たりたの日記
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今日は特別な日だった。 代母のWさん、夫、次男の立会いの元、病室で英神父より堅信の按手を受けた。
英神父より堅信についてのメールをいただいたのは4日前のこと。
「大司教さまより、特別に堅信を授ける許可をもらいました。 できるだけ早い日に、そちらに堅信を授けに行きたいと思います。 ご主人ももちろん同伴してもらえる日時で週末か祝日がよいでしょう」 といくつか候補の日時が挙げられていた。
日曜日に退院になりそうだったので、堅信式は28日の土曜日の午後4時からお願いすることにしたのだった。
カトリック教会では堅信は、洗礼、聖餐と共に秘跡(サクラメント)になっており、司教により按手と香油の塗油がなされる。私たちの所属教会では成人洗礼の場合、洗礼を受け1年後に、堅信を受けることになっている。 夫と私は20代の時にプロテスタント教会で洗礼は受けていて、会衆の前で自分で書いた信仰告白文を朗読するという事はやったものの、カトリック教会でいう秘跡としての堅信は受けていない。 そこで、5月中に3回の準備会に出席し、6月24日に他の方々と共に司教から堅信式を受けることになっていた。
けれど、わたしの場合、5月の準備会も、また、6月24日の堅信式も参加が可能かどうか危うい。そこで、神父の配慮で、今回特別に病室での堅信式が行われることになったのだ。
堅信が信仰告白と異なるのは、自分の決意ではなく、上から与えられる恵みなのだということを今回初めて理解した。洗礼においても聖霊の恵みは完全に与えられるが、堅信においてはその恵みがよりはっきりした形を伴って確認され、「洗礼の恵みの完成」と表現されることもあるということだ。
神父が頭に手を置いて下さる按手は思いの他、時間が長かった。注がれている聖霊をわたしはしっかり受け止めなければ、、、そんなことも頭をよぎったが、その必要すらないのだろう。恵みは受ける側の状態にかかわらず、ひたすら神から人へと注がれるものとしてみれば。 堅信名はマリア・マグダレーナとしていただいた。マグダラのマリア。イエスの弟子として生き、復活のイエスに最初に出会った、あのマリア。
堅信式の後、談話室でしばらく話をする時間も持っていただいた。日曜学校時代のこと、その頃の仲間や先生方、牧師と今も交流があること。 小学校2年生の時、初めて行った日曜日学校でもらったカード、そのカードに書かれていた言葉にガシリと掴まれたという話。
「草は枯れ、花はしぼむ。しかし神の言葉は永久に変わることはない」
男の子と女の子と、風に舞う木の葉の絵が描いてあるカードにはこの言葉が記されていた。 家でも学校でも耳にする事のない永遠という言葉、そこへと繋がるものが、あの時のわたしには必要だったのだ。 それが、ここまで続いている。その都度、その都度、注がれて続けて。
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