落ちる。
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